立川談志 1965年・2011年第2版 三一書房
柳朝の一代記や小朝の本を読んでて思ったんだけど、そう言やぁ私は談志家元のかの有名な『現代落語論』を読んだことがない。
こりゃあ怠慢だったな、やっぱ一度は読んどかなきゃと、最近になって読んでみた。
現代っていっても出版されたのは50年以上も前だ、でも名著はありがたいことに新刊書店にちゃんとおいてある、2016年で第2版の6刷を重ねている。
サブタイトルが「笑わないで下さい」ってついてるんだが、これは冗談ではなくて重要なテーマ。
いわく、
>笑いを求めてくるから笑わせて帰す。それでもいいけれど、下手にこれをくり返しているとだんだん笑いの量で勝負するようになり、誰にでも、子どもにでも分るような笑いをふりまいているうちに、ラセン階段を下るがごとく、だんだん笑いの質が低下する。(p.40)
っていうんだが、すごいね、これ、50年前に言ってるってとこが。
なんでも大きく笑えばいいって状況に取り囲まれてしまうと、人情噺ができないという危惧もある。
>近ごろでは、そんな噺を演じた時には、お客さんにとってはそれこそ迷惑だろうし、ちょっとでも笑う部分が入るとそこで、爆笑になってしまい、下手をすると噺のおさまりがつかなくなってしまう。
>だからこの節は、この種の噺を演じる時は、つねに観客を笑わせないように、笑う間をあたえないように、
>“これは笑う噺ではないんです”
>といわんばかりに、やらねばならないような状態にまでなってきている。(p.234)
って言ってる「近ごろ」がやっぱ50年前のことなんだが、その後も日本はなんにも変わってないという気がしないでもない。
笑いの質を問うんだから、大衆を相手にしていながら大衆に対してウケることに厳しくもなる。
>人間誰しも笑うことはできる。お金をだせば寄席へ入れてくれるし、入れば落語を聞くこともでき、おもしろいところで笑えばいい。どこで笑おうと本人の勝手だ。
>しかし、もしこの種の人たちが、数が圧倒的に多いということだけで、大衆と呼ぶならば、すくなくともわたしの好きな落語は大衆的ではないし、したがって大衆のものでもないといえよう。
>逆にいえば、落語が大衆演芸だと錯覚された時に落語の持つ本当のよさは失われ、そして落語の堕落が始まったのだ。(p.268-269)
うーむ、思うひとはいるかもしれないが、それ堂々と言っちゃうひとはなかなかいないような気がする、楽屋以外の場所でね、本にまでしちゃって。
一方で、落語にやたらと詳しくて、批評会を開いて、ああやれ、こうやれ、そこはそうしたらおかしい、とか言うひとたちもあまり好きぢゃない。
>昔どおりに噺を演ろう、という理由はよくわかる。(略)江戸をちゃんと再現しようというのも、わかる。
>しかし、昔をバッチリやろうとするあまり、背景の一部分一部分にスポットをあてられたんじゃあ、チト困っちまう。(p.138)
というスタンスである。
正統に古典をやろうと思えば、うまくできるんだけど、そこにとどまんないからねえ、家元は。
噺の途中で、自由自在にストーリーを離れて、べつのことしゃべったりするの得意だったし。
どうでもいいけど、落語のやりかたとして、非常に参考になったのは、「志ん生は色彩であり、文楽は写実だ」というある画家の言葉を解説してあるところ。
人物や風景をリアルに描写することは必要だけど、笑いのためには写実だけではないという。
>落語を語るとき、写実で演じてゆくか、笑いを先にして、写実をあとにするかが、たいへん微妙な問題なので、この点で古今亭志ん生の演じる落語は完全に笑いが先行する。落語の会話として不完全になったとしても、笑いのあるほうをとっている。(p.203)
といって『宿屋の富』の男の大ボラの例をあげてるんだが、それはとてもわかりやすい。
え? 現代落語論って、其の二があるの? それは読まなきゃいけないような。
