きょうは日本ダービーだった。
そと出る用事もないし、テレビで観戦することにした。
ったって、かりに現地で観たくたって無観客競馬なんだから、ほかに方法はない。
せっかくなんで、いつものテレビ局ぢゃなく、無料でやってくれてるグリーンチャンネルで観てみたけど。
それにしても、2月末からか、無観客で競馬開催続けてるわけだが、よくやりきってるなと思う。
だってねえ、開催日のみならず平日の活動も含めて、競馬関係が感染拡大にはつながんないってことを、守り続けなきゃならないんだから。
ほんと、関係者のみなさんに敬意を表します。
私だったら耐えられないな、きっと。だって、たぶん今日だって「ダービーの打ち上げ」無しなんでしょ、そんなのヤだ
(今ふと思ったんだが、東京競馬場の西門のとこの(府中本町駅行く通路の下のとこの)店とか、どうなっちゃってるんだろうか?)
それはそうと、ブルーインパルスの東京都心上空の飛行が話題になった週末に、コントレイル(英:飛行機雲)なんて名前の馬が勝つなんて、偶然の符合ってあるんだなあ
あいかわらず、おもしろ
(よく「世相を反映する中央競馬としては」とかヨタ話の大喜利遊びをしたものだが、今回のはキレイすぎ。)
鉄人ノンフィクション編集部 2019年 鉄人社
最近、書店でみかけて、なんかフラフラと買ってしまったもの。
副題は「衝撃の迷ラスト120本」で、表紙に「あの人気作・名作の意外すぎる結末とは!!」ってあるように、まあそういうものを集めたもの。
なんかこんなの前にもなかったっけって本棚を探したら、『消されたマンガ』ってのが同じ出版社の出してるやつだった。
本書は冒頭に、
>最終回がグダグダになってしまう理由はさまざまですが、そのいずれもが読者や視聴者に衝撃をあたえ、ときに深いトラウマを植え付けるケースも珍しくありません。
>本書は、かつて見た漫画やアニメ、ドラマ、ゲームなどの最終回から、わたしたちの心に大きな傷を残した作品や、あまりのヒドさで逆に心に残ったものだけを厳選して、年代別にまとめたものです。
ってあるので、基本的にひどいもののコレクションなんで、そういうのを読むのは、ちょっとならおもしろいけど、何十本もあると疲れるというか、飽き飽きするのは最初から想像できたことではあるが。
一作品あたり2ページか1ページで、やっぱこういうの雑誌で週に1本とかで読むのなら退屈しのぎになるんだけど、これだけまとまってるとくたびれるのは予想どおりだった。
「70年代以前」「80年代」「90年代」「00年代以降」って年代別に四章になってんだが、どうしても興味があるのは古いものなので、最初のほうはそれなりに、知らなかったーとか、知ってるーとか、楽しめたんだが。
時代が進むにつれて、そもそも知らないマンガが多くて、自分がいかに連載マンガ読むという生活スタイルから遠ざかっちゃったのかと痛感することになった。
でも、ゲームのエンディングがひどくてとかなんとかいうのは、どうでもいいことのようにしか思えないし。
だいたい、人気なくて連載打ち切りで中途半端なところでムリヤリ最終回、ってパターンはいくつもあるけど、それは「人気作・名作」ぢゃないんだから、看板にいつわりアリだよね、それはそれで別に集めるべきことなんでは。
むかしのものでは、「デビルマン」の終わり方ってのは誰でも知ってることだが、やっぱすごい。
梶原一騎原作ものでは、なぜか投げ出したように唐突に終わっちゃうのは「侍ジャイアンツ」でも「タイガーマスク」でも同じで、なんか完成度が低いだけなのではと言いたくなるだけ。
今回、あれ、そんなんだっけ、って気になってつい読み直してしまったのは、「大ぼら一代」。
そしたら、でっかいとこでは、最後、大地震が起きちゃったりとか、細かいとこでは、下水経由で少年刑務所に潜り込んだりするシーンとか、なんかこれって『光る風』の影響受けてんぢゃないの、って改めて気づくようなことになった。
…って、いま、この記事書いてて、過去記事検索して「大ぼら一代」を探してたんだけど、見つからない。もしかして書いてなかった!?
