辻󠄀静雄 昭和五十七年 新潮文庫版
タイトルはルビふってあって、「パリのれすとらん」と読む。
著者の名前は一点しんにょうなんだが、いまふつうの入力変換では二点しか出てこないのにはちょっとおどろいた。
著者の辻󠄀さんの名前は、丸谷才一の随筆でときどき出てくるので、何か読んでみたいと思ってたんだが、おめあての『料理に「究極」なし』が見当たらないのでとりあえず、これ去年秋に地元の古本屋で買ってみた。
てっきり随筆集かなんかだと思い、それらしき題名だななんて中身も見ないで買って、しばらく放っておいたんだけど。
いざ読んでみたら、そうぢゃなくて、ホントにタイトルそのまんま、レストランのガイドブックでした、ちょっと期待外れた。
レストランに関する逸話を語るとかっていうよりも、住所も電話番号も書いて、店の外観の写真もついてる、まさに案内書。
ミシュランでは何年から星がいくつなんて言われても、絶ーっ対行くわけないんだから私には関係ない。
単行本が最初に出たのは昭和47(1972)年ということで、その後なくなっちゃった店も含まれてんだが、そういうのを削ったりしないとこはいいけどね。
冒頭の「パリの料亭小史」という一節では、ルイ15世の統治下1765年ころにブーランジェというひとがバイユール横丁の店でスープを売ったのがレストランのはじまりだ、いや諸説あって、プーリ横丁に1766年に開店したシャン・ドワゾーこそが最初のレストランだ、とかって話があって、そういうのはなかなかおもしろい。
肝心の料亭案内は、31の店がとりあげられてるけど、料理の説明されても、あまりピンとこないのでしょうがない。
料理名がカタカナで長いとな、なんか食欲わかないんだ、これが。
>ナンフ・ド・グルヌイユ・オー・トリュッフ・エ・オー・クーリ・デ・ドモアゼル・ド・シェルブール(西洋松露と、エビの香りのきいたソースをかけたカエル料理)
とか、
>キャナール・ソーヴァージュ・オー・ジュイートル・ア・ラ・ファソン・アントナン・キャレーム(野鴨にカキを詰めた料理)(p.74-75「トゥール・ダルジャン」)
とかって言われてもねえ、なんのおまじないだか。
つくりかたも簡単に紹介されてたりするが、鴨をつぶして肝を取り出してローストして中はほとんど生のままで、なんてのは聞かされても、あたりまえだが自分で再現できるわけでもないのでスルーしちゃう。
だってえ、どうやら味覚も違うんだもん。
>あれだけの立派なフォワ・グラやトリュッフをふんだんに使っていれば、この世の粋を堪能できるわけです。ただし、これは真のフランス人の食べるフランスのフォワ・グラで、これがわかって味わえるようになれば、食通としても一人前の仲間入りをすることにもなるといえましょう。(p.209「ラマゼール」)
だそうだけど、知らないって、そんなこと。
でも、
>よくフランスへ行っておいしい肉にめぐりあえず、たいしたことないという印象を持って帰って来られる方がありますが、肉に対する考え方が根本的に日本人とフランス人は違うのだということをご存知ないからかもしれません。あちらの肉はどちらかといえば嚙みしめれば嚙みしめるほど、おいしい味が出てくるのが身上で、ただ口当りが柔らかいだけがよいといった日本人のビーフ・ステーキの観念とはほど遠いものです。(p.219-220「コション・ドール」)
みたいな話だと、ちょっと食べる機会ないもんかなと思ってしまったりする。
コンテンツのレストラン名のカタカナを31個ズラっと並べてもしょうがないので、そういうのをここに書いたりしない。
巻末に「解説」代わりに「蛇の足」と題した開高健の短文がある。
丸谷才一 一九七五年 朝日新聞社
また古い文藝時評を出してみたりして。
これはたしか2018年の11月に神保町の古本まつりで手に入れたもの。
最近になって、やっと読んだ、ついつい文藝時評なんてものはむずかしそうに思えて後回しにしてしまう。
でも、読んでみたら、そんなに手ごわいものではなく、それは本格的な評論っていうよりも、新聞連載されていたものでフツーの読者向けだからなんだろう。
