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好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

十年ゴム消し

2024-12-27 20:02:54 | 忌野清志郎
忌野清志郎 二〇〇〇年・二〇〇九年新装版 河出文庫
これは、もちろん存在は昔から知ってたんだけど読まずにいて、いまさら読む気もないって感じでいたんだけど、ついこないだ街の古本屋で見かけて買った。
オフィシャルによれば、「忌野清志郎が青年期に綴っていた詩や日記をまとめた一冊。」ということになる。
最初の単行本刊行は1987年、ソロアルバム(「RAZOR SHARP」)出したころかあ。(どうでもいいけど、2009年6月新装版って、亡くなったから出したのか…。)
なかは、それよりずっと前のことで、ほかの登場人物から「二十三にもなって」みたいに言われてるから、清志郎が23だとしたら1974年ころってことか。
そのころって、あとがきに「あの頃はほんとに、ヒマだったんだな。」って清志郎が書いてるけど、なんか不遇時代なんぢゃなかったっけか。
気になったんで、『愛しあってるかい』をひっぱりだして、調べてみた。
1972年には、アルバム2つ『初期のRCサクセション』『楽しい夕に』と、シングル3つ『ぼくの好きな先生』『キミかわいいね』『三番目に大事なもの』を出したんだけど、売れなかった、そのあとの時期でしょ。
>しかしチャボとの感動的な出会いの後、グループ自体は仕事が減り、第一期低迷期に突入する。後に百恵で大儲けするホリプロと契約していたのだが、その契約内容は、「月給3万。コンサートの売り上げで利益が予想を上回った時に限り、歩合としてその40%がもらえる」という実に情けないものであった。食えるわけがない。売れるわけがない。(略)
>さて、当時井上陽水やモップスがドドッと抜けた後のホリプロに契約の問題でひとり(ホントは3人だが)残されてしまったRCはその後どうなったかと言うと、やっぱり全然売れなかったのである。売れないグループに出資するほどプロダクションは甘くはないぜ。
>で、74年から75年にかけての1年間、彼らが受けた仕事といったら…受けた仕事といったら…え~と…仕事といったら……と…、あ、何もないや。何も仕事がなかったんですねー。(『愛しあってるかい』p.106-108)
ってころだよね、そうそう。
なかみは、そういうわけで、詩と日記とかなんだが、詩というよりつぶやきに近そうなのもあるし、日記もみっちり記録ってよりも感情をメモったようなとこあって、なんか読んでもフワッとしてる感じ。
のちに実際にレコーディングされた曲の詞の原型のようなものもあるけどね。
そんななかで気になったのは「やさしさ」について書いたものがあったとこ。
>「やさしさ」っていうものに
>ちょっとした 反抗の気持をこめて
>ぼくが やさしいとか
>ぼくの歌にやさしさがあるとか
>もしも まちがっても
>言われないように、
>そんな 赤面するような
>恥しい評価をされないように、
>「やさしさ」を 勝手に
>押しつけられないように、
>「やさしさ」という歌を作った。(p.127)
だって。これって、1976年のアルバム「シングル・マン」に入っている「やさしさ」のことでしょ。
誰もやさしくなんかない
で始まる「やさしさ」は、おとなしい歌かと思わされてると、急に激しい調子になって、
(ずるい、ずるい、ずるい、ずるい)
責任のがれ 君の荷物さ それは
ぼくのじゃない
ぼくのじゃない
ぼくのじゃない
ぼくに背負わせないで
って、すごく訴えかけるものある曲なんだよね、けっこう好き。 ぼくのじゃない のとこはマネしてシャウトしたくなること請け合い。

なんか年の瀬になるとキヨシローを聴きたくなったりするんだよね、なんでかわからないけど。クリスマスはRCの武道館コンサート、って時代があったからかなあ。
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サーベル・タイガー

2024-12-20 19:34:12 | マンガ
星野之宣 1981年 双葉社アクション・コミックス
これはことし9月の古本まつりで買ったマンガ、「星野之宣SF傑作集」ってサブタイトルだけど、そういうこと。
なんか、全部読もうとか思ってるわけぢゃないけど、古いのとか見かけると興味ひかれちゃう、星野之宣。
本書の収録作の初出は、1980年から1981年、おそらく「ジャンプ」集英社との専属契約が終了した直後ぢゃないかと。