※6月6日付記
そういえば、どうでもいいけど、最近『鬼滅の刃』というすごい売れてるマンガが無事最終回にたどりついたらしい。
ありえないよね、従来の少年ジャンプ的常識では。人気あるうちは作者がやめたくてもやめられなかったはずなのに。
山上たつひこ 二〇一五年 フリースタイル版
このマンガ読んでみなくては、と思ってから、もう何年か経っちゃってんだけど。
古本屋に足運ぶ機会があるたびに探すんだが、なかなかそろいで見つけることができなくて。
店頭にあるだけのをバラバラと買って、ちゃんと全部そろうか確信もてないから、手をのばさなかったんだけど。
復刻版として新しい一冊になって出てると知ったのは、つい最近のことで、ぢゃあ買ってみるかとすぐ買った。(ほら、油断するとすぐ絶版なるから。)
読んでみたけど、聞きしに勝るすごさだ、とても『がきデカ』と同じ作者のものとは思えない。
少年マガジン掲載当時の1970年からみた近未来の日本ということになるんだろうが、なんでこんなことになっちゃってるのか。
第一章の「××××年○月○日 異形祭」は、いきなり奇形の人々が世間を呪って火のまわりを踊ってる祭のシーンで始まるんだが。
昭和○○年S県藻池村で奇病が発生、1万人以上が発病して712人の死者を出し、その後10年にわたって奇形児が生まれ、原因不明で未解決のまま。
政府事業として、そのひとたちを東北の沖合に「出島」をつくって、移住させたのが12年前ということで。
主人公の高校生たちは立ち入りを禁じられてるそのエリアに見に行って、捕まっちゃうんだが、捕まえにきたのが特務警察っていう連中。
なにそれ、特務警察って、って不思議がってるひまもなく、つぎには国防隊って大きい組織がある国になってることが明かされる。
街頭での募金活動とか演説とか集会活動とかは禁じられてて、逮捕されるどころか、その場で警察に射殺されちゃっても文句のいえない世の中。
主人公は藻池村事件の真相を究明しようと思うんだが、世界はそれどころぢゃなくて、インドシナ戦争ってのをやってて、アメリカはカンボジア領内に中性子爆弾を投下するという事態。
で、第二章の「暴走列島」では、日本の国防隊が国連軍としてカンボジアへ派兵されることになる。
ここんとこ、この50年前のマンガのなかの説明には、もう笑うしかない。
>いっぽう 外務省は“国連協力法案”なるものを作成 「国連が 世界の平和および安全の維持または回復のために 軍事力の行使を必要とみとめ そのための措置を決定した場合は 政府は 国防隊をふくめた人員 労力の提供 飛行場 港湾その他 基地の提供 物資 輸送手段の提供などをおこなうことができる」とした
>「国連軍への参加は 憲法に違反せず 国防隊法の一部改正で可能である」というのが外務省だけでなく内閣法制局や当時の防衛庁の一致した見解であった
>そして 国防隊法の一部改正部分についても 海外派兵を法的に根拠づけるため 任務規定の条文に「国際平和と安全のために」ということばを追加して それらの行為を正当化し美化しようとしたのであった (p.188)
ってことなんだが、なんかどっかで聞いたような気までしてくる、まあそういうことやりそうな国だと想像できたんでしょうな。
もちろん反対する人たちもいるんだけど、デモなんかしようとしたら有無を言わさず武力鎮圧ってことで惨劇が繰り広げられる。
主人公の兄は望んで国防大学へ進んだくらいだから派兵されるんだけど、その兄の出発時に「行くな」と言った主人公は非国民よばわりされて、周りから物を投げられる始末。
国防隊特務班っていう荒っぽいのに捕まってしまって、横から憲兵隊ってのが登場して、そっちへ身柄は移される。