朝日新聞に1972年12月から1974年11月まで48回連載したもの。
いただけないのは、目次見たときからアレッて思ったんだけど、各章にタイトルがなくて、「一九七二年十二月」「一九七三年一月」って無味乾燥に月が並んでいるだけってこと。(各月が「上」と「下」になってるんで2年間24か月だけど48回連載分。)
丸谷さんには、おや何のことだろうと思って読みたくなる、シャレたタイトルでもつけてほしかったんだけど。
それはいいとして、なかみは、読んでくと、個々の作品についてっていうより、日本文学全般にかかわるようなことの論点がおもしろい。
たとえば、
>昭和十六年、石坂洋次郎の長篇小説『何処へ』が発表されたとき、伊藤整はまことに優れた批評を書いた。(略)
>伊藤は言ふ。ちようど標準語といふものがあるやうに、今の日本には標準小説とも称すべきものがあつて幅をきかせてゐる。作家はみな、その標準小説を書かなければならないといふ義務ないし恐怖を感じ、標準小説の型に従つて筆をとつてゐる。(略)
>彼は、日本自然主義とか私小説とか、そんな剣呑な言葉はちつとも使はずに、一世を覆つてゐた文学趣味を的確に衝いた。(p.100-101一九七三年九月)
とか、
>正宗白鳥が夏目漱石や横光利一を論じて、趣向があることを咎め立てしたのでも判るやうに、それは私小説と自然主義の厭ふところだつた。おそらくかつての新文学は、硯友社およびそれに先立つ江戸の戯作に激しく反撥するあまり、師匠筋の西欧文学にも趣向が歴然とあることを見落して、つひに、一切の趣向を嫌ふ傾向をわれわれの文学の主張としたのである。(p.123一九七三年十一月)
とかってあたりは、小説家らしき主人公をたてて個的な体験をつづるのこそが純文学で、そうぢゃなくて面白いものは通俗小説だ、って決めつける日本文学界へ警鐘なんぢゃないかと。
小説論だけぢゃなくて、御自身もいままさにやってる批評についても、そのありかたについて厳しかったりして、
>惜しまれてならないのは、彼が一篇の詩、さらには詩の一行に丁寧にこだはる結果だらうか、筆の運びが均質に細かくなりすぎて、われわれの詩の状況についての巨視的な展望が同時にもたらされてゐないことである。この現代詩の鳥瞰図は五万分の一の地図を一ダース並べて出来てゐる。批評家はときとして、もつと大まかに筆を使はなければならないのに。(p.179一九七四年四月)
とか(注:言ってるのは、菅野昭正の『詩の現在』についてのこと)、
>(略)たとへば大岡昇平の『歴史小説の問題』(「文学界」六月号)。これは、主題の性格上ある程度やむを得ぬこととは言へ、あれもこれもと話を欲ばりすぎて評論としての整ひはよくないが、多年の関心に裏づけられた鋭い指摘が随処に見られる好論であつた。(p.185一九七四年五月)
とかって、批評の書き方を批評したりしてる。
さらに、文芸雑誌とかが、評論文をのっけんぢゃなくて、やたら対談とか座談会を用いるのは、
>現代日本の文芸評論には、堅苦しさや重苦しさや鹿爪らしさがどうしてもつきまとふのである。批評家は理屈を言ひ、皮肉り、見えを切り、叱りとばし、罵り、歌ひあげ、とぼけ、開き直り……つまり総じて言へば芸のありつたけを見せてくれる。だがそこでは、何か不自然なもの、構へた感じが、いつも文章にまつはりついてゐて、人間の自由な息づかひが乏しくなりがちなのだ。(p.216一九七四年八月)
というように、批評の書き方が未成熟だからなんぢゃないかと指摘してたりする。
さてさて、むずかしい文学論はおいといて、読んでみたくなってしまった本としては、
>これだけ短くてしかもこれだけ完璧な短編小説は、人並はづれて才能の豊かな作家の長い文学的経歴においても、ごく稀にしか書けないものではなからうか。奇蹟的な傑作である。わたしはただそれだけを言つて、口をつぐむ。(p134-135一九七三年十二月)
と紹介されている、吉行淳之介の『鞄の中身』。
丸谷さんは、ホント、ホメかたじょうずなんだから。
もうひとつは、
