鹿島茂 2004年 中公文庫版
前に読んだ『セーラー服とエッフェル塔』がおもしろかったので、同じ著者のものをもうひとつくらいと思い、地元の古本屋で見つけた。
タイトルみて、これは専門的でむずかしい文化論なんかぢゃあるまいと思って手を伸ばしたんだが、正解、おもしろかった。
著者の専門は19世紀のフランスの文学と社会生活だっていうけど、ちょっとそういう方面には興味ないんで。
女子大でフランス語教えていて、よくフランスにも行くそうだけど、格安ツアーが好きとか、サラ金に借金してるとかって書いてあると、お偉い先生にはみえない。
もっとも銀行ローン・カードを6枚持つ多重債務者になったのは、古本の衝動買いを続けたからだっていうから、やっぱそこは研究者なんだろう。
ちなみに、
>本の無限増殖が始まったのは、六年前に新聞の書評委員を始めてからで、寄贈本の数が数倍になった。二、三年前から週刊誌の書評も担当しているためか、寄贈本が毎日三、四冊は届く。(略)さらに、書評のために本屋で買ってくる新刊もこれに加わるから、年に二千冊は増えてゆく計算になる。(p.125-126)
という生活だという、すごい。それ全部読んでるんだから、すごい。
その本を家中の置けるところには置くから、たとえばグランドピアノも鍵盤覆いから足元まで全部本に包まれてて、知らないひとはピアノがあることに気づかないって話は笑えた。
で、古本の衝動買いとか、珍しい本の自慢話だと、マニアックすぎてつまんなくなるかもしれないけど、本書はそういうもの以外の話がほとんど。
単発の買い物もおもしろいが、「自分用の記念のお土産というものに歯止めがきかないたち(p.152)」だと自ら認めてる、ミュージアム・グッズを次々買っちゃう話なんかもおもしろい。
フランスに出かけたときのことで、まずフォンテーヌブローの宮殿で、ワーテルローの兵士の鉛の人形四体セット32フラン。
ヴォー・ル・ヴィコントの城で、銀の深皿を三つ寄せ集めてその真ん中にリスを配したキャンディー入れ149フラン、城とリスの絵の小皿25フランを2枚、ちなみにリスは城を建てた財務卿フーケのエンブレム。
モンテ・クリスト城で、『モンテ・クリスト伯』の本を模した素焼きの小物入れ240フラン、『王妃の首飾り』に出てくるハート形のダイヤをまねたネクタイピン100フラン。
カルナヴァレ美術館で、コクトーのデッサンした猫のブローチ200フラン、スタンランの猫のポスターを六枚の切手セットにしたもの、ただしこれは奥さんへのお土産。
ホテルの近くのパサージュの彫版屋で、猫がヘッドになった金属製の栞を一つ120フランのところ三本で300フラン。
マドレーヌ大通り近くの高級文房具店で、前から欲しかった銀のペーパーナイフ600フラン、ついでに古本の背表紙の写真をカバーにした書類入れ280フラン。
クリニャンクールの蚤の市で、鉛の人形のナポレオンが250フラン、連隊騎手が220フランのところ、二つで380フランに値切って買う。
そこで横のショーウィンドーを見たら、シトロエン2CVのミニカーの1950年代タイプの赤があって、650フランというのを交渉して500フランで購入。
帰る日の朝に、近所で香水博物館を見つけ、ガラスのエッフェル塔の香水ビン120フラン、復活祭にちなんだ卵形化粧石鹸6つ詰めパックと、香水石鹸三箱セット、それぞれ60フラン。
最後に出発間際に、エスプレッソ・カップ100フラン2客とソース入れ、ナポレオンの二角帽デザインの香水350フラン。
>これで、ブランド買い出し物欲女子学生に、いったいきみたちは買い物以外に興味がないのかと非難しているのだから、まったく聞いてあきれるというものである。(p.159)
という見事な買い物っぷり。
おもしろいのは、ただ買ったものを見せびらかそうっていうんぢゃなくて、衝動買いしちゃう心理を綴ってくれてるところにあり、なかでもウサギの時計を買っちゃったところが、一読したなかで私のお気に入りである。
佐賀で有田焼のウサギの絵柄のキー・ホルダー時計を買ったんだが、