国防隊で拷問されてるうちはまだカワイイ話で、「おまえの病名は 妄想型分裂症だ わかったか」って言われて精神病院に入れられて、ほかにも集められてきた経歴不詳扱いの人たちと、地下で何か秘密らしい工事をさせられちゃう。
そっから脱走して実家へ帰ることができたのはいいが、出征してた兄は変わり果てた姿で戻ってきてたとか、事態はどんどん悪くなってく一方で、救いがない。
藻池村事件と、安保同盟は残すけど自分たちの手を汚すのはいやで日本から軍を引き上げようとするアメリカの謀略に、なんか関係あるんぢゃないかとかわかりかけたようなとこで、とどめのように関東一帯を大地震が襲って、死者24万人、東京は焼け野原になる。
それで何もかも壊れて終わりってんぢゃなく、東京と神奈川に戒厳令が敷かれて、警察・国防隊・憲兵隊は不穏分子とみなした人たちをつぎつぎ逮捕してくって世の中になる。
いやー、なんかすごいわ。子どものとき読んでたらトラウマになってたかもしれない。
どうでもいいけど、主人公が最後、かかえてた包みを落とす場面が、なんか既視感あったんだけど、『コブラ』の六人の勇士編のゴクウってキャラをおそった悲劇のとこだな。
大野晋・丸谷才一 1994年 中公文庫版(上・下巻)
これはおととしの11月に地元の古本屋で上下揃いで買ったんだけど。
ずっと放っておいた、すぐ手にとれる位置に置きっぱなしで、読まないでいた。
いや、丸谷さんの随筆はおもしろいんだけど、文学の、しかも古典の、評論なんてのはむずかしそうで、なんて思い込んでしまって。
読み始めてすぐ気づいた、もっと早く読みゃあよかった、っていうか二十何年か前にとっくに読んどきゃよかったのに。(ちなみに単行本は1989年らしい。)
帯に「碩学と奇才が語る、斬新で画期的な入門書」ってあるんだけど、そのとおり、まず対談形式だから難しいことなんかないし。
それに、私は恥ずかしながら源氏物語なんか読んだことないんだが、学校の教科書にはお約束でちょろっと出てきたわけで、それがつまんなかったもんだから読む気にならなかったってのはあるが、本書みたいな入門書を先に読んでたら読んだかもしれない。(若いときなら。いまからぢゃムリ。)
なんせ、いきなり最初のほうで、
>大野 (略)『源氏物語』は文章が格段にむずかしい。このごろ、高等学校で『源氏物語』を教科書に入れたり、受験のために教えたりしているんですけどね、これはバカなことなんですよ。(上巻p.15)
と来たもんだ、早く言ってよ、そういうことは。
なんでも他の古典とちがって、意味の分らない言葉がいくつもあって、「あいなし」なんて単語は物語中で95例もつかわれているのに研究者の間で意味が決められない、作者が微妙なセンスをもって使うからだという。
それから、なかみは誰でも知ってるように男と女の関係の物語なんだけど、
>丸谷 この実事のありなしをいつもきちんと押さえていかないと、『源氏物語』は読めなくなります。
>大野 作者は作者の美学として、実事などはほのめかすだけで、はっきり書かないんですから、うっかり読んでいくと、素通りするんですね。(上巻p.256-257)
ってことなんで、学校ではそういうとこあんまり教えてくれないから面白くもなんともないってことになる、十代男子生徒なんてそんなことで頭ン中いっぱいなんだから解説してくれれば身を乗り出して聴いたと思うんだけど。
それにしても、
>大野 そう。『源氏物語』の作者はそれをあらわには書かないことをもって、彼女の信条としているんですから。
>丸谷 『源氏物語』がこれだけの大古典になった理由は、他にもいろいろあるけれども、一つは、解釈がいくらでもできるということなんです。そうすると、学者は殺到するわけです。(上巻p.275-276)
