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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

純粋なるもの―羽生世代の青春

2019-01-27 17:39:56 | 読んだ本
島朗 二〇一八年 河出書房新社
去年10月ころだったか、『超越の棋士羽生善治との対話』買ったときに、近くにあったんで手にとったんだと思う。
2018年の出版ってなってるけど、平成8年の単行本の復刊らしい。平成11年の文庫版の内容も加えたということで。
そんなわけで、なかみは平成8年に羽生善治九段が七冠達成したころの話となっている。
そもそもの昭和61年に、著者が森内俊之九段と佐藤康光九段を誘って研究会つくったとこが、書いてあるのがうれしいけど。
サブタイトルのとおり、羽生九段ひとりぢゃなくて、その同世代の何人もをとりあげてるので、森下九段、郷田九段、先崎九段といったメンバーも、いい登場のしかたをしてる。
純粋なるものというのは、その世代のトップ棋士たちの将棋に対する態度をあらわしているわけで、
>大事なのは最高の舞台で、最高の相手と、最高のコンディションをもって、最高の将棋をつくり上げることでしかないのだ。そのプロセスを経て勝つこと。それでこそ棋士の、自分たちの生きている意味がある。
>彼らにとってはカネではなく将棋を通しての自己実現こそがすべてであり、その内容によってのみ将棋を芸術の分野へ引き上げることができるのだと信じていた。(p.54-55)
というあたりで言い尽くされてるような気がする。
でも、羽生さんが前掲書のインタビューで「役割なんてあるんですかねえ」とか言ってるのを読んぢゃってると、本人たちにはそんなカッコよく言葉にするような意識はなくて、でもでも、やっぱ近くでみてるひとにはそれが伝わってくるのはまちがいないってことなんだろう。
本書での著者の羽生九段評は、
>羽生の自然体は、結局のところ“特権意識を嫌う”ことが源泉になっているような気がする。それを求める人が多い社会の中で、棋界の頂点に君臨しながらも爽やかな存在であり続けているのは、そんな思想があるからではないだろうか。
>他の若手棋士にしても、若くしてある分野で頭角を現した人たちにありがちな、うぬぼれがまったくない。そして、その代わりに、純粋性が保たれているということは、将棋界にとって奇跡に近い幸運と言い切れる。(p.157)
ということで、やっぱ純粋ってとこが肝心なんである。
ちなみに、この本は、著者自身が関わってない場面でも、三人称で風景や心理を書いていくので、ちょっと小説っぽく読める。
出てくるのが、事実は小説より奇なりって人々だから、おもしろいんだけど。
羽生九段が、夜の雨の高速で同乗したあと、康光会長の運転する車には乗ってないとか、笑った。(その前も乗ったことなかったらしいが。)
あと、羽生世代というにはすこし年上の森下九段のとりあげられかたがいい味で、性格いちばんまじめそうで純粋っぽいんだけど、羽生世代の面々にくらべると、なんかふつうの人というか俗な感じがしてしまう。
でも、羽生の敗局について後日疑問をぶつけてみたら、「その手で簡単によくなるほど、将棋は狭くないと思うんです」って答えがかえってきたっていうのは、なんか森下九段にとってはツライものあるような気がする。


