kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

コメントについて

2019-05-13 | 陸上競技
思うことを。
 
 
少し前向きにblogを書きました。ありがたいことにコメントをもらいました。内容的には間違いなく私の教え子からだと思いますが。卒業して何年も経過しています。それでもこうやって気にかけてもらえるというのは本当にありがたいなと。苦楽を共にしてきて時間を共有してきた。だからこそ私の感覚ん感じ取ってもらえるのだと思います。
 
 
こういう感覚は全ての教え子に共通するものではないと思います。それなりに関わりがあり、本質的な部分で向き合ってきたからこそそういう感覚があるのかなと。このblogを読んで面白いと思うかどうかは全く分かりません。10年近く前に指導していた内容とは随分違います。技術的なことを書いて面白いかどうか。動きに関してはごく一部のマニアックな人にしか受けないと思っています。多分9割くらいの人は書かれている内容が分からないのではないか。
 
 
そう感じるのはこのblogを読んでいるのが誰なのか全く分からないからです。他のblogであればコメントが頻繁に書き込まれることがあるようです。gooのblogはマイナーだと思っています。それを継続的に読み続けるひとは少ないのではないか。面白い内容ではないですし。自分を飾らずに書いているので私という人間が分かっていなければこのblogの浮き沈みが分からないと思います。教え子や私の根本的な部分を理解してくれている人は何となく感じ取ってくれているのかもしれませんが。
 
 
生き方自体が器用ではないと思います。長いものに巻かれるというのができない。それでも自分が進みたい方向を見ています。
 
 
前のblogにコメントが書き込まれました。いやいや、持ち上げ過ぎだろうという感覚がありますが。この子達にとって私の存在が何かしら意味があるのかどうか。何かを伝えることができているのかどうか。性格的なものを把握してくれているのかもしれません。そういう生き方しかできないというのはあります。
 
 
コメントに「心配していました」と書いてもらいました。申し訳ない限りです。教え子に心配されるというのはなかなか情けない話です。この子達の前では「強くありたい」と思います。実際できていませんが。
 
 
コメントを書いてくれたであろう娘達の時代は本当に厳しくやっていました。練習量もかなり多かった。疲れ果てて下を向いていたら「下を向いた時点で負け」という話もしていました。他の人と競争をしている。チーム内での競争も激しかった時期です。チーム内で「疲れている」とか「もう走れない」という姿を見せればその時点で「勝てるな」と思われていた。相手に弱いところを見せるなという話をしていました。競争です。無理にでも前を向いて「自分は大丈夫だ」とアピールするコトを求めていました。今のスタンスとは全くといっていいほど違うかもしれません。
 
 
あの頃の選手は「練習中の先生は本当に怖かった」と言います。今では随分違いますが。と、自分では思っていますが。無礼なことや常識的ではないことに対しては今でもかなり厳しいと思います。それでも10年前と比べると随分違います。練習中に涙を流している選手がいたら「泣いて強くなるのか?泣くエネルギーがあったらどうすれば強くなるのかを考えるべきではないか」という話をして繰り返ししていました。冷たいと思われるかもしれませんが。本当にやるべきことをしっかりとやっていかなければいけない。そういう想いがありました。
 
 
嫌われているかもしれないなという感覚はずっとありました。それでも前任校の選手はかなり慕ってくれていました。この部分は何かが違うのだと思います。今はよく分かりません。慕われているという感覚は全くありません。選手との年齢差が大きくなったからなのかもしれませんが。別にこの子達に好かれるために指導をしているわけではない。それは以前も今も全く変わりません。そんなことを求めているつもりはないので。
 
 
まー1人の人間ですから「流石にないだろう」と思うことに関しては今でもカチンとくることはあります。そういう部分では今の方が「ありがとうございます」という言葉を聞く機会は圧倒的に減った気はします。感覚的なものですが。そこまでしてこちらが何かをやる必要があるのかどうかを真剣に考えさせられる出来事も何度もあります。
 
