島朗 二〇一八年 河出書房新社
去年10月ころだったか、『超越の棋士羽生善治との対話』買ったときに、近くにあったんで手にとったんだと思う。
2018年の出版ってなってるけど、平成8年の単行本の復刊らしい。平成11年の文庫版の内容も加えたということで。
そんなわけで、なかみは平成8年に羽生善治九段が七冠達成したころの話となっている。
そもそもの昭和61年に、著者が森内俊之九段と佐藤康光九段を誘って研究会つくったとこが、書いてあるのがうれしいけど。
サブタイトルのとおり、羽生九段ひとりぢゃなくて、その同世代の何人もをとりあげてるので、森下九段、郷田九段、先崎九段といったメンバーも、いい登場のしかたをしてる。
純粋なるものというのは、その世代のトップ棋士たちの将棋に対する態度をあらわしているわけで、
>大事なのは最高の舞台で、最高の相手と、最高のコンディションをもって、最高の将棋をつくり上げることでしかないのだ。そのプロセスを経て勝つこと。それでこそ棋士の、自分たちの生きている意味がある。
>彼らにとってはカネではなく将棋を通しての自己実現こそがすべてであり、その内容によってのみ将棋を芸術の分野へ引き上げることができるのだと信じていた。(p.54-55)
というあたりで言い尽くされてるような気がする。
でも、羽生さんが前掲書のインタビューで「役割なんてあるんですかねえ」とか言ってるのを読んぢゃってると、本人たちにはそんなカッコよく言葉にするような意識はなくて、でもでも、やっぱ近くでみてるひとにはそれが伝わってくるのはまちがいないってことなんだろう。
本書での著者の羽生九段評は、
>羽生の自然体は、結局のところ“特権意識を嫌う”ことが源泉になっているような気がする。それを求める人が多い社会の中で、棋界の頂点に君臨しながらも爽やかな存在であり続けているのは、そんな思想があるからではないだろうか。
>他の若手棋士にしても、若くしてある分野で頭角を現した人たちにありがちな、うぬぼれがまったくない。そして、その代わりに、純粋性が保たれているということは、将棋界にとって奇跡に近い幸運と言い切れる。(p.157)
ということで、やっぱ純粋ってとこが肝心なんである。
ちなみに、この本は、著者自身が関わってない場面でも、三人称で風景や心理を書いていくので、ちょっと小説っぽく読める。
出てくるのが、事実は小説より奇なりって人々だから、おもしろいんだけど。
羽生九段が、夜の雨の高速で同乗したあと、康光会長の運転する車には乗ってないとか、笑った。(その前も乗ったことなかったらしいが。)
あと、羽生世代というにはすこし年上の森下九段のとりあげられかたがいい味で、性格いちばんまじめそうで純粋っぽいんだけど、羽生世代の面々にくらべると、なんかふつうの人というか俗な感じがしてしまう。
でも、羽生の敗局について後日疑問をぶつけてみたら、「その手で簡単によくなるほど、将棋は狭くないと思うんです」って答えがかえってきたっていうのは、なんか森下九段にとってはツライものあるような気がする。
去年10月ころだったか、『超越の棋士羽生善治との対話』買ったときに、近くにあったんで手にとったんだと思う。
2018年の出版ってなってるけど、平成8年の単行本の復刊らしい。平成11年の文庫版の内容も加えたということで。
そんなわけで、なかみは平成8年に羽生善治九段が七冠達成したころの話となっている。
そもそもの昭和61年に、著者が森内俊之九段と佐藤康光九段を誘って研究会つくったとこが、書いてあるのがうれしいけど。
サブタイトルのとおり、羽生九段ひとりぢゃなくて、その同世代の何人もをとりあげてるので、森下九段、郷田九段、先崎九段といったメンバーも、いい登場のしかたをしてる。
純粋なるものというのは、その世代のトップ棋士たちの将棋に対する態度をあらわしているわけで、
>大事なのは最高の舞台で、最高の相手と、最高のコンディションをもって、最高の将棋をつくり上げることでしかないのだ。そのプロセスを経て勝つこと。それでこそ棋士の、自分たちの生きている意味がある。
>彼らにとってはカネではなく将棋を通しての自己実現こそがすべてであり、その内容によってのみ将棋を芸術の分野へ引き上げることができるのだと信じていた。(p.54-55)
というあたりで言い尽くされてるような気がする。
でも、羽生さんが前掲書のインタビューで「役割なんてあるんですかねえ」とか言ってるのを読んぢゃってると、本人たちにはそんなカッコよく言葉にするような意識はなくて、でもでも、やっぱ近くでみてるひとにはそれが伝わってくるのはまちがいないってことなんだろう。
本書での著者の羽生九段評は、
>羽生の自然体は、結局のところ“特権意識を嫌う”ことが源泉になっているような気がする。それを求める人が多い社会の中で、棋界の頂点に君臨しながらも爽やかな存在であり続けているのは、そんな思想があるからではないだろうか。
>他の若手棋士にしても、若くしてある分野で頭角を現した人たちにありがちな、うぬぼれがまったくない。そして、その代わりに、純粋性が保たれているということは、将棋界にとって奇跡に近い幸運と言い切れる。(p.157)
ということで、やっぱ純粋ってとこが肝心なんである。
ちなみに、この本は、著者自身が関わってない場面でも、三人称で風景や心理を書いていくので、ちょっと小説っぽく読める。
出てくるのが、事実は小説より奇なりって人々だから、おもしろいんだけど。
羽生九段が、夜の雨の高速で同乗したあと、康光会長の運転する車には乗ってないとか、笑った。(その前も乗ったことなかったらしいが。)
あと、羽生世代というにはすこし年上の森下九段のとりあげられかたがいい味で、性格いちばんまじめそうで純粋っぽいんだけど、羽生世代の面々にくらべると、なんかふつうの人というか俗な感じがしてしまう。
でも、羽生の敗局について後日疑問をぶつけてみたら、「その手で簡単によくなるほど、将棋は狭くないと思うんです」って答えがかえってきたっていうのは、なんか森下九段にとってはツライものあるような気がする。