>じつは、その前日、同宿したウサギ・グッズ収集家の大学の先生から、自慢のコレクターズ・アイテムの数々を見せられて、そうか、こういうテマティクなコレクションもアリなのかと感心したという背景があったのである。それが翌日、さっそくミュージアム・ショップでウサギ時計と遭遇したものだから、つい、俺も負けてはいられない(いったい何にだ!)という理不尽な対抗心が働いて、それを買ってしまったのである。(p.97-98)
という、自身で「いったい何にだ」とツッコミ入れるほどしょうもない意識に突き動かされてることを白状しているのがいい。
ところが、次に行った場所で、ほんとはキー・ホルダー時計よりも欲しかった腕時計を見つけてしまう。
>あそこでキー・ホルダー時計を買ったのは失敗だったかもしれない。本命はここにあったのだ。
>(略)こういうとき、ほかのものを買ってしまったからと本命をあきらめることほど健康に悪いことはない。後悔が残らないようにするには、それも買う以外にないのである。(p.99)
と言ってるんだけど、そのへんはさすがに古本好きな人である。
欲しかったものは買わなきゃいけない、後日いつかではなく今買わなきゃならない、それってすごくわかる。
それに続く、今回これ買わなきゃって心理が爆笑もの。
>しかも、聞くところによると、この月中ウサギの腕時計は現品一個しか残りがないという。もし、今買わなければ、あのウサギ・コレクターの先生が買うにちがいない。私はこういう競り合い状況にはなはだ弱い。自分が買わなければ他人が買うということが許せないのだ。これまで、こうした競り合い的買い物で、どれだけ無駄なものを買ったかわからない。古本はもちろんのこと、中古のシトロン2CV、アンチックの机、石膏のキツネの置物、みんな、演出された(?)競り合いにはめられて買ったものばかりである。(同)
だって。
コンテンツは以下のとおり。初出は「中央公論」連載だそうで、単行本は二〇〇〇年発行。
腹筋マシーン
ふくらはぎ暖房器
通勤鞄
挿絵本
財布
猫の家
男性用香水
サングラス
体脂肪計
ごろねスコープ
パラオの切手
時計
封書用ペーパーナイフ
ヴィンテージ・ワイン
本棚
中華健康棒
格安パックツアー
ミュージアム・グッズ
パソコン
しちりん
ブリーフvsトランクス
毛沢東・スターリン握手像
チーズ
丸谷才一 昭和52年 新潮社
これは、おととしの秋に、丸谷才一を集めたくなって、いくつかまとめて買ったときの古本、最近になってやっと読んだ。
困ったもんだね、手に入れてしまうと安心して読まないようでは、読者ではなくコレクターになってしまう。
カバー表紙の絵が、なんか丸谷才一ものっぽくないんだけど、おなじみの和田誠ではなく装幀は池田満寿夫となってました。
なかみは、わりと短めのものが多い随筆集。
最初の章の「低空飛行」は、『小説現代』1976年に連載されていたもの。
だから、ロッキード事件とか、そういうなつかしい言葉がでてくる、そんな時代を映してる。
(どうでもいいけど、こないだ『バイス』って映画みて、日本でもなんか政治のアブナイ話を映画にできないのかねって考えたとき、私が思い浮かべたのはロッキード事件だった。)
それにしても、いまや2020年だというのに、1970年代のもの読んでるのがけっこうおもしろかったりするんで、私の文学に関する趣味はそこらへんで停まっちゃってんだろう。
そういやあ、小説だけぢゃなくて、映画とかテレビドラマとかでも、“ケータイがない”時代のものがたりのほうが、私には妙にしっくり来るようなこと自覚してるし。
閑話休題。
第二章の「自伝の材料」は、タイトルのとおり、自身のことを書いたもの、60年代後半からのあちこち違った媒体に載せたものを集めてきた感じ。
つぎの「肖像画集」は、逆に他人の肖像、他人ったってもちろん親しい知り合いに決まってるが、誰々さんのことって感じでエピソードをつづったもの、文庫の解説とか全集の付録とかが含まれるのもうなずける。
第四章の「ちよつと文学的」は、また長短いろいろ混ざった随筆。
第五章の「田村隆一との付合」は、私はこれまでもほかの著書で多く名前を目にした田村さんとの「友だちづきあい」のことだろうと思ったんだが、よくみると振り仮名が「つけあひ」。
