これも読み飛ばしてもらって構いません。毎回こういうことを書くというのは私自身面白くないんですけどね。批判を受けるの覚悟で書いてはいますし、書いても感覚が違う人には絶対に伝わらないというのが分かっているのですが、頭の中の整理とメッセージを含めて書いておきます。
前の記事に指導について少し触れました。これはいつも選手には話をしています。普段の指導と選手への関わり方をこのblogで全て書くことはできないと思います。言葉だけで微妙なニュアンスを感じ取ってもらうのは不可能だと思います。こういう場で指導方法について触れるのは誤解を生み、色々と批判を受けるのは分かってはいるのですがそれを避けてしまったら本当に伝えたいことが分かってもらえないというのもあるので、ひたすら書いています。
「厳しい指導」という意味。ここについて色々と感じることがありました。何をもって厳しいのか。判断は難しいと思います。基本的に「技術的なこと」に関して厳しく言い続けても効果はないのではないかと思います。このことに関してしつこく言い続けると選手は拒否反応を示すのではないかと。やろうと思ってもできないことがある。そこに関して「何故できないのか?」と注意をし続けても「できないからできない」のです。やろうとせずにできないのとやろうとしてもできないというのでは意味が全く違う。こういう部分が気になってくると選手の全ての行動が気になります。こうなると一日の練習の中で何度も何度も注意をするようになる。一人の行動が気になるところ他の者の行動が気になる。
これが悪循環を生むことになります。なにやる。怒られる。言われたことをやる。また怒られる。この繰り返しにより人は無気力になります。「上手くなるため」「強くなるため」に練習をしているはずなのに指導者に「怒られないため」の行動を取るようになります。ここの意味が分かってもらえるかどうかは怪しいですが、行動の「目的」が完全に変わってしまうのです。
「怒られないための練習」というのは指導者の顔色を伺いながらやる練習です。このblogを読んでいる人にも経験があるのではないでしょうか。その場を上手く保つために練習内容云々ではなく、失敗をしないようにするという練習になります。ここに何の意味があるのか?指導している側はここに気づかなくなります。「指導をした」という部分に特化して見てみると間違いなく「指導した」ことになります。なにをやっても許される、放置された部活動と比べると「厳しさ」があります。ルールの遵守などの部分から考えるとまったく指導されないチームよりは引き締まった感じがあります。ここを評価する人も多々いるのだと思います。
指導がされないチームに関しては問題外だと考えています。これは私が思うだけです。何をやっても許されるチームが良いという人もいるかもしれないので。しかし、本当に大切な部分を抑えた指導ができないと選手の「心」が離れていきます。本当に大切なのは選手と指導者の距離感だったり、関係だと思っています。互いの信頼関係がないとチームとしての活動はできないと。
「今日も部活がある」「面倒だな」と口にする選手を見かけます。高校生の部活動なら当たり前の姿なのかもしれません。指導者の陰口を叩く、指導者が居る時と居ない時では態度が全く違う。これで本当に練習をする意味があるのでしょうか?嫌ならやらなければ良いのにと私は思ってしまいます。冷たいのかもしれませんが。好き勝手にやる趣味の運動であれば「やりたい時にやりたいだけやる」というのが当然です。この感覚と部活動は全く違います。この感覚で部活をやる生徒が多いというのも事実です。ここは前の記事の通り。私が関わる所ではないと思っています。酷い部活動があったところで私にどうこうできるわけではないですから。
しかし、指導者側が一方的に怒り続ける状態。これは上述の部活動の在り方とは違って何かしらの問題があります。怒る場面や厳しく指導する場面だけを見る。その指導者が結果を出していたら「怒る指導が良い」と感じてその部分だけを真似する。実際はその裏にかなり選手との関係を作るために時間と労力をかけている。大切な部分が抜け落ちた指導をすると「心」が離れていってしまいます。そうなると取り返しがつかなくなる。
なにが言いたいのか上手くまとまりませんが、すごく大切な部分だと思います。何度も書いていますが「分からない人には分からない」と思います。それはそれで仕方ない内容です。私は自制の意味も込めて書いています。感情だけで競技の指導をしないようにしたいと思っています。