「サーベル・タイガー」
氷河に覆われてる時代で、サーベルタイガー(大きい牙もった肉食獣ね)とマンモスが争っているような場所に、原始人類もちょろちょろしてた。
そこへ2479年から未来の人類がやってきて、将来の人類絶滅をふせぐために原始人類を生き残らせようというミッションを実行する。

「アダマスの宝石」
惑星アダマスへは最新の宇宙船でも往復200年かかる距離がある、過去に幾多の宇宙船が向かったが帰還したものは一隻もない。
それでも調査探検に向かうのは、そこには、それを持つものに永遠の命をもたらすと信じられている伝説の黒い宝石があると言われているからである。

「サージャント」
砂漠を舞台にして戦争が行われているが、ひとつの分隊の規模は頭脳戦車(コンク)と兵士5名程度、そのなかでもリーダーである軍曹の地位は頭脳戦車のもの。
ともすれば人間が機械の足手まといになるような戦闘が展開される、なんか大友克洋の「武器よさらば」(『彼女の想いで…』所収)を思い出した。(あっちは1981年作品)

「ユニコーンの星」
人類が宇宙で初めて発見した地球型惑星へ、本格的な有人探査が向かうと、大気の構成をはじめ地球環境に酷似した惑星で、見渡す限りの草原がひろがってた。
馬・牛・犬・猿・白鳥・蟻など数頭ずつの実験動物を放って、適応できるか調査が始まるが、やがて動物たちはおびえていながら、群れ集おうとしなくなる。

「タール・トラップ」
地中から浸み出したタールや天然アスファルトのどろどろした底なし沼のようなプールを舞台にした三部作。
古代の象マストドンと原始人類の話、洪水がくるので箱舟をつくってアスファルト防水をしようとする家族の話、現代のタールトラップで化石発掘隊がタールにはまってしまう話。

「冬の惑星」
永遠の冬の惑星グインIIは、自転速度が速くて1日の長さが地球の1/3しかない、星の住民の寿命は短く、地球時間でせいぜい1年半くらい。
言葉を持たない住民の子どものひとりに案内させて、洞窟のなかにある氷の森を探査隊が発見する。
この作品はなぜか左から右へ進む、巻末ページから横書きの本のようにめくってって読むような仕様になっている。
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古本屋台2

2024-12-13 19:54:19 | マンガ
Q.B.B.(作・久住昌之/画・久住卓也) 二〇二四年二月 本の雑誌社
これは、出てんのずっと知らなくて、出遅れたーとあわてて、ことし9月ころに買ったマンガ。
(買っちゃったら安心して、しばらく読まずにいるのは、いつものこと。)
続巻あるとは思ってなかったよ、第1巻の発行は、ふりかえってみたら2018年だもん。
いいなあ、6年にいちどくらい単行本が出るマンガ、ものすごいゆったりした流れだ、少年誌連載ものだと巻末に、もう次巻の発売予定日が宣伝されてたりするけど、せわしないよねえ。
しかし、次も6年後だとしたら、私は生きてるかどうかわかんないかもしれない、こまったもんだ。
それはそうと、第一巻を読みなおしたら、最後の数ページは書き下ろしで、なんか物語はおしまい的な雰囲気で、最後のコマの隅には「終」って書いてある、そうだよな、続きあるとは思ってなかった俺、まちがってないよな、って気がした。
いま調べたら、第一巻の後半は初出が2017年ころの「小説すばる」、今回の初出は2019年から2020年の「月刊こどもの本」と、「本の雑誌」の2020年から2023年、やっぱ一回終わったものとしていたのを、再立ち上げしたのかな。
(コロナ流行のころなのかな、登場人物がみんなマスクしてるときがある、当然ながら誰も死んだりしてないけど。)
って、いま気づいたら、一巻は集英社で、今回は本の雑誌社じゃん、本の外観おんなじだから出版元変わってたなんて、全然わかってなかった。
なかみは、なんも変わってない、夜に営業している屋台の古本屋、提灯が下がってる、ときどき出る場所変わったりする。
サービスで焼酎一杯を100円で出してくれる、冬はお湯割り、夏は氷入れたり、ただしお代わりはない、「ウチは飲み屋ぢゃないんだから」って言われちゃう。
店主のオヤジが渋くて渋くて、でも機嫌損ねると、「あんたら声が大きいよ」とか「帰んなよ」とか言われちゃう、そう言われるのは通過儀礼みたいなもんで、この屋台気に入ったひとはそれでも常連になっちゃう。
ちょこちょこと出てくる本の数々も多彩なラインナップで、気になるものもあるんだけど、本書ではとうとう巻末に「登場文献一覧」なるリストまで用意してくれちゃってる、読んだことないもの多いけど、今後読もうとするかどうかはわからない。
どんな本かって登場人物たちの話にあがるものもあるけど、ただその本の表紙の画だけが、関係ないセリフのやりとりのあいだに、舞台装置のように描かれてる場合なんかもあって、そういうのが渋くてたまらん。
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ひとり暮らし