>まことによく出来た短篇小説で、これが人生だ、ここには人生のすべてがあるとつい言ひたくなるかもしれない。しかしもちろん違ふ。ここにあるのは、社会にも超越的なものにも視線がゆくことを禁じ、市井の色恋沙汰だけに関心を限定しようとする、ある種の抒情的な文学の型、しかしずいぶん完成された、そして極めて趣味のよい型である。(p.183一九七四年五月)
と「かういふきりりと引き締つた作品の筋を紹介するのは手に余るけれど」なんて言いつつとり上げている、和田芳恵の『接木の台』。
これについては、前回の百目鬼さんの辛口な『現代の作家一〇一人』のなかでも、
>和田芳恵の四冊目の短編小説集「接木の台」が出た。小説技法のうまさ、人生省察の深さ、ともに驚嘆すべき境地に達した作品集である。
なんてホメられてんで、読んでみたくなっている。
百目鬼恭三郎 昭和50年 新潮社
これは去年11月の馬車道まつりのころ古本屋で買ったもの。
タイトルが「現代の」ったって、昭和50年、1975年だもんねえ、私の日本文学もそのへんで停まってるのかもしれない。
著者の百目鬼さんは、丸谷才一の随筆のなかでもあちこちに登場するんだが、この本はどこに紹介されてたか忘れた、ただ見つけたときは、あったーと喜ぶくらい書名だけはおぼえてたんで。
丸谷さんの『猫だつて夢を見る』のなかの「ガンバレ考」(p.32)では、
>(略)実は、百目鬼さんは古くからの友達である。何につけても詳しい人で、知らないことはないが、殊に日本語にかけては生き字引みたいなものだ。
と語彙豊富な丸谷さんからスゴイ誉め言葉をもらってるんだが、それだけぢゃなくて、
>世に外柔内柔の人は多い。外剛内柔の人はかなりゐる。しかし百目鬼さんのやうに、外剛にしてかつ内剛、他人にも自分にも等しくきびしい人は稀にしかゐないのではないか。
と姿勢を評価されている。
そういうひとの書く批評だから、キビシイよぉ、そんなこと言って大丈夫なのって調子がポンポン出てくる。
パラパラとめくってみるだけでいくつか抜いてみると、
>この人は、もう少し小説作法を勉強する必要があるようだし、また、この人間不信のエリート意識を、もう少し捨ててもらいたいものだ。(加賀乙彦)
とか、
>女流には難解な作家が多い。倉橋由美子、大庭みな子、森万紀子、金井美恵子、高橋たか子、津島佑子などの作品は、自然主義リアリズム文学に慣れたわれわれ一般読者には、なにを書いているのか見当もつかないほど難解なのである。(河野多恵子)
とか(これって別に悪口ではないのかなとも思うが、「なにを書いているのか」まで普通は言わないのでは)、
>昨年(昭和四十八年)末に刊行された長編小説「われら戦友たち」が、惨めな失敗作であるにもかかわらず、すでに二十五万部も売れているのは、作者の人気のおかげであろう。(柴田翔)
とか、
>そして、庄野がやたらに文学賞をとるのは、このたしかな芸が文壇の老人連中のお気に召すからである。猥雑な新文学をきらう老人たちにとって、庄野の文学は一種の解毒剤と観じられるのだろう。身辺雑記が小説の傑作ともてはやされて大家となる。日本の文壇はふしぎなところだ。(庄野潤三)
とか(これは当該作家に対してではなくて文壇の御意見番たちへの啖呵だからいいんだけど)、
>次にあげられる欠点は、文章に味のないことだろう。自伝を読むと、三浦の文学修業といえるのは、アララギ派の短歌作りであったようだ。真実の追求に熱心だが、ことばの美しさを軽視しがちになるのが、この派の欠陥である。自伝にのっている短歌をみる限りでは、三浦もまた、真実を吐露しさえすれば芸術になると素朴に信じている一人ではなかろうか。(三浦綾子)
とか、攻撃のしかたが容赦ない。
本職は新聞記者だったそうだから、文壇のおえらいさんとケンカしたって困らないから言えるんだろうが、まあ内輪のホメあいケナシあいよりは面白いからよい。
しかし、いくらなんでも、
>永井が「黒い御飯」という短編をもちこんで、菊池寛に激賞されたのは十九歳のときである。それから五十年間というものは、作品を発表するたびにきまって「短編の名手」とか「名人芸」といったほめられかたをし続けてきたのだ。よくもこれであきテンカンにならずに済んだものだと感心させられるが(略)