って言われちゃうと、高校生ぐらいが古語辞典片手に読んだって、はっきり意味わかんねーし解釈できないってのは当たり前のことだと思う、ダメだよそんなテキストで試験問題だしちゃ。
それと、読んでく順番というか、ストーリー性。
全54巻ある長い話だが、このお二人は、1桐壺、5若紫、7紅葉賀~14澪標、17絵合~21少女、32梅枝、33藤裏葉までの17巻をスラッと通しで読め、それは光源氏登場から栄華を極めてめでたしめでたしの時間軸に沿った単純な話だからと(「a系列」と呼ぶ、これって丸谷さんの小説『輝く日の宮』にも出てくる)。
ほかの、あいだに入ってる、2帚木とか3空蝉とかってのは、あとから挟み込まれたようなエピソードだから系列が違うんだと(「b系列と呼ぶ)。このエピソード群に出てくる女性は、通しの17巻のストーリーには出てこないという。
なるほどねえ、最初に17巻(17ってのは聖徳太子以来のひとまとまりの伝統のような気が私にはする)で伝記的ストーリー書いて、あとから読者に乞われたかなにかで若き日のエピソードとか書いてふくらましたと。
でも、おふたりは、源氏物語を読むなら「34若菜」を読め、それまでは長い長い伏線みたいなもんだから、本書の筋書きに目を通せばいいから、ぐらいのことも言ってるが。
34若菜以降は源氏が40歳になって、以降人生の下り坂って話だから、また別らしいけど。
最初の33巻中の、通しの17巻と挿話の16巻はちがうって評はあちこちで出てくる。
最初のうちは小説として書き方が慣れていなくてうまくない、挟み込まれた部分はいろんな描写が上手になってるっていうのも、実は後から書かれたんぢゃないかって推測の根拠になってる。
>大野 (略)「桐壺」の文章なんて非常にごつごつしたもので面白くないし、「若紫」は物語全体の後半に較べれば全く読むに耐えないようなものですね。(上巻p.82)
なんて言ってます、最初のうちは漢文訓読の影響から抜けきってなくて和文を自由自在に書けるまでに至ってないらしい。
言葉づかいだけぢゃなくて、人物描写とかそういうことも入ってくると小説家の丸谷さんのほうがやっぱビシビシいろんなこと言う。
>丸谷 『源氏物語』の重大な欠点は、藤壺の書き方がまずいことじゃないでしょうか。(上巻p.130)
とか、
>丸谷 この「紅葉賀」で言えば、なんといっても大事な挿話は、出産したときの藤壺はどういう態度であったかですね。ところが全然書けてない。そのくせ、源典侍のところはものすごく上手に書けている。(略)なくてもかまわないエピソードのときに腕を発揮して、絶対頑張らなきゃいけないところで手を抜いている。まだ未熟なうちに書いたという感じなんですね。(上巻p.184)
とか厳しいが、文章だけぢゃなくて、伏線を張るのは難しいとか長編小説の書き方の実際に即した発言とかあるのもおもしろい。
基本には、
>丸谷 (略)ただ、ぼくは商売だから、新しい見方を考えなければならない(笑)。小説家兼批評家というのは、そういう商売なんです。(下巻p.343)
っていうウケをねらった視点もあるようなんだが、
>丸谷 (略)そもそも、私たちみたいな調子で率直に論じた「源氏物語論」はいままでなかったんですが、もう少し小説技術的な点まで含めて論じ合ってもらうと面白いなあ、とぼくなんか思うんですね。(下巻p.163)
ということで、古い日本の古典だけど、たとえば十九世紀ヨーロッパの文学と比べてどうかとか、小説としてどうかということを考えている。
登場人物を書くなら、その人物の言動とかから浮かびあがらせるべきで、作者が説明しちゃっちゃダメとかそういう話だ。
小説のおもしろさってものについても、
