many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

恐ろしい玩具

2017-05-28 18:24:11 | 読んだ本
E・S・ガードナー/髙橋泰邦訳 昭和58年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
昭和63年の三刷だけど、このよごれぐあいは古本だな。(私もすぐ本汚すほうだけど、このシリーズは一回しか読んでないので汚すひまない。)
原題は「THE CASE OF THE DEADLY TOY」という1959年のペリイ・メイスンシリーズ。
これまた例によって飛行機のなかでこないだ読み返した、読みやすくてひまつぶしになりやすい。
メイスンの依頼人は、土曜に出勤してまでやってた書類仕事を放り出してでも面会する気になる、若い美人。
正体に気づいて見限った富豪の息子と婚約を破棄したら、殺人事件とかの新聞の切り抜きを送りつけてくる嫌がらせの手紙が届くようになった。
悩んでると、男の先妻に招待されて、話を聞いてみると、男のシッポをつかんで裁判にするチャンスだから協力してくれと言われる。
ところがその翌朝早く、銃声らしき音で目を覚まし、その家の地下室へ行くと、これまでの嫌がらせの手紙と同じ印刷された封筒と、それをつくった印刷機を見つけてしまう。
依頼を引き受けたメイスンと対決すべく一緒にその家へ引き返すと、当然ながら証拠となるものは見つからないし、相手はそんなことしてないと否定する。
メイスンが警察に届ける一方で、ポール・ドレイク探偵事務所に調査にあたらせると、その家では早朝に庭の血痕を洗い流していたという情報を隣人から得た。
そこで聞きこみをしてたところへ、トラッグ警部がやってきて、殺人事件が起きたことを告げる。
細かいことはともかく、いつものストーリーの展開で、メイスンの依頼人が陰謀のわなにかけられて、容疑者にされてしまう。
ところが、いろんな証言から、その家にいた七歳の男の子、富豪の息子と先妻のあいだの子なんだけど、この子がふだん本物のピストルをおもちゃとして触ることをベビーシッターから許されていたことがわかる。これがタイトルの由来。
当然タマは抜いての状態ではあるんだが、そのときに間違ってタマが入っていて、子どもが人を撃ってしまったのではないかと疑われる状況になる。
別れた嫁のことは大嫌いだが、この孫だけは目に入れても痛くないという富豪本人も出てきて、メイスンに圧力をかけたり、孫の身柄を隠そうとしたりしてくる。
父と母と祖父による男の子の扶養権の争いのせいで事件がぐっちゃぐちゃになってるわけなんだけど、メイスンは例によって巧みな反対訊問で、するすると事件の真相を明らかにする。