ってのに至っては、そんな言葉知らなかったが驚いた。
ときどき、作家本人ぢゃなくて、そのほかの「現代」の傾向についてもグサグサ言ったりして、
>ちかごろの新人たちが、型にはまった疑似リアリズムによりかかり、文学以前としかいいようのない文章で書きなぐっている推理小説とは、なんというちがいであろうか。(結城昌治)
なんて調子で、まあ「一〇一人」に選ばれてる人たちは、ほかの箸にも棒にも引っ掛からないひとに比べたら、批評されるだけでもよしということなんぢゃないかと。
読む側にも苦言を呈してて、
>歌謡大賞だのレコード大賞の類をテレビでみていると、他人事ながら腹立たしくなる。音楽と関係のない、人気という泡みたいなものを尺度にして評価、格付けされているようにみえるからだ。
>思うに、いまの大衆文学に対する評価もこれに近いのではあるまいか。
で始まる一節では、「要するに、人気の差にすぎないのだが、世間はそれを実力の差ととり違えがちなのである」として、
>が、それくらいの欠点で、村上の小説が読まれないというのはおかしい。いまは、小説に限らず、ものの作りかたのうまさということがわからなくなっている時代なのであろうか。(村上元三)
と嘆いている。
個々の作家論ぢゃなくて、文学について興味をもったところでは、
>だいたい、良家の子女だから人生の陰影がみえないはずだ、などときめこんでいるところが、いかにも自然主義文学的な発想で、これでは、実人生で苦労したことのない人間は文学が書けないということになってしまう。事実、これまで日本の文学は、そういう尺度で測られてきた傾向があるのだ。(曾野綾子)
として、実人生の苦労と文学の深さは直接関係があるわけぢゃないと説いてる。
丸谷さんの評論なんかでもそうだけど、たしかに、深刻ぶって例えば自分の恥ずかしいところを告白したりすんのが文学かっていうと、それはちがうと思う。
同じとこで、
>戦前までの、東京の伝統文化の中核をなしていたのは、人間性をいかに趣味よく包み隠すか、ということであった。つまり、人間性をむき出しに主張する自然主義文学とは、本質的に異質の文化なのである。自然主義文学の担い手が、主に地方出身の青年たちであったことは、これと無関係ではあるまい。
なんて言ってんだけど、それって、よーするに、日本の自然主義文学ってのは、粋ぢゃなくて、ヤボだってことなんですよね。
コンテンツは、五十音順に作家の名前101人なんだが、めんどくさいのでここに並べたりしない。
ただ巻頭に「この本の宣伝のための架空講演」と題したまえがきがあるんだけど、こいつはすごくおもしろい。
きのう、学生のときの関係のOBOG会ってのがあったので、出席した。
そのテのものに顔をだすのは、実にひさしぶり、たぶん30年ぶり。
同期生はじめ、卒業生のみなさんには、ほかの機会でもまったく会っていないので、やっぱ30年ぶりに会うこととなった。
なんか緊張した。
出かける前に、押入れから見つけた昔の資料をいくつか見て、すこしだけテンション上げてったんだけどね。
学校そのものにもずっと足を踏み入れてなかったんだが、基本配置は同じだけど新しくなってたような場所もあった。
高校までとちがって、ホームグラウンドとなる決まった教室があるわけでもないし、
けっこう居場所がなかったりしたもんだけど、よく行った場所は ↑ここと ↓ここだったかな。
次回は4年後だそうだが、はたして私は何をしているのやら。
デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳 2010年 ハヤカワ・ポケットミステリ
去年の秋に神保町へ出かけたときに買った古本のポケミス。
これ読もうと思ったのは『快楽としてのミステリー』で丸谷才一が、
>表紙もいいが小説もすばらしい。レニングラード攻防戦を背景にした冒険小説だが、景気よくて泣かせてエロチック。ベニオフといふ名は記憶に価する。わたしは夢中になつて徹夜した。忙しい人は手に取るな。
