国体関係とは少し異なるのかもしれませんが思うことを少し書いておきます。
学校に戻って自分の所の選手の練習日誌を見ました。正直、「情けないな」と思う部分が強くありました。間違いなく朝適当に書いて終わっているレベルの内容の者が複数見受けられます。国体で「強くなりたい」と思っている選手たちを目の当たりにして戻ってきてこのギャップは大きかったですね。「書けと言われたから書く」というレベル。これで「強くなりたい」というのは間違いなく「ウソ」です。自分のために時間を使えていないのが分かります。
国体や県合宿ではその選手の「一部」しか見えません。表面的な「強くなりたい」を過大評価する部分もあるでしょう。実際のその選手たちが普段どのような意識レベルで競技をやっているかは分かりません。「特別な場面」だから「一部分」だけを評価してしまう。参加選手も「特別な場面」だからいつもと違う雰囲気で取り組むことができる。その可能性は十分にあります。毎日の練習でその選手たちを見ていたら「足りない」部分が目についてしまう可能性も十分あります。
しかし、自分のチームの選手は「普段」が見えます。この「普段」の取り組みがきちんとできないようであればやはり強くなる可能性はありあません。私は指導の中で「競技力」と「日誌」の相関関係はかなりあると思っています。本当に自分で強くなりたいと思うのであれば日誌の中身が全く変わってきます。「書くだけ」の日誌には意味がありません。日誌を見ると「どのような意識で取り組もうとしているのか」というのが明確になります。「想い」がない者は絶対に日誌が書けないのです。
「強くなりたい」「~しなければいけない」と「見てもらうため」の内容を書く。これはこのようなことを書いておけば私が納得するだろうという感じで書いています。本当に本人が何かを成し遂げたいと思うの出ればそのような内容にはなりません。これは学年に関係なくです。1年生でも本当に強くなりたいと思えば「心」の動きを日誌に書けるようになります。逆に学年が上がっても「え?この程度?」という日誌を書く者もいる。こういう選手は間違いなく強くなりません。100%と言っていいほど相関関係があります。
「今日は良く走れた」「調子が悪かった」と書くだけの日誌は次につながりません。事実を書いているだけ。「だからどうした?」という内容です。このblogが「今日は天気が良くて走れた」としか書いていなかったら誰も見てくれないと思います。誰かに見てもらいたくて書いているのかどうかは非常に微妙なところですが、「自分の考え」「自分の感じたこと」を記録として書いています。だから何かしら見ている人に伝わることがある。「事実の羅列」は無意味です。それは「日誌」ではない。事実の記録簿でしかない。こういう日誌しか書けない選手は注意を受けても「何が悪いのか分からない」のです。
「強くなりたい」「自分の課題は○○だ」と書く。だったら何をすればいいのか?そこを考えて書くのが日誌です。課題は練習中に私が言ったこと。それを書いておけば注意を受けることはないだろうというレベルの日誌を書く選手にこちらが本気で指導をする必要があるのか?大いなる疑問です。
「強くなりたい」と思う選手を見た後に「言われたからやる」という選手を見ると大きなギャップを感じます。うちの選手の中にも「強くなりたい」と思っている選手はいます。なんとなくやっている選手もいるでしょう。そのような選手にどれだけ時間を使えるのか?チームを作るという意味では全体を指導しなければいけません。しかし、今後戦っていくためには「選択」と「集中」が求められます。競技力が無くても一生懸命に取り組む選手であればどれだけでも力を注ぎます。基本的に「弱いから指導をしない」というスタンスはありません。強くても意欲がない選手に力は注げません。
あれだ言い続けても日誌が書けない。ちょっと深刻な状況だと思います。このギャップを自分の中で処理できるでしょうか・・・。甚だ疑問が残ります・・・。
学校に戻って自分の所の選手の練習日誌を見ました。正直、「情けないな」と思う部分が強くありました。間違いなく朝適当に書いて終わっているレベルの内容の者が複数見受けられます。国体で「強くなりたい」と思っている選手たちを目の当たりにして戻ってきてこのギャップは大きかったですね。「書けと言われたから書く」というレベル。これで「強くなりたい」というのは間違いなく「ウソ」です。自分のために時間を使えていないのが分かります。
国体や県合宿ではその選手の「一部」しか見えません。表面的な「強くなりたい」を過大評価する部分もあるでしょう。実際のその選手たちが普段どのような意識レベルで競技をやっているかは分かりません。「特別な場面」だから「一部分」だけを評価してしまう。参加選手も「特別な場面」だからいつもと違う雰囲気で取り組むことができる。その可能性は十分にあります。毎日の練習でその選手たちを見ていたら「足りない」部分が目についてしまう可能性も十分あります。
しかし、自分のチームの選手は「普段」が見えます。この「普段」の取り組みがきちんとできないようであればやはり強くなる可能性はありあません。私は指導の中で「競技力」と「日誌」の相関関係はかなりあると思っています。本当に自分で強くなりたいと思うのであれば日誌の中身が全く変わってきます。「書くだけ」の日誌には意味がありません。日誌を見ると「どのような意識で取り組もうとしているのか」というのが明確になります。「想い」がない者は絶対に日誌が書けないのです。
「強くなりたい」「~しなければいけない」と「見てもらうため」の内容を書く。これはこのようなことを書いておけば私が納得するだろうという感じで書いています。本当に本人が何かを成し遂げたいと思うの出ればそのような内容にはなりません。これは学年に関係なくです。1年生でも本当に強くなりたいと思えば「心」の動きを日誌に書けるようになります。逆に学年が上がっても「え?この程度?」という日誌を書く者もいる。こういう選手は間違いなく強くなりません。100%と言っていいほど相関関係があります。
「今日は良く走れた」「調子が悪かった」と書くだけの日誌は次につながりません。事実を書いているだけ。「だからどうした?」という内容です。このblogが「今日は天気が良くて走れた」としか書いていなかったら誰も見てくれないと思います。誰かに見てもらいたくて書いているのかどうかは非常に微妙なところですが、「自分の考え」「自分の感じたこと」を記録として書いています。だから何かしら見ている人に伝わることがある。「事実の羅列」は無意味です。それは「日誌」ではない。事実の記録簿でしかない。こういう日誌しか書けない選手は注意を受けても「何が悪いのか分からない」のです。
「強くなりたい」「自分の課題は○○だ」と書く。だったら何をすればいいのか?そこを考えて書くのが日誌です。課題は練習中に私が言ったこと。それを書いておけば注意を受けることはないだろうというレベルの日誌を書く選手にこちらが本気で指導をする必要があるのか?大いなる疑問です。
「強くなりたい」と思う選手を見た後に「言われたからやる」という選手を見ると大きなギャップを感じます。うちの選手の中にも「強くなりたい」と思っている選手はいます。なんとなくやっている選手もいるでしょう。そのような選手にどれだけ時間を使えるのか?チームを作るという意味では全体を指導しなければいけません。しかし、今後戦っていくためには「選択」と「集中」が求められます。競技力が無くても一生懸命に取り組む選手であればどれだけでも力を注ぎます。基本的に「弱いから指導をしない」というスタンスはありません。強くても意欲がない選手に力は注げません。
あれだ言い続けても日誌が書けない。ちょっと深刻な状況だと思います。このギャップを自分の中で処理できるでしょうか・・・。甚だ疑問が残ります・・・。