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昔日

2017-05-27 20:49:15 | 読んだ本
ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗訳 2011年 ハヤカワ・ミステリ文庫
これも年明けぐらいにふつうに書店で買った文庫、ついこのあいだ飛行機での移動の時間とかで読んだ、なんで長距離移動になると読むんだろうねと自分でも思うのだが、スペンサー・シリーズの35作目。
原題は「Now & Then」、なんのこっちゃと思うのだが。
依頼人の男は、妻の素行を調べてくれという。
しょっちゅう外出して帰るのが遅い、帰ってくると酔っていることがある、態度が無愛想だという。
浮気してるのかと問うスペンサーに、男は彼女がそんなことするとは思ってないと言う、信じるのはいいけどねえ、裏切られたとき痛いよ。
離婚がらみの仕事はふだん引き受けないスペンサーだけど、今回は引き受ける。
だけど、依頼人は自分の職業や住所を打ち明けようともしない、ちょっとヘン、妻は大学教授だから、そこで見つければいいと。
かくして、お決まりの尾行とかを始めると、あっさりと大学の同僚同士での浮気のしっぽをつかむことができる。
ちょっと尾行の手というかアシが足りないので、ホークにも手伝ってもらうのだが。
あの依頼人の態度では、言葉で報告しても妻の浮気を信じないだろうと考えたスペンサーは、めずらしくも(自身のモラルに反するような)盗聴器なんか仕掛けて現場の証拠の録音をする。
その録音した現実を依頼人に突きつけたところ、つらい思いに耐えた依頼人は妻を家から放り出して、スペンサーの仕事は終わりになる。
でも、その解決の後味のわるさと、録音された会話の内容が気になったスペンサーは、まだ手を引かない、例によってあちこちを突っつきまわすことになる。
浮気男と女の両方を尾行するために、ホークだけぢゃ人数足りなくて、これまたおなじみのヴィニイ・モリスも駆り出される。
ちなみにスペンサーのヴィニイ評は「私が出会ったなかで最高のガンマンであるふたりのうちのひとりだ」であって、「きわめて正確に動く」とも言ってるが、それは撃ちあいのときだけぢゃなくて、サブマリン・サンドイッチを食べるのも「体の動きが非常に正確なので、シャツにまったくこぼさずに食べることができる」なんて妙な例を出しているのがおかしい。
さて、そんなことしてるうちに、やっぱいつもどおり殺人事件が起きてしまい、こうなるとスペンサーは真の解決をつきとめるまで納得がいかなくなる。
ヴィニイ・モリスは理解できないので、誰からも金が出ないのにどうして放っておかないのだと当然の疑問を口にする。
ホークの答えは「スペンサーはものごとを放っておかないのだ」(p.107)である、さすが理解者。でもホークも重ねて何故かと問われると「わからん」としか言えない。
ヴィニイに「理由はなんだ」と問われたときのスペンサーの答えは「歌も踊りもできないからだ」(p.110)なんだけど。
精神科医である恋人のスーザンの心配は、今回の依頼人にスペンサーが自身を重ねている、二十年くらい前(二十年も前なんだ!?)スペンサーとスーザンが一時期別れて、スペンサーがスーザンを奪回しに行った出来事にとらわれてるんぢゃないかと。ちなみにホークも同意見。
なのでスペンサーが自らの手でホントに悪いやつを捕まえたがってるのは理解するけれど、スーザンはスペンサーが充分な距離を置かないがために、殺されてしまうのではないかと心配する。
こうなってきちゃうと、もうミステリとかハードボイルドとかってんぢゃなくなって、登場人物たちの個人的な問題が主題になってきちゃう、昔読んでたときはそれが嫌になって投げ出したけど、今回は二度目なので私は読み続けてる。
さてさて、そんなクビを突っ込み過ぎてる状況のなかで、FBIとか何だかわかんないけど反政府主義の組織みたいのがからんできて、関係者の周辺は物騒になっていく。
敵も強力で、スペンサーの弱点はスーザンだと見抜いて、そこ攻撃してくるので、“最高のガンマンのふたり”のうちのもうひとりのチョヨが招集されて護衛につく。
なぜ手を引かないのかというスーザンに、スペンサーは「片をつけなければならない」という。
過去をひきずっているスペンサーを心配してるスーザンは、片をつけなければならないのは、最近の事件なのか、ずっと前に私たちに起きたことなのかと問う。
「なんなんだ、スーザン、これはおれがすることだ。きみがすることにおれは指図しないだろう」(p.194)
と人前で初めてスーザンに声を荒げてしまったスペンサー、やっぱ何かひきずってるということか。
まあ、いろいろあるが最後は望むどおりの結末へこぎつけることができて、また成長することができたのかもしれない、騎士道ずきな私立探偵さん。
どうでもいいけど、今回の物語では、すったもんだしてる最中に、スーザンが結婚を考えないかと提案する、まあめずらしい、まだそんな考えあったの。
事件解決に走り回りながらも、そのことについて真剣に考えたスペンサーの答えは、以下のようなもの、とりあえず今のところは。
「おれたちは結婚しそうなタイプだ」
「そうね」
「一方、何も壊れているものはない」
「なのになぜ修復しなけれなならない?」スーザンが言った。
「たぶんな」(p.262)
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われ敗れたり