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免疫の意味論

2019-01-26 18:20:11 | 読んだ本
多田富雄 1993年 青土社
河合隼雄さんの『こころの声を聴く』という対談集を読んで、とても気になったので探していたら、最近になってわりと安価で中古で手に入れることができた、2006年で実に48刷、私が知らなかっただけで、すごいロングセラーだね。
あとがきによれば、もとは「現代思想」に連載されたものだそうで、れっきとした免疫学の本なんだけど、そこは専門の研究者にとどまることなく、誰にとっても刺激的なものである。(私は「現代思想」読んだことないけどね。)
なんつったって、理科の本のようであって、「自己とはなにか」ってこと問題にしてるんである、哲学だ、それ。
>そもそも「自己」とは何なのか。これほど神経質なまでに「自己」と「非自己」を区別する必要が本当にあったのだろうか。「自己」と「非自己」を区別するような能力は、どこで何が決めているのだろうか。その能力に破綻が生じた場合何が起こるのか。「非自己」の侵入に対して、「自己」はいかなら挙動を示すのか。(p.33)
ということが、免疫学の問題なんだという、試験管とか顕微鏡で実験やってるイメージぢゃない、まさに意味論。
調べがすすんだ結果、免疫をコントロールしてるのは、脳とかぢゃなくて胸腺だとわかったが、これは十代前半で最も大きくなったあとは、年とるとともに著しく縮んでっちゃう臓器だという。
そういうのから、老いるとはどういうことかなんて問題も考えさせられるんだけど、胸腺でつくられた細胞のはたらきっぷりなどから、
>「非自己」の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は「自己」の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、「非自己」に対する反応系として捉えるよりは、「自己」の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる。(p.47)
なんてことになってくるんで、やっぱ化け学のつもりで読んでたりすると、己とはみたいな存在に関して振り返ることを要求されてるみたいで油断がならない。
私なんかは、ときどき乱暴になって、人間の身体なんて機械なんだからとか、ケミカルな反応は不可避なんだからクスリにはかなわないしとか、口走るので、ちょっとは反省しなくてはいけない。
アレルギーのところなんかもおもしろい。
>高等脊椎動物の免疫系をここまで発達させた要因は、おそらく環境にいる微生物との間断ない戦いであったと思われる。(略)細菌やウイルスの侵入をあるボーダラインで抑え、微妙な共存関係を作り出すというのが免疫の働きである。その共存関係が急速に崩されていった。先進国は、人類始まって以来の無菌に近い状態となった。あとに残った論理は共存の拒否である。(p.163)
ってのは、これまでに同じようなこと聞いたことあるような気もするが、まったくそのとおりで、「共存の拒否」って強い言葉がいい。
私なんかは自分が目立つアレルギーなんもないのをいいことに、みんな自分が可愛すぎるんでしょ、だからささいな異物でも受け容れることできなくて大騒ぎになっちゃうんでしょ、とか暴言をよく吐くけど。
アレルギーの拒否に関しては、すこし予備知識があったから驚かなかったけど、本書でいちばん刺激的だったのは、その次に出てきた「管(チューブ)としての人間」って概念。
>即物的に見れば、人間は多数の管から成っている。あなたが、たとえば癌の末期になって集中治療室に入れられると、あなたのすべての管は外部の管につながれる。そのときあなたは人間が管の集合体であることを知るであろう。(p.166)
ってのは、ずいぶんすてきな言説だ。なんか、ミミズの進化したものにすぎない、みたいに言われてる気もする。
そっから話は消化管にいって、消化管では常にいろんな外部のものと接してるのに、どううまく対処してるかってことを示してくれるんだけど、
でも、全体としては、やっぱ私にとっては生物の専門書で、カタカナとかアルファベットで細胞とか分子とかの知らない名称が出てくると、つっかえてしまう。
ホントに理解したかっていうと、とても自信がない、学生んときみたいにテストされたとしたら、たぶん解答埋められない。
第一章 脳の「自己」と身体の「自己」
第二章 免疫の「自己」中心性 胸腺と免疫の内部世界
第三章 免疫の認識論 ネットワーク説をめぐって
第四章 体制(エスタブリッシュメント)としての免疫 インターロイキン王国の興亡
第五章 超(スーパー)システムとしての免疫 自己の成立機構
第六章 スーパー人間の崩壊 免疫系の老化
第七章 エイズと文化 RNAウイルス遺伝子の謀略
第八章 アレルギーの時代 あるいは相互拒否の論理
第九章 内なる外 管(チューブ)としての人間
第十章 免疫系の叛乱 自己寛容と自己免疫
第十一章 免疫からの逃亡 癌はなぜ排除されないか
第十二章 解体された「自己」 再び「自己」について
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スペンサーのボストン

2019-01-20 19:31:37 | 読んだ本
写真:熊谷嘉尚/文:ロバート・B・パーカー 1989年 早川書房
んー、ハヤカワミステリつながりってわけでもないし、スペンサーシリーズは読み終えてるんだけど、まあ、おまけってことで。
去年11月ころに、気づいたら地元に越してきたらしい古本屋が開いていて、減ってく一方だった古本屋状況が踏みとどまってくれたようでうれしい。
これは、その気づいたときに、外の均一棚で見つけたやつ。
出版は私がスペンサーシリーズの翻訳の新刊が出るとすぐに買うようになってた時期だが、当時の私は見つけてもスルーしてたと思われる。
今回あらためて中を見てみたら、要はボストンの写真集である。
「スペンサー、ボストンを歩く」というロバート・B・パーカー/菊池光訳の二十ページ余りの文章はあるが、あとはボストンの風景の写真。
ちなみに、その文章は、ある気持ちのいい土曜日の朝に、スペンサーとスーザンと、シリーズにときどき出てくるレイチェル・ウォレスとが、ボストンの街をあちこち歩くというもの、『レイチェル・ウォレスを捜せ』の7,8年後のこと。
これは、書いてある建物の名前とかで、すぐに街並を思い浮かべられるくらいぢゃないと、ホントには楽しめないかもしれない。
地図を見りゃたどれるといってもねえ、いや、やっぱ現地歩いたことないと、わからないものなんだろう。
一度行ってみたいとまでは思ってないけど、どこでも行かせてやるよって言われたら、アメリカんなかぢゃボストン選ぶかもしれない、俺。(レッドソックスの試合観戦つきでおねがいします。)
写真集のほうは、「夏」「秋」「冬」「ミスティック橋を渡って」「ケイプまで一〇八マイル」という章立てになってる。
巻末にインデックスがあるんで、スペンサーシリーズ読んでて気になる固有名詞があったら、すぐその場所の景色探すこともできるんだろうけど、そこまではしない。
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風が吹く時

