many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

南太平洋ひるね旅

2015-07-30 20:11:56 | 読んだ本
北杜夫 昭和48年 新潮文庫版
ときどき読み返してる北杜夫。
持ってるのは昭和56年の17刷。
刊行されたのは1962年。1961年12月から1962年2月にかけての旅行記。
著者の「航海記」とちがって、ふつうに飛行機つかって、ふつうにホテルに泊まっている旅。
ハワイ、タヒチ、フィジー、ニューカレドニア、サモアをめぐる。
あちこちで現地に住んでる日本人の世話になったりする、歓迎されてるって言ったほうがいいか。
第二次大戦後まだ16年なんで、いまとは観光っていっても度合がちがうんだろうけど、すでに現地の踊りとかは観光客用に披露するためのようなものもあったっぽい。
それでも、ポリネシアでは人肉を食べることは広く行われてた風習、みたいなこと書いてあると、ドキッとする。
(土人とか酋長とかって表現も、いまではあまり使わないね。)
著者は、かねてよりの趣味で、南太平洋の島々に行くにも、捕虫網を持っていくんだが、残念ながらお目当ての蝶に出会うことはなかった。
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チベットの先生

2015-07-29 19:46:47 | 中沢新一
中沢新一 平成27年2月 角川文庫版
中沢新一の師、ラマ・ケツン・サンポの自伝を再編集したもの。
もとの本である『知恵の遙かな頂』(1997)は、私は読んでない。
もしかしたら、そのころには、チベットや仏教に関する興味は失せちゃってたのかもしれない。
今回は、ほかの中沢新一氏の新刊を書店で買おうとしたら、近くに見かけたんで、ついでに買ったようなもの。
読んでみれば、おもしろい。
ケツン・サンポ師が、幼少のころから、心に関する真理を知ることに目覚め、仏教を学ぶことを志したとこから。
いろんな師と出会い、貴重な体験を重ねる一方、修行のジャマをされるような出来事にぶつかったこともしばしば。
そして、1959年に、チベットを脱出し、ブータンからインドへと亡命するんだけど、このあたりのチベット民族の悲劇については私は何も知らんかったんで、けっこうショックだった。
なんで、チベット仏教なんかに興味があるかっていうのは、説明すんのは難しい。なんでタイガースファンになったのかっていうのと同じくらい、もう理屈ぢゃなくて何故か長いこと染みついちゃってる性質のようなもんだから。
でも、まあ、たとえば、中沢新一の書いている序文のなかの次のような一節あたりが、わりと近い気がする。
>自分たちは日常の生活では、煩悩に覆われて、他人のことを思えば嫉妬に燃え、自分より恵まれた人間のことをみると、悔しいと思い、逆に少しでも自分の方が上に立っていると思えば相手を見下す。毎日自分の心は煩悩でいっぱいだけれど、このヨーギン(引用者注:ヨガ行者のこと)たちの姿を見れば、人間の世界には、そういうことを突き抜けている人もいるのだと知るのです。物質的富は何も持たず、精神的な価値だけで生きることで、人間は偉大なものに近づける。そういうことを実践してみせている人に心打たれるのです。(略)
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業について考える