柳朝の一代記や小朝の本を読んでて思ったんだけど、そう言やぁ私は談志家元のかの有名な『現代落語論』を読んだことがない。
こりゃあ怠慢だったな、やっぱ一度は読んどかなきゃと、最近になって読んでみた。
現代っていっても出版されたのは50年以上も前だ、でも名著はありがたいことに新刊書店にちゃんとおいてある、2016年で第2版の6刷を重ねている。
サブタイトルが「笑わないで下さい」ってついてるんだが、これは冗談ではなくて重要なテーマ。
いわく、
>笑いを求めてくるから笑わせて帰す。それでもいいけれど、下手にこれをくり返しているとだんだん笑いの量で勝負するようになり、誰にでも、子どもにでも分るような笑いをふりまいているうちに、ラセン階段を下るがごとく、だんだん笑いの質が低下する。(p.40)
っていうんだが、すごいね、これ、50年前に言ってるってとこが。
なんでも大きく笑えばいいって状況に取り囲まれてしまうと、人情噺ができないという危惧もある。
>近ごろでは、そんな噺を演じた時には、お客さんにとってはそれこそ迷惑だろうし、ちょっとでも笑う部分が入るとそこで、爆笑になってしまい、下手をすると噺のおさまりがつかなくなってしまう。
>だからこの節は、この種の噺を演じる時は、つねに観客を笑わせないように、笑う間をあたえないように、
>“これは笑う噺ではないんです”
>といわんばかりに、やらねばならないような状態にまでなってきている。(p.234)
って言ってる「近ごろ」がやっぱ50年前のことなんだが、その後も日本はなんにも変わってないという気がしないでもない。
笑いの質を問うんだから、大衆を相手にしていながら大衆に対してウケることに厳しくもなる。
>人間誰しも笑うことはできる。お金をだせば寄席へ入れてくれるし、入れば落語を聞くこともでき、おもしろいところで笑えばいい。どこで笑おうと本人の勝手だ。
>しかし、もしこの種の人たちが、数が圧倒的に多いということだけで、大衆と呼ぶならば、すくなくともわたしの好きな落語は大衆的ではないし、したがって大衆のものでもないといえよう。
>逆にいえば、落語が大衆演芸だと錯覚された時に落語の持つ本当のよさは失われ、そして落語の堕落が始まったのだ。(p.268-269)
うーむ、思うひとはいるかもしれないが、それ堂々と言っちゃうひとはなかなかいないような気がする、楽屋以外の場所でね、本にまでしちゃって。
一方で、落語にやたらと詳しくて、批評会を開いて、ああやれ、こうやれ、そこはそうしたらおかしい、とか言うひとたちもあまり好きぢゃない。
>昔どおりに噺を演ろう、という理由はよくわかる。(略)江戸をちゃんと再現しようというのも、わかる。
>しかし、昔をバッチリやろうとするあまり、背景の一部分一部分にスポットをあてられたんじゃあ、チト困っちまう。(p.138)
というスタンスである。
正統に古典をやろうと思えば、うまくできるんだけど、そこにとどまんないからねえ、家元は。
噺の途中で、自由自在にストーリーを離れて、べつのことしゃべったりするの得意だったし。
どうでもいいけど、落語のやりかたとして、非常に参考になったのは、「志ん生は色彩であり、文楽は写実だ」というある画家の言葉を解説してあるところ。
人物や風景をリアルに描写することは必要だけど、笑いのためには写実だけではないという。
>落語を語るとき、写実で演じてゆくか、笑いを先にして、写実をあとにするかが、たいへん微妙な問題なので、この点で古今亭志ん生の演じる落語は完全に笑いが先行する。落語の会話として不完全になったとしても、笑いのあるほうをとっている。(p.203)
といって『宿屋の富』の男の大ボラの例をあげてるんだが、それはとてもわかりやすい。
え? 現代落語論って、其の二があるの? それは読まなきゃいけないような。