2024-12-06 19:14:08 | 読んだ本
谷川俊太郎 平成二十二年 新潮文庫版
ちょっと前に、谷川俊太郎さんが亡くなったってニュースをみた。
詩人として有名なひとなんで、どっかでその詩を目にすることはあったはずだけど、ちゃんと読んだことはないなあ、詩集読むガラぢゃないのよ私。
私がいいなあと思ったのは、矢野顕子さんが歌う『さようなら』って曲があって、その作詞が谷川俊太郎さんだった。
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
で始まって、なんだろう、どうしたんだろうと思わされてるうちに、
よるになればほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
ってところで、なんかグッと盛り上がる、曲としては静かな調子なんだけど、なんか伝わってくるものある感じで引き込まれる。
この「死ぬまで生きる」ってフレーズがよくて、この歌詞カードのなかでアッコちゃん自身も「俊太郎さん、死ぬまで生きていてくださいね。絶対。」って言ってるんで、私もマネしてときどき使う。
んぢゃ、なんか読んでみなきゃいけないかな、って気になって、かと言って詩を読むのはどうかなって思って、とりあえず中古で手にとったのが、これ。
エッセイ集ということになろうか、単行本は2001年らしい、最初の章では1980年代後半から2001年までにあちこちに書いたものを集めたようだ。
詩を読んでもよくわかんないと思う私だが、詩について谷川さんが、
>詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩においては言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。(p.136-137)
っていってるとこは興味深いものあった。なんかインスピレーションめいたものを書きつけてんぢゃないんだ、木工細工なんだ。
という一方で、朗読会のようなイベントの質問コーナーで、
>いつだったかやはり一人の小学生に、「谷川さんはなんでそんなにくだらない詩ばっかり書くんですか?」と問われ、やけになって「詩なんてみんなくだらないものなんだよ」と答えたのを思い出した。(p.159-160)
なんてやりとりをしてるらしい、笑える、面と向かって「くだらない詩」とか言われるとは。
詩にかぎらず言葉ってものについての考察として、レンブラントの自画像を引き合いにだして、その絵は自分で自分をリアルにみつめたものだとして、
>自分という意識なしで、まるで他人を見るように自分を見ている。私もそんなふうに言葉で自分を描けたらと思うが、思うにまかせない。(略)
>(略)詩で自画像を書こうと試みたこともあるが、これもパロディのようなものにしかならなかった。自画像というような主題抜きで書くほうがきっと正直な自分が現れてしまう、それが言葉というものかと思う。(p.51-52)
みたいなこといってるのも、おもしろいと思った。
それはそうと、今回こうやって著者が亡くなったタイミングで読んでたりすると、ご自身の死について語っているところが気になったりする。
2000年ころで70歳ぐらいだろうけど、ひとり暮らしをしてる影響もあるんだろうか、老いとか死とかを考えたりする機会がけっこうあるみたいで。
>過去の自分と出会うのはしかたないにしても、年をとると未来の自分とももうじき出会うんだと覚悟を決めるようになる。つまり老いと死をぬきにしては自分とつきあえない。そろそろ自分とおさらば出来るのがそう悪い気もしないのは、自分に甘い私にも、自分をもてあましているところがなきにしもあらずだったのか。(p.58)
とか、
>死生観の代わりに私がもちたいと願っているのは、死生術もしくは死生技である。何も目新しいものではなく、処世術もしくは格闘技のひとつと思えばいい。要するにどう死んでゆくかという技術のことだ。これがなかなか難しい。人は死の瞬間まで生きねばならないものだから、生のしがらみは最後までついてまわる。しかもその最後の瞬間に至るまでに起こる状況変化は、各人の運命によって千変万化する。なかなか予定というものが立てられない。(p.88)
とか、
>(略)私は年をとるにつれて自分がいいかげんになっていくような気がする。若いころは気になっていたことが気にならなくなった。(略)年とって自分が前よりも自由になったと感じる。(略)
>まあどっちにころんでもたいしたことないやと思えるのは、死が近づいているからだろう。痛い思いをしたり身内や他人を苦しめて死ぬのはいやだが、死ぬこと自体は悪くないと思っている。この世とおさらばするのは寂しいだろうが、死んだら自分がどうなるのかという好奇心もある。未来に何を期待しますかと問われれば、元気に死にたいと答えることにしている。(p.108)
とかって、まだまだ元気だったときに書いたんだろうが、80歳になり90歳になり実際に死が近づいてきたときにどう思ったんだろうって、ちょっと考えさせられる。
あと、死生観とは直接関係ないけど、著者が豊栄市の図書館は市民が集う場所をめざしてるって話を紹介したところで、
>私はこの時代を理解するキーワードのひとつに、「寂しさ」があるのではないかとひそかに思っている。日本人はかつてなかったほどに、一人一人が孤立し始めているのではないか。大家族はもう昔話だし、核家族という言葉さえ聞かれなくなったくらい家族は崩れかかっている。私もその一人だが独居老人が増えているし、結婚を願わない若者も多い。会社もすでに疑似家族としての機能を失いつつあるし、都会では隣近所も見知らぬ人ばかり。私たちは帰属出来る幻の共同体を求めて携帯電話をかけまくり、電子メールで埒もないお喋りに精を出し、ロックコンサートに群がり、居酒屋にたむろし、怪しげな宗教に身を投じる。(略)「和」で生きてきた私たちは、「個」の孤独に耐えられないのだ。(p.221-222)
っていってるのがあって、2000年当時の話なんだが、今もっとそういうの加速してるような気もする。
コンテンツは以下のとおり。