2015-07-28 21:14:07 | Weblog
学生んときの先輩が亡くなってしまった。
それで昨日通夜に行ってきた。
土曜日に亡くなったってことらしいけど、日曜日に同じつながりの先輩が私に教えてくれた。
不義理極まりない私のこと、連絡先をやりとりしてなくて、それでも四方八方手を尽くして、電話してきてくれた。
それだけでも、こいつぁ行かなくちゃ、とは思った。
故人は、私が所属してたサークルの先輩で、学部は違うけど、いろいろ世話になった。
有体にいうと、彼が私の一代前の代表で、私がそのあとを継いだ。(今ぢゃ私にはキャプテンシーの面影も何もないけどね。)そういう意味ぢゃあ、引き継いだものとか共有するものとかがいっぱいある。
ぶっちゃけた話、その先輩には、私をそこに引き入れたっていう縁もある。
入学式当日、同じ競技でも十も二十もサークルがあって、どこがいいのか全く分かんなくて途方にくれてた私は、もういいから最初に勧誘してくれたとこに即入ろうって決めて、そのエリアをうろうろしてたんだけど、そこに声かけてくれたのがその人だった。
私の学生時代は、このサークルと、3,4年時に在籍したゼミしか、居場所っていうか、交友関係がなかったから、そこでの出会いは、まあ、運命を決めたものと言ってよろしいんぢゃないかと思う。
だから、行くしかない。
無沙汰は申し訳なかったけど、ここで行かなきゃ人ぢゃないよな、って思って、出かけてった。
で、通夜終わって、当時関係のあったメンバーで集合した。
通夜で並んですわった連絡くれた人を含め、先輩が四人(うち二人は私が新入生のときの四年生、ひとりは三年生、いずれもアタマ上がんない)、タメ一人、後輩一人、私をいれて計7人。
場所を変えて、帰りの新幹線の時間まで、小一時間、酒など飲みながら歓談した。
無沙汰極まりない私は、みなさんとは卒業以来初めて会う。
でも、変わってないな、とか言われる。
あまりの音信不通ぐあいに、なんでも、私の死亡説ってのも流れてたらしいけど、すいませんねえ、ちゃんと生きてます。
(みんな口悪いので、そのくらいは気にしない。私だって逆の立場なら、そのくらいのことは言う。)
でも、関係を断ってたら、人ってのは存在しないのも同じだから、死んでたようなもんかもしれない。
土日が仕事、というのを言い訳にして、会合には出ず。
転勤・引越が多くて、というのを言い訳にして、現在地を連絡するのを怠ったりして。
まったくもって、つながりを断ってたのは、私の責なんだけど。
今も、あらゆる関係から、フェイドアウトしてっていいや、と思ってる自分がいるのは否めない。

人は死んでも業が残る、とは私が仏教に興味があったころ、ある僧侶から聴いた言葉。
人同士のいろんなつながりがあるんで、たとえ本人死んぢゃったとしても、その人のことを思い出すとか、それが縁で知りあいの知りあい同士が集まるとか、なんかそんな意味を含んでる。
あのとき、私をそのサークルに引き入れた人が、亡くなってしまったけど、それを縁に、またそのメンバーに再会させてくれてんだと思うと、得も言われぬ感想を持たざるをえない。
でも、葬儀に出るたび思うことなんだが、私が死んでもこんなには人は集まらないなあ、と思う。(それが私の業。)
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猛暑日の芦毛くん、とっても素直

2015-07-27 23:52:11 | 馬が好き
乗馬にいく。
さすがに今日は、自分でも、よせばいいのに、とチト思うくらいの暑さである。
さっさと乗って、さっさと終わろうと思う、それが馬のためでもある。

きょうの馬は、前回につづいて、マイネルミレニアム。
本日も、この4月から乗馬を始めたひとペアで乗ることになった。
ほんとは私がやるべきなんだろうけど、馬装をぜんぶやってもらっちゃった。
なにごとも経験だし、私も始めたころはいろいろ自分でやってみたかったし、って思う。実際、楽しそうにやってくれるしね。
んぢゃ、始めますか。お先に乗ります。

室内は室内で、風が吹かないので、それなりに暑い。でも、まあ、(そこで外で乗りたいっつったら)それは贅沢だろう、炎天下に比べたら。
部班は後方から二番手につけて、タラタラと列についていく。
とはいうものの、マイネルミレニアムは、ポンと脚使うとスッと反応してくれる。
ちょっと鈍いなってときは、も一回ポンとやる、その代わり動いたらすぐホメる。
主に軽速歩で蹄跡を進んで、ときどき輪乗り。
常歩と速歩の移行、軽速歩と正反撞を代わりばんこにやったりする。
ときどき勝手に歩度伸ばしたりする、っていうか前との距離が空いちゃったときには伸ばさざるをえないからねえ。
速歩でアブミちゃんと踏めない。なんか右に傾くなあとか思って、それ直そうとジタバタ脚で押そうとしたりするんだけど、そういうときヒザが上がってしまうから。
ムダに脚の大きな筋肉を動かしてるんで、たちまち暑くなってくる、力入れなくていいとこに入れるから、涼しく乗れないのは自分が悪い。