2019-01-19 18:38:51 | 読んだ本
シリル・ヘアー/宇野利泰訳 昭和30年 ハヤカワ・ポケット・ミステリ
これは、去年バカンの『39階段』を探しに行ったときに、たまたま見つけて、思わずすかさず買ってしまったもの。
ほんのいくつか読んだだけだけど、シリル・ヘアーはとてもおもしろいので、聞いたこともないタイトルだけど、かまわず手に入れた。
原題「When the Wind Blows」は1949年の作品だというけれど、その古さがまたいいんだ、これが。
書かれてる物語の舞台も同じ時代のもので、戦後何年かしたところのイギリスのマークハンプトンとかいう地方都市。
弁護士のペティグルウは、だいぶ年下の女性との結婚と同時に、ロンドンの司法官生活をきりあげ地方都市に移り住んできた、年配の弁護士。
その妻エリナアは、音楽が趣味で、街の管弦楽協会の第二ヴァイオリンを受け持つことになり、その余波でペティグルウも楽団の事務的なことを手伝うようになる。
楽団の責任者はパセット夫人で、セロ奏者だが、それよりなにより社交に熱心、貴族社会のゴシップとか大好きなタイプ。
書記長のディクスンはさる子爵につながる血筋で、演奏はできないし音楽愛好家ではないが、出演する音楽家の人選や折衝は完璧にこなす。
指揮者のエヴァンズは、ひどい近眼なんだが、音楽家としての才能はすごく、演奏のことに関しては誰も逆らえない。
オルガン奏者のヴェントリイは、腕はそれほどでもないらしいが、楽器の蒐集に熱心で、金持ちなんで楽団に貢献してるけど、女性関係にせっそうがないことがだんだん明らかになってくる。
とかなんとかで、11月に行われる今シーズン最初の演奏会には、ポーランド生まれで現在英国国内にいるなかでは屈指のヴァイオリニストのルウシイ・カアレスを迎えて行うことになるわけだが。
もう、序盤を読んでるだけで、誰が何の理由で殺されるのか(殺されるんだろうな、きっと)想像するだけでわくわくする。
期待にたがわず、演奏会の最中に会場のなかで人が殺され、大騒ぎになるんだが。
凝ってるよぉ、舞台装置が。
演奏会前の午後の稽古場で、ヴァイオリニストのルウシイが、同じくこの日呼ばれたばかりのズバルトロウスキイというクラリネット奏者と、顔をあわすなり壮絶な罵り合いして、クラリネットが足りなくなる。
あちこち電話して探しあてたジェンキンソンという奏者を急きょ呼ぶんだが、駅で迎えの自動車に乗れなかったらしく、会場に時間までに着かず。
オルガン奏者のヴェントリイが本番に遅刻したので、演奏プログラムの順序が変更されながら進む。
足りなかったクラリネットの場所には、途中からひとりの奏者が入ってきたんだけど、事件後には姿を消して、周りも誰だかはっきり見ていない。
かくして、地元警察が関係者に事情聴取したりして捜査を進めてくんだけど。
警察部長のマックウイリアム氏は、ペティグルウに、あなたはロンドン警視庁のマレットと知りあいでしょ、とか言って協力を求めてくる。
そんなことで、トラブルに巻き込まれたくないペティグルウだったけど、捜査はしないが、事件を推理する探偵役になってしまう。
謎解きもお見事、そういう動機でって驚かされるようなとこも、旧き良きイギリスって感じだし。
それよりなにより、ペティグルウの推理の糸口が、演奏会の前夜祭で参加者のひとりと交わした会話で、ディッケンズが嫌い、デイヴィド・コパーフィールドが一番嫌い、ってとこから来てるってのが、すばらしく味がある。傑作。
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大きなお世話