>丸谷 その「もし」とか「だったら」を考えるというのは、小説の読者として非常に初歩的なことだとされていて、そういう読み方をとかく批評家は軽蔑するものなんです。でも、ここのところはそういう初歩的な面白さが小説の面白さの根幹部を占めていることをとてもよく示す。やっぱりそういうハラハラ、ドキドキは大事なんです。(略)
>丸谷 だれだってこういう体験をしている。それを濃密な感じで味わって非常に満足するんですね。(略)初歩的なものが小説の基本であって、もしそういうことがなく、単なる人間性の研究とか、人生の哲理を明らかにするとか、世界の構造がどうとか、そんなことばかりやったんでは小説は面白くないですよね。(笑)(下巻p.128-129)
って調子で、やっぱ深刻ぶって自分の思想を示すとかってのが文学ぢゃなくて、おもしろいのだっていい文学だっていう、いつもの思想に基づいて言っている。
同じようなことを、この物語は享受者の理解力に段階をつけて書いているとして、
>丸谷 (略)平井正穂先生が、シェイクスピアはなぜえらいかというと、うんと教養のある人間が読めばそれなりに面白い、中くらいの人間が読めばそれなりにまた解釈がついて面白い、うんと下層の階級、無教養な階級が読むと、またそれなりに面白い、そういうふうに書けたところが偉大な文学者であるゆえんであるとおっしゃったことがありました。(略)
>丸谷 それが大文学ってものなんですね。いまの日本では、大文学というのは深刻なことを書くことだと思われているでしょう。そうじゃないんです。大文学というのは多層的な読者を引き受けることのできる文学です。(上巻p.280)
なんて言ってるんだが、すばらしい見解だと思う。同時に、やっぱ試験問題に使っちゃダメじゃんという気がますますするけど。
英文学の話がでたついでに、本書ではときどき原文を引用して、それに丸谷さんが現代語訳をつけてるんだが、もちろん私は原文の一字一句を追うのは面倒なんでほとんど訳しか読まないけど、その訳の一部について、
>丸谷 (略)これで思い出すのは、英文の学生だった頃、中野好夫先生が演習のとき、訳をつけた学生に、「あんたみたいな面倒くさいことを言って、芝居でお客がわかるかいな」(笑)。学生がひねくった解釈をするたびに、「芝居のお客というものはもっと単純なもんなんや」としきりにおっしゃったんですよ。(上巻p.155)
なんて話をするところがあって、そうか、やっぱ小説の登場人物はすぐわかるようなセリフを言うもんだ、という見方から訳をつけるものかと参考になった。
それはそうと、丸谷さんの小説家としての見方でおもしろいののひとつには、22玉鬘~31真木柱のいわゆる「玉鬘十帖」のところが面白くないというか、おかしい、小説的な仕掛を出しても、その結果が何もなかったりして不思議だと言って、
>丸谷 長篇小説の真ん中へんは、小説家はひどいことになって、わけがわからなくなってくる。昏迷におちいったあげく、いろんな小説的な手を考えるんですね。それが小出しにほうぼうに出ています。(略)本当に困り果てている状態だったんでしょう。紫式部は必ず十二指腸潰瘍をやっていたにちがいない(笑)。それが治るのが「若菜」の巻ですよ。(上巻p.397)
なんて実作者の苦労をわかりやすく解説してくれるところがある。
平安時代に十二指腸潰瘍やったら、加持祈祷で治すしかなさそうだし、大変だあね。
ちなみに、その「若菜」のところにくると、
>大野 ここへくると、オーケストラの全部の楽器が鳴っている。いままでは個々に力点があって、ここでは単独にフルートを鳴らしてみようとか、バイオリンを鳴らしてみようとかやっていた。
>丸谷 総合的なこと、建築的なことがとってもうまくできるようになったということですね。(下巻p.51-52)
と物語世界の組み立て具合を絶賛することになるんだが。