輪乗りで駈歩する。発進はいいんだけど、そのあと歩度伸ばそうとしても、いまいち動いてくれない。
内に倒れてるかなあとか、ジタバタ直そうとすると、またアブミがあやしくなる。
馬って前に勢いよく進んでないと、体勢を直そうとしたってどうしようもない、せいぜいが止まるだけだ。
しかたないんで、なるべく勢いよく走らせること先にやって、それから顔を内に向けようとかいろいろやる。
「もっと動いていく馬に乗ってくように」と言われる、動かねえっす、馬も暑そうでペース上げたくなさそうで。
とは言え、なんか前より乗りやすい気がするぞ、マイネルミレニアム。
あんまりアタマ上げたりとかムダな抵抗をしないからかな。もしかしたら暑いからかもしれないけど。
ゆーこときいてりゃ早よ終わるかな、というふうにみえる馬は、とてもかわいい。
おしまい。よっくホメて、降りる。もう一鞍わるいけど頑張ってな。
二鞍目は最初せっせと歩いてたけど、だんだん鈍くなってきた感じがあって、そこで途中からムチを持たせたら、しゃーないなーって感じでまた動き出した。かわいい。

終わったあとの手入れ=馬丸洗いも、若いひとにやってもらう。
(ふつうは、一鞍目の人が馬洗う、二鞍目の人が馬具片付ける、って暗黙の掟がある、らしいんだけど。)
任せたら楽しそうにやってくれるから、いいんぢゃないの、って思うわけだ、私としては。
終わったあとのリンゴ係は引き受ける。おいしいとこだけ受け持ってすいませんねえ。
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村上龍全エッセイ1976-1981

2015-07-23 20:43:17 | 読んだ本
村上龍 1991年 講談社文庫版
村上龍のつづき。
(もう気持ち悪い本は探したくなくなった、いいかげん。)
タイトルそのまんまの本、雑誌連載とか、新聞の単発のコラムとか、自書のあとがきとかひとの本の解説とかいろいろ。
帯に『限りなく透明に近いブルー』から、『コインロッカー・ベイビーズ』まで、ってあるとおり、その時代のものなんだけど。
“ブルー”の受賞が1976年、“コインロッカー”の刊行が1980年、でも前回の短編の『ニューヨーク・シティ・マラソン』の発表が1977年なんで、このなかには“マラソン”に関するものも入ってたりする(単行本は1986年)。
「ニューヨーク日記」って、1976年10月の2週間ほどの旅行記がそれで、
>汚いファーストアベニューを黙々と走る人たちを不思議に思った
ところから、「これは小説に使えると思」ったという。
>娼婦と一見してわかる黒人や、化粧して走るゲイがいた。
って、そこで小説のタイトルを決めたというエピソード。
なんせ活動的なひとだから、ほかにもいろんなところへ行ってる。
リオデジャネイロにカーニバル見に行ったり、トラック島(どこ?)にダイビングに行ったり、防衛大学に取材に行ったり、そうかと思えば29歳にして中型のバイクの免許をとりに行ったり。
人に会いに行ったなかでおもしろいのは、当時バリバリの現役だった横綱北の湖。
彼から受けた印象について、
>なぜ北の湖がさわやかであるかといえば、そんなことは当り前だ。自分の持てる力を開拓して、世に自分を正統なやり方で認めさせる、誰の力も借りずに才能と体力で地位を得る、そこには根性がよじれる要素が皆無なのである。性格が屈折する原因がないのだ。
と解説してる。ときどきこういうドキッとさせられることを書いてくれるから、村上龍のエッセイはおもしろい。
>「脳に対する心臓の優位性」というテーマを全面展開したのが、「コインロッカー・ベイビーズ」であるが、私はもともと「意識」とか「心理」が嫌いだ。精神分析も好きではない。
>近代の作家が描いてきた「苦悩」は、薬物の操作で作り出すことも消すこともできる。「まず苦悩がある」式の小説は、時代遅れなどというのではなく、本質的に下らないのだ。
というのも、気に入った一節(「はじめにビートあり」)。完全に同意するかどうかは別として。
(しかし、この人は、自作を解説しすぎるような気がするんだよね。こう書いたんだから、こう読め、とか言わなくてもいいんぢゃないかと。)
しかし、それにしても、大麻、LSD、ヘロインとかをやったときに、どんなものが見えるかなんて話を堂々と書いてるのは、時代だなあという気がする。今だと、そういうの許されないよねえ。
(作者がよくても、出版社が削ると思う。放送禁止といっしょで自粛の論理。)
>(略)ヘロインで一度家具化の経験を済ませると、LSDをやって狂乱状態になった時、猛烈にヘロインが欲しくなる。(略)
とか(「白昼の影」)コラコラって感じでしょ。ただ、そのあとに、
>(略)私は過去、薬物による錯乱から、たった一つのことを学んだ。逃げることはできない、ということである。(略)
だなんて書いてあったりすると、それなりにカッコいいような気もする。


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