とほめているからで。(初出は2010年の毎日新聞での短評。)
表紙うんぬんというのはポケミスの装丁担当者が代わっての第一弾がこれだということなのでどうでもいいが、「忙しい人は手に取るな」って薦め方には恐れ入った、私はひまだからよかった。
ポケミスなので、勝手にミステリ≒謎解きものだと思い込んで手に取ったんだが、全然ちがった。(よく見ればちゃんと丸谷さんが「冒険小説」と言ってるんだが。)
それに丸谷さんの本から導かれたときのくせで、勝手に古い時代のもんだと思い込んでたんだが、それも大違い、2008年の作品、原題は「CITY OF THIEVES」。
「泥棒たちの都市」とは何ぞや、やっぱ泥棒と探偵ものなんぢゃないのなんて思っちゃうんだが、そうぢゃない。
>ヒトラーは、突撃隊の将校に向けた演説で「ボルシェビズム発祥のあの泥棒と蛆虫の市」と呼んだピーテルを征服したら(略)
ってとこが作品中にあるように、物語の舞台であるレニングラードを指している。
第二次世界大戦のヨーロッパでの戦いについては私はろくに知らないんだが、レニングラードをドイツ軍が包囲してた1942年の話。
冒頭で作者である34歳になったベニオフが、フロリダに住む祖父母を訪ね、当時の話を聞かせてくれって頼むプロローグがあるんだが、その祖父レフ・ベニオフが語るのは彼が17歳だったときの話。
どうでもいいけど、この序章のおわりの「おまえは作家だろうが。わからないところはつくりゃいい」ってセリフは、なかなかいい、記憶に残る。物語の最後のセリフもいいけどね。
物語本編は、祖父の語ったとおりという態なので、17歳の少年なのに「わし」という一人称で回想してる、ちょっとおもしろいつくり。
レニングラードがどこにあってどんな歴史あるかも私は全然知らないんだが、登場人物のロシア人たちは、その街をピーテルって愛称で呼ぶ。
サンクトペテルブルグが古い名前だったからなんだけど、ソビエト連邦になったときに名前が変えられて、うっかりピーテルなんていうと、共産党政権にしょっぴかれる恐れがある、前の皇帝を支持してんのかって思想犯扱い。
ひどい話だ、革命とかいって、やってることはさらに自由を束縛する新たな帝国主義の建設なんだよね。(明治の世に、「こちとら江戸っ子でい」と言ったからって、維新政府に捕まるなんて考えらんないが。)
で、とにかく状況としてはドイツ軍に攻められてて、食い物もろくにないんで市民は大弱りしている、しかも季節は冬で寒い。
いくらナポレオンを追い返したこともある冬の寒さはロシアの武器だとはいえ、住んでる当人たちが凍え死んぢゃったらしょうがない。
主人公の「わし」の運命は、あるとき死んでるドイツ兵を見つけたときから転がりだす。
そこで装備のナイフとかを略奪してるところを自国の兵士につかまり、秘密警察の大佐なる人物のところにつれていかれる。
前夜に監房で知り合った、脱走兵といわれるコーリャとともに、大佐に命令されたのは、大佐の娘の結婚式のケーキのために卵を1ダース、5日後の木曜日までに持ってこい、というもの。
これが邦題の由来となってんだが、わかってしまえば邦題はわかりやすい、最初は何のことかと思ったが。
相方のコーリャ(ニコライって名前だけどコーリャって呼ぶ)は、とてもおしゃべりで、こっちは深刻だし疲れてるしってときでも、どーでもいーよーなことをベラベラ語り掛けてきて「わし」をさんざイラつかせる。
でも誰に対してでも一歩も引かない度胸があって、その相手にそんなこと面と向かって言ったら命がいくつあっても足りゃしないんぢゃ、ってことを平気で言う。
二人はピーテル市内ではヤミ市も含めてどこにも卵なんてないことを再確認して、前線を越えて郊外へ出ていく。
市内でも危険はいっぱいあったが、街の外へ出たらいつドイツ軍にやられるかもわからないなかで、卵をめぐる冒険をつづける。
ただ敵を倒せとか祖国を守れとかってんぢゃなく、ばかばかしい命令のために死線をくぐりぬけてくって戦争の書き方は、けっこう刺激的で、さすがに徹夜はしなかったけど、次は次はとおもしろく読み進むことができた。