大野晋さんは日本語の権威だから、言葉の意味の解説がやっぱすごいくわしい。
たとえば、
>それからもう一つ大事なのは「情(なさけ)」という言葉。この言葉は『源氏物語』を読むときにちゃんと覚えておくといいですね。今日、「情」というと、精神的な価値が非常に高い、本質的にその人が人類に対して愛情をもっているみたいなときに「情深い人」とかって言います。
>ところが、『源氏物語』の「情」というのは、そういうたいへん立派な意味じゃないんです。「うわべの情」と使うんです。「なさけ」の「け」は「形」「見た目」なんです。(上巻p.238)
なんて語の正確な意味を教えてくれて、だから源氏と正妻のあいだには情はないけど、源氏は愛人の女性には情として形を尽くして例えば歌を送ったりするとかって解説してくれる。
「ほのか」と「かすか」はどう違うか、「かすか」は消えていってしまいそうなものだけど、「ほのか」には後ろにまでひかえているものがあるからもっと見たい、不足で不満だという気持ちがあるとか。
光源氏とか一等の美をもっている限られた人物の表現が「清ら」で、そのほかの二流の美しかもっていない人たちは「清げ」であるとか、万事がそんな詳しい解釈つけてくれるのでホント勉強になる。
で、そんな大野さんが、
>大野 この人は自分の書いた文章をほとんど覚えていたんじゃないかと思いますね。もちろん似ている文章はところどころありますけど、これだけ長い小説に同じ表現がほとんどない。(下巻p.211)
というように紫式部の文章の能力を評価しているんだが、終盤の光源氏なきあとのいわゆる「宇治十帖」の文章については、
>大野 (略)センテンスが非常に長くなっている。a系列のワン・センテンスが平均五十三字。「宇治十帖」では八十五字。
>丸谷 でも、文章構造は単純になりますよ。
>大野 ズルズル長いんです。ということは、作者の力が乏しくなってきた。(略)
なんて言っていて、その前のとこまで書いたあと、執筆再開するまでに長い時間があいてたんぢゃないかと推測している。
大野さんは「宇治十帖」も紫式部が書いたと思うという意見だが、別人が書いたという説も紹介されてて、そのくらい違うらしい。
ほかにも、光源氏なきあとの「匂宮」「紅梅」「竹河」の3巻はあやしいらしくて、特に「竹河」のなかの「孕み」って動詞については、
>大野 (略)こういう表現は紫式部の美意識に絶対、反するんです。彼女は「気色ばむ」などと使うんです。「気色ばみ給ふ」とかさまざま言い方があるけど、「孕む」は絶対使わない言葉です。(下巻p.273)
とまで言い切って、この巻は語法的・用語的な点から見て、他人の手が入っていることがさすがに疑われると分析している。
源氏物語に使われている言葉について、
>大野 (略)『源氏物語』の語彙はのべ総数四十万語でできているんです。二十万語は助詞、助動詞です。名詞、動詞、形容詞、副詞みたいなのも合計二十万語です。ではその二十万語の中に、ちがった単語はいくつあるかというと、勘定の仕方によるんだけど、一万三千から一万四千語です。『枕草子』は総量では約五分の一で、ちがった単語は約七千語ぐらいですね。(下巻p.228)
といって、そのバリエーションを説明している。
『枕草子』にあって『源氏物語』にない単語ってのももちろんあるんだが、それは品の悪い単語で、紫式部はそういうあらわなものとかどぎついものを使うことを避けていてのこの数だという。
やっぱすごいなと思わされるんだが、いやいや、それならやっぱ学校の授業で教えるのはもうちょっと簡単なテキストにしようよとも思う。(この話で、原文読んでみようって気がますますなくなってる。)
言葉とか表現のことだけぢゃなくて、なにが書かれてるかってことで参考になるのは、