付け合いってのは、連句をやってって、相手の句に、五七五のあとに続く七七をとか、付けてくことを指すらしく。
なかみは、読売新聞1976年5月10日から6月5日まで交互に二人が書いてった連載コラムのようで、前日の相手の内容を受けて次の日に間に合うように書くのは忙しかったんぢゃないかという気もするが、まあ、このくらいはちょちょいのちょいなのかも。
最後の「おしまひのページで」は、このタイトルなら書き下ろしかと思ったら、そうぢゃなくて、『オール読物』が初出。
単行本で一篇が2ページと短いのでコラムみたいだけど、12本あるから一年連載分かと思いきや、1969年から1976年にわたっていて、不定期に書いたものなのか、それとも随筆集に採用されずに残っていたりしたものなのかは謎。
コンテンツは以下のとおり。
I 低空飛行
勅語づくし
酒の肴
兵隊の位
街と料理屋
終り方が大切
野坂昭如は確信犯なりや
小佐野さんのムームー
金の怨み
新聞の値段
最上のもの
ゴキブリの言葉
男の運勢
II 自伝の材料
丸やギ左衛門のこと
子供ごころ
あの年の夏
夢判断
先生であること 1
先生であること 2
天井が落ちた話
その夜のこと
前頭五枚目
忘れられない味
III 肖像画集
画家としての福永武彦
委細面談
大野さんのこと
宗匠
菊池武一
郷愁
百メートル十一秒の花嫁
友よ熱き頬よせよ
変形譚
相撲評論家としての吉田秀和
中野桃園町
彼の釣魚大全
友達の本
山本森康
田辺さんの戦争体験
兵士の勇気
先輩
ドナルド・キーン
独断的平野謙論
IV ちよつと文学的
ゴシップに強くなる法
薬の名前
一冊の本
一戒
二次的文学
七月七日のこと
雪の空
V 田村隆一との付合
最初の東京/最初の京都
散歩/走る
曳く・押す/「人間」
小堀さんから聞いた話/居酒屋
詩話/白昼夢
学長の夢/寝室
ユトリロのダブリン/カンパチ
微笑/おまつり
空豆/ドナリー
書評者としての文学者/イミテイション
和田誠/珍竹林
あぢさゐ/つゆのあとさき
VI おしまひのページで
さよならは日本語
遊べや
十貫坂にて
先生の前
旅の心得
アメリカのウォッカ
神様になる
賭け
挨拶の句
出世魚考
博物誌
難問
サンキュータツオ 平成28年 角川文庫版
去年11月だったか、なんかのついでに手に取ってみた中古の文庫。
著者については私は詳しくないんだけど、立川談志家元の残された上演を紹介するテレビ番組でナビゲーターをしてたのを憶えてたんで、そんなひとが何を書いているんだろうと気になったもんで。
そしたら、お笑い芸人なんだけど、早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻博士後期課程修了、文学修士だって。(本書カバーの紹介)
ってことは、趣味で好きなことについて書いたわけぢゃなくて、専門家による解説かと読み始めてすぐおどろかされた。
だから熱い熱い、国語辞典に対する思いがハンパではないことはすぐわかった。
いろんな国語辞典をとりあげて、どれも同じなんてことはなく作った編者の思いによって記述に特徴のある作品なんだ、ってあたりが大体メインとして訴えたいとこ。
だから、タイトルは「遊び方」だけど、選び方を教えてくれてる感じ。
かばんだって、どこへ出かけるのか何の用事で何を持ってくかによって、使い分けるでしょ、とか。
辞書を一冊しか持ってないのは、フォーク一本でどんな料理も食べてしまおうというのと一緒だよ、とか。
そういう例えでもって、国語辞典は複数使いなさい、と言われると、なるほどと思ってしまう。
後者の例の議論で大事なのは、ナイフやスプーンや箸も使えるようでないとマナーが乱暴になり、
>たとえば、誰かにメールを送るとき。いつも自分がフォーク一本で食べていれば、相手もフォーク一本で食べているものだと無意識に思ってしまう。(p.92)
ってことになり、相手を不快にさせたり、それで自分が痛い目にあったりするよ、というとこだと思う。
それにしても、