 ポポー
 ゆとり
 恋は大袈裟
 聞きなれた歌
 道なき道
 ゆきあたりばったり
 葬式考
 風景と音楽
 昼寝
 駐ロバ場
 じゃがいもを見るのと同じ目で
 春を待つ手紙
 自分と出会う
 古いラジオの「のすたるぢや」
 通信・送金・読書・テレビ、そして仕事
 惚けた母からの手紙
 単純なこと複雑なこと
 内的などもり
 とりとめなく
 十トントラックが来た
 私の死生観
 五十年という歳月
 私の「ライフ・スタイル」
 ひとり暮らしの弁
 からだに従う
 二〇〇一年一月一日
 二十一世紀の最初の一日
ことばめぐり
 空
 星
 朝
 花
 生
 父
 母
 人
 嘘
 私
 愛
ある日(一九九九年二月~二〇〇一年一月)
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想いでの馬の顔

2024-12-04 19:34:07 | Weblog
むかし、ここに書いたと思うが、私の寝床の手の届くとこには、馬の日めくりカレンダーってのが置いてあるのさ。
目覚まし時計を止めたら、その流れでカレンダーをめくるのが、一日の最初にやることだ。

(いま調べたら、ひとからこれもらったのは、たぶん10年前ってことになる、10年ひと昔、早いような遅いような。)

んで、きょう12月4日は、なんと札幌にいたミニチュアポニーのゴルゴが主役さ。

(「大通り公園に来ていたゴルゴくん」ってキャプションついてるけど、たぶんゴルゴが大通り公園とか行ったのは夏のことさ。)
私のパソコンのなかには、馬の顔の写真いっぱいあるけど。
なんも整理とかしてなくて年月日順にただ保存されてるだけ、わざわざ開いて見たりとかしないんだが。
でも、こうして、たまたま古い馴染みの顔を朝から見ることができたりすると、なんか、ちと、ハッピー。
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