2017-05-21 18:50:32 | 読んだ本
米長邦雄 2012年 中央公論新社
きのうのつづき。
副題は「コンピュータ棋戦のすべてを語る」。
かくして人間とコンピュータの対決は、ときの名人が二敗するということで、一応のおわりをみてしまったわけだが。
本書は、2012年1月14日に「ボンクラーズ」と対局して敗れた米長永世棋聖の書いたもの。
発行は同年2月10日となってるが、あとがきの日付は1月31日で、対局後ホントすぐに書いたことになるが、まあ始まる前から出版すること決めて用意してたんだろう。
私は当時コンピュータとの対戦に興味なかったんで、ずっと読んでなかったんだが、二、三年前に古本で買った。
そしたら、読んでみたところ、とてもおもしろかった。とっくに読んでおけばよかった。
対局に向けた準備から、局後にもった感想まで、ほんと全部。
で、この対局で米長永世棋聖は、ソフトの初手7六歩に対して、後手番で6二玉という通常見慣れない手を採用した。
(きのうの電王戦で、名人の初手2六歩に対して、ソフトが4二玉と指したのは、この米長6二玉を知ってると妙に感慨深いものがあるわけで。)
これは、
>人間がコンピュータに必ず勝たねばならないとすれば、人間相手にいままで指していた将棋を指すのとはまったく異質なゲームだと考えるべきである。(p.135)
という、事前研究の結果としてたどりついた結論にもとづくものだそうで。
この考え方のバックボーンには、羽生善治さんの意見も採りいれられているに違いなく、コンピュータと対局しなければならないとしたらどうするかと著者に訊かれた羽生の答えは、
>もしもコンピュータとどうしても戦わなければならないとすれば、私はまず、人間と戦うすべての棋戦を欠場します。そして、一年かけて、対戦相手であるコンピュータを研究し、対策を立てます。自分なりにやるべきことをやったうえで、対戦したいと思います。(p.24)
というものだったそうです。
これは、優勝しちゃったらソフトと戦わなければいけなくなる、叡王戦の第一回にエントリーしなかったことからも、マジな考えなんでしょう。
ちなみに、米長当時会長は、この羽生の意見から、持ってるタイトルを全部返上して、賞金ゼロの状態になって、一年後にまたタイトルを獲るためには人間相手の必要な勉強をして予選から勝ち抜かないといけないわけだから、コンピュータと羽生を対局させたかったら七億八〇〇万円の対局料を払えと、週刊誌のコラムに書いたそうな。
ま、カネの話はいいとして。
いまはコンピュータ側の指し手は、進化しつづける「電王手」さんが指すんだけど、2012年当時は手のないコンピュータの代わりに誰か人間が盤の前に座り駒を動かしていた。
米長永世棋聖は、自分にその人選をさせることを要求したんだけど、その条件として、
>1 将棋が強いこと
>2 私と同じくらいに対局時に真剣になってくれること
>3 目障りにならなくて、私の気を散らさないこと
>4 私を尊敬してくれていること(p.74)
という項目をあげて、四番目の条件で探すのに難航したとかいいつつ、弟子の中村太地を指名した。
その中村太地さんがきのうの解説をしてたのも、なんかの巡りあわせかなという気もするが。
中村太地さんは将来の連盟会長ではないかと評判のデキたひとなんだが、きのうの終盤はやや壊れ気味でしたね。
遊び駒を取られるのにまかすとこで「ニートは要らない」って言ったのは、すごいウケてました。
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理想を現実にする力