>「大人なら国語辞典は二冊持て!」これを私は、声を大にして言いたい。(p.79)
とか、
>毎年、「今年のベスト語釈賞」とかを決める国語辞典祭りができるくらい、ファンが増えたらとってもうれしく思います。(p.235)
とか、熱くなるのは理解できるんだけど、「『言海』をつくった大槻文彦氏を大河ドラマの主人公に」くらいまでいっちゃうとマニアックすぎてわかんなくなったりする、おもしろいけど。
ああ、そうそう、本書でひとつ気になるのは、話し言葉で書いてあるのはいいんだけど、とにかく「!」が多すぎて、それがちょっと読みにくく感じる、熱い思いを伝えたいのはいいけどそんなに「!」は要らないって気がする。(さすがに数えはしないけど。週刊ジャンプ級ではないかと。)
さてさて、そういう調子で、紹介されてる辞典のなかで、興味があるのは『基礎日本語辞典』かな。
ことばの本質的な意味を説明してくれる、「ことばの置き換え」するだけぢゃ辞書の意味はない、って観点から作られてるってのは読んでみたくなる。
あと、『日本語 語感の辞典』も見てみたい気がする、何か書くとき私はたいてい普通の辞書ぢゃなく『類語国語辞典』で済ませているもんで。
それと、どうでもいいけど、現在の日本語の文法では「形容動詞」って品詞の分類はメジャーぢゃないってのは、初めて知った。
外国人が日本語を学ぶときは、「イ形容詞」と「ナ形容詞」ってのを教わって、むかし私が学校で習った形容動詞は、連体形が「な」で終わるから「ナ形容詞」なんだって。
コンテンツは以下のとおり。
第1章 広くて深い辞書の世界をナビゲート
1.国語辞典は、みんなちがう!
2.国語辞典のルーツ
3.辞書の中にもブランドがある
4.国語辞典は二冊持つ時代
5.なぜ、こんなに多様化したのか?
6.忘れちゃいけない文法問題
7.辞書のディテールを楽しむ
第2章 タツオセレクト! オススメ辞書ガイド
1.キャラクターで解説! 個性派辞書図鑑
『岩波国語辞典』
『新明解国語辞典』
『明鏡国語辞典』
『集英社国語辞典』
『新潮現代国語辞典』
『ベネッセ表現読解辞典』
『角川必携国語辞典』
『新撰国語辞典』
『三省堂国語辞典』
『日本語 語感の辞典』
『基礎日本語辞典』
2.まだまだある! 紹介したかった「国語辞典」たち
3.タツオオススメ「辞書関連本」
デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳 平成十三年 新潮文庫
『卵をめぐる祖父の戦争』がけっこうおもしろかったので、同じ著者のものをもうひとつ読んでみることにして古本を買った。
原題「THE 25TH HOUR」」は2000年の作品で、デビュー作らしい。
デビュー作ってのには著者のそれまでのすべてが詰まってることがわりと多いので期待してしまう。
舞台はニューヨークで、1月最後の木曜日から金曜日にかけて。
主人公のモンティは元麻薬の売人、つかまって懲役7年が決定、明日から刑務所入るのでシャバでの最後の一日。
判決がくだされる前も、判決が出たあと自ら収監されに出頭する日までも、自由の身で過ごせるっていう変わった立場。
トシはたぶん27歳というところだけど、ものすごく羽振りがいい、クスリは高く売れるから。
生業は犯罪行為だけど、ふだんはどこのナイトクラブへ行っても用心棒に「モンゴメリー・ブローガンだ」って名前言えば、並んでるほかの客なんか飛び越して、中に入れてもらえる影響力を持っている。
アイルランド系らしいが、豊かな黒髪、きれいな緑の眼、長い睫毛、まっすぐに伸びた鼻梁、粒のそろった小さい歯、とてもハンサム。
容貌が可愛すぎるんで、ともすればなめられがちなのを承知してて、子どものころから先に相手を殴ることをして一目おかせてきた危ない面もある。
でも意外なことに、死にかけてたとこを拾った犬を大事にしてかわいがってたりする。
そんなモンティが明日の正午には刑務所に出頭する、そのあとは悲惨な84か月が待っているという最後の一日をどう過ごすか。
プエルトリコ系のかわいいカノジョがいるんでもちろん一緒の時間を過ごす。
