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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

いつだって大変な時代

2011-07-30 18:39:23 | 堀井憲一郎
堀井憲一郎 2011年7月 講談社現代新書
ホリイ氏の書くものは好きなので、新しいのが出たって知ったら、なるべくすぐ読むようにしている。
それにしても、ずいぶんとマジメなものを書くようになったんだなーって、思ってしまった。(スイマセン、ナマイキな言い様で。)
私がホリイ氏に魅かれたのは、アクションの欄外コラムとかで、たとえば「電車の先頭車両で運転席の後ろから進行方向を見ている人の90%は男性である」(だっけ?)みたいなのが好きだったからなんだけど、「若者殺しの時代」から落語を通じた江戸時代の人間の生きざまの考察を経て、ずいぶんとマジメなところにいま来ていると思ったもんで。
どんなときでも、ひとは自分の置かれてる時、いま現在を「いまは大変な時代だ」と称する。
それって、いまが大変なときだから、そこに生きている自分は特別だ、とか、がんばってる自分は偉い、とか、そういう思想が根本にあるから出てくるんぢゃないのかと。
そういうことすぐ言うひとは、自己愛の固まりっていうか自己中心主義で、実は危ない考え方なんぢゃないかってとこを、突いてきてる。
自分はデータを集計した結果を用いたコラムを書いてたのに、それはそういう手法をとると人が耳を傾けやすいからだって吐露して、そういう一見科学的な物言いに人は騙されちゃいけないと指摘してる。
その対極にあり、ホリイ氏自身が信じるのは、江戸の生活を分析した末につかんだ「身体性」である。アタマより身体、そして自己の経験を大事にする。
たとえば、梅雨入りとか梅雨明けとか気象庁とマスコミは騒ぐけど、もしかしたら梅雨って西日本だけの現象なんぢゃないかと疑ってみる。東京で草野球をやってれば、6月より9月のほうが雨で試合中止になることが多い、とか急にわかりやすい言い方をしてくれるのが、あいかわらず面白いところ。
学生にラーメン屋のレポートを書かせると、そいつの素質がわかる。優秀なのは、自分でうまいと思ったかどうか感想を書く。表現に慣れていない者ほど、店の外観がどうとかスープの種類がどうとか書いて終わる。どっか(ネット上とか?)に客観的な正解のようなものがあると思いこんでるんぢゃないだろうか、使える情報ってのは、情報発信者の個人的な気持ちが自覚して入ってるものだと。
もうひとつ、キーワードになると思うんだけど、「気分」で何かをいろいろ言う連中を批判している。まあ、これはあちこちに出てくることなので、もう何回か読み返したら、私も頭んなか整理して説明できるかもしれないが、いまはうまくまとめらんないな。
うん、で、とにかく、このひとは、自分で考える人間、なんだなと今回あらためて強く認識した。
著者の言ってることがいつだって正しいかどうかなんてわからないけど、適当にもっともそうなこと言って、現状を批判ばっかりするか、それこそ大変だ大変だって騒ぐだけで、誰かがリードすればみんなで右向け右・左向け左みたいな情報の流し方をするメディアに囲まれてると、そういうひとの書いたものを読むのは、とても気分がすっきりするんである。
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談志 最後の落語論

2011-07-29 20:36:01 | 読んだ本
立川談志 2009年 梧桐書院
こないだ立川志らくの落語論を読んだんだが、そうなると、そこにもいくつか引用されてたこともあるし、談志家元の落語論を読まないわけにはいかなくなって、あわてて読んだ。
“いい芸”とはどんな芸を言うのか。ざっくばらんに言うことはできる。それは「江戸っ子の了見に合うもの」であり、つまり「桂文楽」となる。
落語とは何だってことについては、こう言い切る。
寄席という、独特の空間で、昔からある作品を江戸っ子の了見で演る。己のギャグ、自我、反社会的なこと、それらを江戸の風の中で演じる。
「江戸の風」、かっこいいですねぇ。ただ、昔の名人を知らない私には、ピンと来ないのもたしかですが。
「落語とは、人間の業の肯定である」ってのは、よく知られた家元の言葉ですが、この本では「自我」についても一章を割いて書かれてます。
落語ほど自我を肯定しているものはないよォー。で、落語によって自我を揺さぶられた奴が、落語通となる。
いろんな落語のなかに、自我の集大成であるかのようなフレーズがあって、そんなワンフレーズを確認するのが落語通の楽しみであって、でも、それはわかるひとにしか、わかんないんである。
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GLAD ALL OVER

2011-07-27 23:44:36 | 忌野清志郎
忌野清志郎&仲井戸麗市 1994年 東芝EMI
きのうのつづき。
1994年8月13日の日比谷野音ライブ。
いいですねー、夏の野音。(クリスマスは武道館。)
暑い時期に聴くと、いっそうリアリティーがあります。
CDは3枚組です。
2枚目と3枚目は、RCサクセション全盛の雰囲気があって、貴重です。
(「よぉーこそ」で始まって、“雨あがり”と「キモちE」で終わるのが、王道。)
(チャボの「チャンスは今夜」があるのが、またいい。「ハイウェイのお月様」も好きだし。)
しかし、1枚目の、キヨシローとチャボが二人だけで、ギターだけで(キヨシローはハーモニカもかな)やってるのが、すごくいい。
で、ドカドカ騒いだDisc3の最後の最後に、また二人だけで「夜の散歩をしないかね」をやってます。
これ聴いてから、この曲に夏のイメージをもったのかな、私は? その前までは、やっぱ秋だと思ってたかもしれない。
Disc1
1 よそ者
2 ボスしけてるぜ
3 たとえばこんなラヴ。ソング
4 忙しすぎたから
5 ダーリン・ミシン
6 夏の色調
7 お弁当箱
8 甲州街道はもう秋なのさ
Disc2
1 よぉーこそ
2 ロックン・ロール・ショー
3 君が僕を知ってる
4 Sweet Soul Music
5 いい事ばかりはありゃしない
6 ハイウェイのお月様
7 君を呼んだのに
8 エンジェル
Disc3
1 ステップ!
2 上を向いて歩こう
3 トランジスタ・ラジオ
4 ドカドカうるさいR&Rバンド
5 スローバラード
6 チャンスは今夜
7 雨あがりの夜空に
8 キモちE
9 夜の散歩をしないかね