2017-05-20 18:49:03 | 読んだ本
佐藤天彦 2017年4月 朝日新書
前回から将棋つながり、羽生さんの本と同時に買った。
その羽生さんを、こともあろうに名人戦で破って、戴冠した天彦名人の棋書ぢゃない本。
(こともあろうにというのは、持ち時間が短い棋戦なら若手が一発入れるかもしれないが、二日制で羽生の堅塁を抜くのはまだ無理ではと思ってたから。)
こういうのは、っていうのは、棋士とかスポーツ選手とかにビジネスに強引につなげるような筋道で書かせたんぢゃないかというような本は、あんまり興味はなかったんだけど。
でも天彦名人のものの考え方って、これまであんまり耳にしたことないような気がしたんで、ひとつ読んでみようと思った。
たとえば、天彦名人といえば、なんといっても、奨励会で次点二回とったのにフリークラス入りを選ばなかったっていう経歴がすごいからねえ。
どの棋士も、三段リーグにだけは戻りたくないって言うのに、そこに居残るのはどういう判断だったのか、そこに何か隠された真実があれば知りたいと思ったが。
本書によれば師匠のコーヤンの意見だったようで、本人はどっちでもよかったようなこと書いてるので、ちょっと拍子抜けした。
天彦名人の将棋に関しては、よくわからないんだけど、勝ちを急がず、局面を複雑化させることを厭わない、っていうイメージがあるが。
将棋の勉強法については、プロになってからあらためて棋譜並べをして、クラスが上がんない期間でも、基礎固め・土台づくりをして実力を養ってるという意識があったようで。
かっこいいのは、
>私は、努力に比例した見返りが必ずあるという考えは持っていません。(p.150)
というところかな。そういう考え方には賛成。
あと、とても感心したのは、
>私が奨励会時代やプロになってなかなか芽が出なかったときに実行していたのが、そのつらい瞬間を人生全体から俯瞰して見る、ということでした。(p.192)
ってとこ。
>そう考えると、仮に八十歳で寿命が尽きるときに自分の人生を振り返ったとしたら、三十歳のときのしんどい出来事もきっと懐かしい思い出になるような気がするのです。(p.193)
って、そういう二十代、ふつういないと思う。
本日は、最後の電王戦で、ソフトと戦っているけど、いま現在かなり苦戦の模様。がんばってください。
コンテンツは以下のとおり。
第1章 すべては理想を持つことからはじまる
第2章 劣勢をはね返す逆転の心がまえ
第3章 奨励会を生き抜くということ
第4章 名人を生んだ低迷期の過ごし方
第5章 勝負は感情で決まる―天彦流メンタル訓練法
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人工知能の核心

2017-05-14 19:35:00 | 読んだ本
羽生善治・NHKスペシャル取材班 2017年3月 NHK出版新書
きのう採りあげた本の帯に「正解を出すだけなら、人工知能(AI)でもできる。」なんてあるものだから、そういうつながりで、というのはこじつけだが。
一年くらい前に、NHKのテレビで羽生さんがメインレポーターになって人工知能に関する番組やってたのを観たんだが、それがたいそうおもしろかったので、これは買ってみた。
(しかし、あの番組再放送してくんないかね。録画したんだけど、最初のときも再放送のときも地震速報が鳴るんでヤなんだよね。)
テレビでやったときは、アルファ碁っていうディープラーニングとやらをつかった人工知能が、韓国のトップ棋士のひとりに4勝1敗した直後の時期だった。
なかみは、その番組の復習みたいなものなんだが(と言っても一年間観なおしてないので、ほとんど忘れてるが)、羽生さんが文章書いて、それぞれの章末にNHKのディレクターがトピックに関連するレポートをつけるという形式。
囲碁将棋以外のことももちろん書いてあるんだが、やっぱ将棋に関連するところが、おもしろいっていうかわかりやすい。
棋士が直感で読む手を絞っていくときにつかうのは「美意識」だと羽生さんは書いているが、人工知能にはその美意識がないらしい。
かわりに、人工知能には恐怖心もないので、それは勝負のときは強みになっているけど。
あと、人工知能とは直接関係ないけど、収集した情報の使い方について、戦型を分析するのに棋譜並べをするとき、プリントアウトして指でちゃんと駒を並べるんだけど、
>しかし、ある程度溜まったら、そのプリントは捨てることにしています。そう決めておけば、「ここで覚えないと、もう見られなくなるぞ」と覚悟を決めて、学ぶことができるのです。(p.208)
とサラッと言ってる、実にかっこいい。
もちろんパソコンも使えるんだけど、「簡単に見たものは簡単に忘れてしまいます」と断じてる。
(ちなみに「いい手は指が覚えている」というのは郷田真隆の名言だ。)
で、そのちょっと前のところに、
>実のところ私は、今の若い棋士たちの、未知の局面に出合ったときの対応力が少々落ちている気がしています。(p.204)
とチクッと書いてたりもします。
人口知能に人間が取り巻かれる環境が今後どうなってくかはわかんないけど、私はこれ以上自分の脳を外に出したくないですねえ、とか言ってスマホすら持たないようにしてます、とりあえず今は。
章立ては以下のとおり。
第一章 人工知能が人間に追いついた―「引き算」の思考
第二章 人間にあって、人工知能にないもの―「美意識」
第三章 人に寄り添う人工知能―感情、倫理、創造性
第四章 「なんでもできる」人工知能は作れるか―汎用性と言語
第五章 人工知能といかにつき合えばいいのか
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