許されない事は何か?ここはすごく大切だと思います。自分で考えながら人と関わっていきたいと思います。分かりにくい内容ですみません。
前の記事に指導について少し触れました。これはいつも選手には話をしています。普段の指導と選手への関わり方をこのblogで全て書くことはできないと思います。言葉だけで微妙なニュアンスを感じ取ってもらうのは不可能だと思います。こういう場で指導方法について触れるのは誤解を生み、色々と批判を受けるのは分かってはいるのですがそれを避けてしまったら本当に伝えたいことが分かってもらえないというのもあるので、ひたすら書いています。
「厳しい指導」という意味。ここについて色々と感じることがありました。何をもって厳しいのか。判断は難しいと思います。基本的に「技術的なこと」に関して厳しく言い続けても効果はないのではないかと思います。このことに関してしつこく言い続けると選手は拒否反応を示すのではないかと。やろうと思ってもできないことがある。そこに関して「何故できないのか?」と注意をし続けても「できないからできない」のです。やろうとせずにできないのとやろうとしてもできないというのでは意味が全く違う。こういう部分が気になってくると選手の全ての行動が気になります。こうなると一日の練習の中で何度も何度も注意をするようになる。一人の行動が気になるところ他の者の行動が気になる。
これが悪循環を生むことになります。なにやる。怒られる。言われたことをやる。また怒られる。この繰り返しにより人は無気力になります。「上手くなるため」「強くなるため」に練習をしているはずなのに指導者に「怒られないため」の行動を取るようになります。ここの意味が分かってもらえるかどうかは怪しいですが、行動の「目的」が完全に変わってしまうのです。
「怒られないための練習」というのは指導者の顔色を伺いながらやる練習です。このblogを読んでいる人にも経験があるのではないでしょうか。その場を上手く保つために練習内容云々ではなく、失敗をしないようにするという練習になります。ここに何の意味があるのか?指導している側はここに気づかなくなります。「指導をした」という部分に特化して見てみると間違いなく「指導した」ことになります。なにをやっても許される、放置された部活動と比べると「厳しさ」があります。ルールの遵守などの部分から考えるとまったく指導されないチームよりは引き締まった感じがあります。ここを評価する人も多々いるのだと思います。
指導がされないチームに関しては問題外だと考えています。これは私が思うだけです。何をやっても許されるチームが良いという人もいるかもしれないので。しかし、本当に大切な部分を抑えた指導ができないと選手の「心」が離れていきます。本当に大切なのは選手と指導者の距離感だったり、関係だと思っています。互いの信頼関係がないとチームとしての活動はできないと。
「今日も部活がある」「面倒だな」と口にする選手を見かけます。高校生の部活動なら当たり前の姿なのかもしれません。指導者の陰口を叩く、指導者が居る時と居ない時では態度が全く違う。これで本当に練習をする意味があるのでしょうか?嫌ならやらなければ良いのにと私は思ってしまいます。冷たいのかもしれませんが。好き勝手にやる趣味の運動であれば「やりたい時にやりたいだけやる」というのが当然です。この感覚と部活動は全く違います。この感覚で部活をやる生徒が多いというのも事実です。ここは前の記事の通り。私が関わる所ではないと思っています。酷い部活動があったところで私にどうこうできるわけではないですから。
しかし、指導者側が一方的に怒り続ける状態。これは上述の部活動の在り方とは違って何かしらの問題があります。怒る場面や厳しく指導する場面だけを見る。その指導者が結果を出していたら「怒る指導が良い」と感じてその部分だけを真似する。実際はその裏にかなり選手との関係を作るために時間と労力をかけている。大切な部分が抜け落ちた指導をすると「心」が離れていってしまいます。そうなると取り返しがつかなくなる。
なにが言いたいのか上手くまとまりませんが、すごく大切な部分だと思います。何度も書いていますが「分からない人には分からない」と思います。それはそれで仕方ない内容です。私は自制の意味も込めて書いています。感情だけで競技の指導をしないようにしたいと思っています。
許されない事は何か?ここはすごく大切だと思います。自分で考えながら人と関わっていきたいと思います。分かりにくい内容ですみません。