忌野清志郎&仲井戸麗市 - 夜の散歩をしないかね 1994


※8月1日付記
「GLAD ALL OVER」については、あまりに曲目と演奏が気に入っていたので、後日ビデオも買うことになった。
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夜の散歩をしないかね(~「シングル・マン」)

2011-07-26 17:36:29 | 忌野清志郎
RCのアルバム「シングル・マン」は1976年4月に発表されたんだけど、すぐ廃盤になっちゃって、その後ファンによる再発運動が起きて、1979年10月に復活したことでも有名。
私がいま持ってるのは1996年のポリドールのCD。
「スローバラード」が入ってることでも評価高いんだろうけど、私は「スローバラード」はライブ版のほうが好きだなぁ。(「The Day of R&B」に入ってるのがいい。)
で、どーでもいーけど、私はこの「夜の散歩をしないかね」という歌が、けっこう好き。そんなメジャーな曲ぢゃないと思うんで、RC・キヨシローファンぢゃないと知らないと思うけど。
ときどき聴きたくなるし、夏の夜にひとり歩いてたりしてるときに、頭ンなかにどっからともなく浮かんで響いてくる。
これに関しては、なんか女性の声がコチョコチョ入ってたりして、スタジオ版のほうが好きだなぁ。

シングル・マンの収録曲は
1.ファンからの贈りもの
2.大きな春子ちゃん
3.やさしさ
4.ぼくはぼくの為に
5.レコーディング・マン~のんびりしたり結論急いだり
6.夜の散歩をしないかね
7.ヒッピーに捧ぐ
8.うわの空
9.冷たくした訳は
10.甲州街道はもう秋なのさ
11.スローバラード
…「夜の散歩をしないかね」は、本来A面ラストなんだけど。レコードで育ったもんだから、“A面ラスト”とか“B面のアタマ”とか、そういう曲の配置っつーかアルバムの構成っつーかに思い入れあったりするんだよね、私ゃ。


夜の散歩をしないかね  RCサクセション 忌野清志郎

こないだ、こんな報道もあったねぇ。
清志郎さん「上を向いて歩こう」震災で復活 - 音楽ニュース : nikkansports.com
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落語進化論

2011-07-25 18:52:30 | 読んだ本
立川志らく 2011年6月 新潮選書
最近読んだ、落語論。いいこと言うねーって思えるとこ、いっぱいあって面白い。
まえがきで、落語ブームなんてのはすぐ去ったけど、客だって落語なら何でもいいわけぢゃなくて、面白い落語家の落語を求めてる、音楽だって何だってそうでしょ、自分の好きなアーティストを聴くもんだ、って話があるけど、まあそうだ。

>現代の大人はだらしない。(略)大人が喜ぶ流行歌をこしらえるべきなのに、子供に受ける曲ばかり作る。手っ取り早く商売になるからだ。大人の歌が流行っていれば、子供たちは背伸びしてそれを聴くようになる。(略)アレンジなどせずに、大人の文化を子供にぶつけた方がいい(略)「子供に迎合した時点でその国の文化は衰退してゆく」
なんてのは、はげしく同意します。テレビ番組なんかもそうだよね。

落語ブームに乗じて、落語の噺を映画化・演劇化したけど、面白くない、なぜか。
>落語の本質は物語にはない。たいしたストーリー的骨格などもともと持ち合わせていないのだ。物語性豊かだといわれる人情噺であっても、よくよく考えてみれば「それがどうした」という程度の骨組みである。
うん、そうだ。落語を面白いって感じて映画とか他の場所へ持ってこうとするひとは、その面白さがストーリーだと思ってんだけど、それはちょっと違う。

おなじような感じで、落語の落ちについて。
>落語という芸能において、物語のその後は特に気にはならない。理由のひとつにまず物語性の希薄さが挙げられる。(略)そしてもう一つ、物語の続きが気にならない理由に、落ちの存在が挙げられる。落語には物語のセオリーたる起承転結の「結」がない。盛り上がったところでいきなり終わるのだ。
バカバカしい落ちで終わる。落ちってのは、終わりの合図、ポンって手を叩いたら催眠から覚めますって感じの合図だから。

んぢゃ、落語って何だろうって思うんだけど、「名人の落語を聴くと眠くなる理由」という章で、音・リズム感みたいなものについて説いている。
ジタバタと妙に動きが多かったり、やたら熱を入れてしゃべるもんぢゃない。力いっぱい長くやりゃあいいってもんでもない。
そのへんのとこ、談志家元の言葉がある。
>「この演じ方は落語じゃないんだ。二人の会話の両方とも感情が入りすぎているだろ。落語なんてぇものは、普通の会話のところに感情なんかいれねぇんだ。気持ちよくトントンとやるんだ。それで肝心なところで、ぐっと気持ちを入れるんだ。」
カッコいいなぁ、家元は。
あちこちに家元語録があるのも本書のいいところ。
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