2019-01-14 18:34:21 | 丸谷才一
丸谷才一 1978年 文春文庫版
この文庫は、去年7月にたしか地元の古本屋の均一棚で見つけた。
いいんだ、状態がなんだろうと、見つけたときに手に入れなきゃ、きっと絶版なんだろうから。
古いよー、これ、なんせなかみは1969年6月から71年6月まで「アサヒグラフ」に連載したものだという。
だからなのか、ひとつひとつはけっこう短い、文庫で3ページくらい、話題脱線させてるひまもないような感じ。
ちなみに、文章も旧仮名ではない、なんだかおかしいね、旧いほうが新仮名で新しいもののほうが旧仮名ってのも。
とにかく、だから時事ネタもふるい、三億円事件の一年後に26歳の男性が別件逮捕されたのちさんざ騒がれたとか、知らなかった。
そうかとおもえば、元号の改元ネタなんてのもあって、1970年に書かれたものだけど、偶然いままさに改元の年に読むことになるとはなんか感慨深い。
もはや世界中で日本にしか残っていない元号だが、存続論者は元号によって時代相がイメージできるのがいいというんだけど、それは「祝儀不祝儀のたびに元号を変える」から意味があったんだという。
>ところが一世一元なんて、たかが一個人の生理にもとづいていたのでは、うまい具合に時代を追いかけることは不可能である。逆に言えば、一世一元ということを決めた明治の政治家たちは、あれこれと有能ではあったかもしれないけれど、なにぶん成上りの悲しさで、一世多元という仕掛けの持つ「文化」的「意義」がわかっていなかった。(p.196「一世多元のすすめ」)
という意見はさすがだ、祭祀儀礼が専門の朝廷のもつ奥深さを維新のひとたちが理解できないのはしかたないのかも、まあ、そのへん、天皇の恋歌をやめさせたという恨みも丸谷さんにはあるんだろうけど、明治政府に対しては。
でも、そのあとに、本来なら、関東大震災のあととか、戦争で敗けたあととか、すぐに改元すべきだったと言われると、たしかにそうかなという気になる、それで前後で時代が変わったってのが鮮明になるから。
歴史のからむ文化だけでなく、例によって、国語問題についても、この時代から一貫しての批判をしている。
東京大学の入試制度調査委員会が昭和46年からの方針を出したとこで、国語の試験を現代文だけにしようとしているのに反対してる。
>いったい国語というのは、一国の文化の基盤であるだけではなく、また、その最高の表現である。しかもそれは、過去から現在を経て未来へと伝わってゆく連続体で、過去のなかの最良の部分が規範となって、末世の精神と感覚を正すような具合に出来ている。一国の言語は、そういう伝統主義あるいは古典主義によって常に養われ、支えられているのだ。そして知識人はいつも、自国の文化の伝統によって、洗練と力強さとを身につけながら生きてゆかなければならぬ。(p.329「レジスタンス的出題」)
という意見、すばらしいと思う。
これに呼応するかのように、巻末の解説において百目鬼恭三郎氏が、丸谷才一のエッセイには教養がいっぱいということに関して、
>むろん、ここでいう教養とは、社会科学用語を取り替え引き替えしながら、マルクス主義から構造主義へと飛び移るというようなことではない。過去の重層的な文化遺産を正しく受けとめて、それを未来へつなごうとするありかたをいうのである。(p.344)
と書いていることも興味深い。
過去から学び未来に責任をもつ態度ぢゃないと、文化ってのはその場限りの安っぽいものになってしまう。
日本語について、ひとつおもしろい章があって、1969年の大晦日と思われるが、国鉄が「初日の出エック」という新宿発成田行きの商品を売り出すんだが、英語に詳しい著者でもエックの意味がわからないと。
「excursion」の略ではないかとあたりをつけたら、「エコノミー・クーポン」を略した新語だというんで、もう「どこの馬の骨かわからぬ言葉」とか、「一体に最近の国鉄は言語感覚がおかしくなったのではないか?」とか、ケチョンケチョン。
まあ昔国鉄いまJRは、たしかに言語について独特のものあって、日本語は英語の動詞は輸入できないってのが相場なのに、ディスカバー・ジャパンとか平気でやったりする実力がある。
どうでもいいけど、私が最近気になってしょうがないのは、電車とホームが混んでるときに「次の電車もあわせてご利用ください」って言うんだ、あわせて利用はできないと思うよ別々の電車。
どの電車でもどの駅でも同じこと言うから、たぶん個人の口ぐせではなくマニュアル化されてるアナウンス、謎だ、たぶん次の電車にするという案もあわせて検討しろの意ぢゃないかと思うんだが、気になると耳障りでイラつく。
閑話休題。
丸谷才一は、小説は風俗を重視すべしというんだが、本書のなかに、風俗の定義があったので、思わずメモってしまう。
>ここで話をむずかしくすれば、一般に風俗とは倫理の現象形態であり、一方、法とは倫理の最低限の表明である。これをわかりやすく言うと、たとえば人名の尊重という倫理があるからこそ、葬式という風俗があり、殺人の禁止という法があるわけだ。(p.132-133「法と倫理と風俗と」)
うーむ、よくわかってないかもしれないけど、とりあえずおぼえておこう。
本書の構成は単純な時系列ならべぢゃなくて、だいたいのテーマ別なんで、大まかな章立ては以下のとおり。
》男と女の世の中《
》犯罪学の勉強《
》乱世風俗考《
》ちょっと学問的《
》昔は床屋でしゃべったこと《
》荒っぽい話《
》あれこれ教育論《
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