>丸谷 (略)要するに古代以前の習俗と、中世に近くなった古代の現実との衝突を紫式部という人は書いた。それによって何か古代的なものへの懐かしさを書いた。それに読者はみんな惹かれる。そこのところが非常に大事だと思うんですよ。(略)
>本居宣長は「もののあはれ」といい、折口信夫は「色ごのみ」といいました。要するに儒教と仏教と両方から攻め立てられて、もう滅びそうになっている日本の古代習俗、古代宗教の価値を何か言おうとして、うまく言えなくて困ったあげくのスローガンだと思います。(上巻p.156-158)
ってとこ。大野さんも賛成らしく、
>大野 (略)儒教でも仏教でも、女があってはじめて男が生きられるというようには女の位置を認めていない。ところが『源氏物語』には、男がどんなに女によって生きるものかということを語っている面がある。
と言っている。
そういうふうに言ってくれたほうが、よっぽどわかりやすいと思う。古文の授業でもののあはれなんて言われても、なんか趣のありそうなことみたいな感じだけで、そんな昔の人のフィーリングなんて理解できないよって言いたくなっちゃうから。
とり・みき 1993年 青林堂
最近買った古本、ときどき無性に読みたくなることがあるんだよね、とり・みきのマンガ。
短編集なんだけど、短いものは1ページ、長いものでも10ページくらいのギャグマンガを、いろいろ並べ替えてつなぎあわせたようなつくりになってる単行本。(メガミックスというらしい。)
読みだしたら途中で休むことなく最後まで読んでかなきゃしゃあないなあというノリではある。
一読したなかでのお気に入りは、たとえば「螺子」。
「突然だが おとーさんは会社をやめて これからネジをはずして生きていこうと思う」と父親が家族の前で宣言、毎日ネジはずしだけをしていく。
で、ネジはずしの達人に奥技の教えを乞いに行くと、「わしは見てのとおり ただの冬に水まきするのが好きな迷惑な老人 お引きとりくだされ」なんて断られるんだが、そういうやりとりが思わず笑ってしまう。
それから、連作の「シロクマ」「象」「カンガルー」。
ぬいぐるみを作るんだが、師匠に「魂が入っておらん」とか言われて、本物のシロクマとか象とかカンガルーを求めて旅に出る。
それはいいけど、シロクマさがしに四国へ、象を探しにアメリカ西部へ、カンガルー探しに中国へ行ったりする見当違いなことすんのが、妙におもしろい。
あと、「最後の忍者」では、ずっと前に読んだ四方田犬彦の『漫画原論』で引用されていた、
「ふふふ こんなこともあろうかと 常にわしの影の中にひそませておいた……」「堺のポルトガル人よりせしめた よく陽灼けした人なのだ!!」
っていうバカバカしいセリフのコマをついに実際にみることができて、ちょっと感激した。
しかし、何をどう書こうとしても、ギャグマンガのおもしろさを説明するのはムリですな、実際読んでみて、それでもツボにはまるかどうかはその人次第だし。
コンテンツは以下のとおり。
本屋(1)
オリンピック(1)
悪魔ッ子
唄う人
お父さんの失敗
シロクマ
オカルト(1)
螺子
本屋(2)
オリンピック(2)
JUNGLE LOVE
西瓜
最後の忍者
オリンピック(3)
増殖の谷
オカルト(2)
痛快エレキ侍(エジプト商人の秘密)
さよなら夏の日
オリンピック(4)
象
気力の日
穴
オリンピック(5)
続・対策本部の長い一日
オカルト(3)
本屋(3)
太陽の塔
オリンピック(6)
続・お父さんの失敗
濃霧の人
オカルト(4)
カンガルー
CHRISTMAS IS ALWAYS CHANGIN’
でもなく
オリンピック(7)
オカルト(5)
サエキさんの午後
玉
オリンピック(8)
もう安心
オリンピック(9)