夕飯は父親と一緒に二人で食べる、父親の経営する酒場はモンティの保釈の担保になってたりするんだが。
そして夜の11時くらいからは、ハイスクール時代の同級生でいまも親友の二人、銀行トレーダーのフランクと高校教師のジェイコブとナイトクラブで合流する。
クラブはまるで街じゅうがさよならを言いにきた送別会みたいで大にぎわい。
それでも明日は迫ってくる、最後の朝まで一緒にいる親友の二人にモンティは頼むことがあった。
読んでるうちに、刑務所への不安から、主人公が自殺を選ぶんぢゃないかと、すこし嫌な予感にハラハラしてくるんだけど。
ラストは、なんていうかちょっと映画的な感じがして、なんとなく『ラ・ラ・ランド』を私はおもいだした。
そういえば、基本最後の24時間のできごとを書いているんだけど、折にふれて、ハイスクール時代のこととか、麻薬の商売のこととか、主人公と彼女のなれそめとか、逮捕されたときのこととか、過去のエピソードが語られるのも、なんか映画みたいな感じ。(なんつーの、フラッシュバック? 用語よく知らないんだけど)
京極夏彦 2009年 講談社文庫版
出てるだけ読んでみようと思った京極堂シリーズ、去年のうちに買っといたんだけど、最近やっと読んだ。
読み始めたらサクサク進めるんだけど、厚いから実際に手に取って開くまでがなんか躊躇しちゃうようなとこある。
例によって妖怪に魅入られたかのように人を殺そうかというまがまがしい予感のような感じで始まるんだが。
物語の幕が開いてすぐの2章目で、薔薇十字探偵社に場面が移る、ここが早く出てくるとは意外な展開。
榎木津探偵の従兄というひとが調査の依頼に来たんだが、なんでも探偵に身を固めろと言ってるらしい。
榎木津礼二郎に縁談って、めちゃくちゃ面白そうなんだが、変なことに相手方から断ってくるという事態が続いていると。
それって何かの陰謀があるかもしれないから調べろというんだが、そんなこと探偵の下僕に依頼したら、「徹頭徹尾非常識で傲岸不遜で大胆不敵で粗暴で支離滅裂(p.64)」な探偵が激怒して出てくるんぢゃと期待したけど、探偵は姿を現さない(寝てる)。
やっと探偵が登場するのは、なんと705ページなんだから、気を持たせるったらありゃしない。
出てきたにしても、何故かいつもよりおとなしくて、「面白くないのか君は」とかセリフに過激さがない、ちゃんとそのあとで「この馬鹿者め」って一喝してるけど。
それにしても、見ず知らずのひとを道端で糾弾するって、さすが榎木津礼二郎。
探偵事務所に持ち込まれた案件とはべつに、警察を右往左往させているのは「大磯平塚連続毒殺事件」である。
連続とあるように、たしかに複数が殺されてるんだけど、名前を偽ってる登場人物などがいて、誰が殺されてんだかわかりにくい。
一見関係なさそうな被害者同士だったりすんのに、連続と断定されるのは犯行に使われてる毒薬が同じだと考えられるからで。
この毒が普通ではないので、警視庁の公安が捜査に出張ってくるんだけど、これが戦時中イヤな仕事に手を染めていた京極堂によれば、日本軍が開発した特殊な青酸化合物らしいと。
かくしてゴチャゴチャした事件を、例によって黒ずくめのなりで登場した京極堂が整然と話をまとめて解き明かすんだが。
いつもより榎木津探偵が元気がないのは、誰にも依頼されたわけでもないのに、湘南地方までやってきたのは、個人的な用事のためで、その心配事は他人には話したくないことだかららしい。
事件解決する気なんかないし、殺人事件は自分には関係ないことだってことなんだろうが、うーん、チトらしさが無くて残念。
それにしても、あいかわらず長い小説なんだが、なんで長いんだろうかと思ったら、たとえば第7章では榎木津のことを訊きに京極堂を訪ねていったのに、その話題になるのは最後の4ページくらいで、そのまえの40ページくらいは京極堂と作家の関口のあいだで、「小説は読まれるために書かれるものだし、読んだ者の解釈は凡て正解だ」とか延々と書評の議論なんかをして本題に入らなかったりすからではないかと。
でも、そうやって語られてることが、後々で効いてくるんで、ただ脱線しているわけではないところが油断ならないのがおもしろい。