 
それでもこのマイナーなblogにコメントを書いてくれる人がいるというのはありがたいなと思います。それだけで私的には救われます。コメントとして書き込まれなくても個人的にLINEをくれる人もいました。少なからず気にかけてもらえていたのかもしれないですね。
 
 
多くの人たちにどう思われているのかは分かりません。しかし、コメントを見ると私が弱っていると必要ない心配をかけてしまうのかなという気はしています。教え子の前ではそれなりに強くありたいと思います。そうでなければ自分自身を保つことも難しくなるでしょうから。
 
 
コメントありがたく思います。なかなかコメントは書き込まれませんが、そうやって見守ってもらえていることが私自身のエネルギーになるのかもしれません。下を向いて情けない姿をしていると思われるのはさすがに情けない。強くなければいけないなと思います。そうやって自分を奮い立たせながらやっていく。演じる部分も必要なのかもしないですね。
 
 
まとまりないですが。感謝しています。本当に。本当に。想いを言葉にして残しておきます。
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あれこれ

2019-05-12 | 陸上競技
思う事を。
 
 
マニアックな話が続いていましたからなかなか興味関心がない人には面白くない内容だと思います。まー良いんです。面白くないなと思う人はきっと読まないでしょうし。なかなか迎合して書くことはできません。そして気持ちが乗らない時にはなかなかblogを書く気にはならない。これも仕方ない話かなと。楽しくないでしょうし。着飾って書くのは本質的な話ではないので。
 
 
少し前までかなり気持ちが落ちていました。少し前向きになったのは「割り切ろう」と決めたから。自分らしいというのは何をもっていうのかは分かりません。「全てを何とかしよう」と思う事で自分自身の心を込めて保てなくなっていました。それが完全に考え方や態度、行動に出ていたと思います。鬱か?!というレベル。
 
 
色々な事を受け入れていかなければいけない。昔ほどのエネルギーがないのかもしれません。全てをきちんとやりたいというのが理想でした。しかし、自分自身が全てができるわけではない。そうであれば今何をするのか。本当に必要だと思ってくれる選手のために行動をすることが大切ではないか。求められていないのに何かを与えようとする事はエゴでしかない。そうであれば自分の限られたエネルギーをどう使うか。
 
 
私が気持ちが下がっていた理由の一つに我が師匠が体調を崩されたというのもあります。昨年度からとにかく気になっていました。しつこいくらいに電話していました。体調が微妙だなと感じていたので。今の私が存在するのは本当に師匠がいてくれるからです。どんな時にも気にかけてくださっていました。「余計なお世話」と思われるかもしれないなと思いながら何かあるたびに電話して体調を聞いていました。私的に気になっていることがいくつもあったので。
 
 
昨年度から気になることがあってそれに関してずっとサポートできたらなと感じていました。合同練習の時には私から全体に話をさせてもらったり。それもなかなか伝わらない。師匠が「陸上辞めるわ」と言うのではないかと本当に気になっていました。私は陸上競技が大好きです。本当に本当に好きだと思います。が、私以上に陸上競技が好きなのは師匠かもしれません。私の知る限り「陸上競技が本当に好きだな」と感じる人は県内で数人しかいません。ちょっと度が過ぎるくらい好きな人というのはいません。
 
 
無礼な人間だと思われるかもしれません。私には競技に関する「恩師」と呼べる方はいませんでした。教員になるまで全て自分でやってきたという自負がありました。調子に乗るなと言われるかもしれませんが、物事に取り組む姿勢や考え方などを高校時代に言われたことはありませんでした。それは本来的には良いことではない。指導されるタイミングを逃してきたのだと思います。それが教員になろうと思った一番の動機だったと思います。私自身が死ぬほど遠回りしてきたのでもう少しスムーズに競技力を上げることができるのではないか。
 
 
そうやって教員になった時に野球部部長を2年。陸上に戻って来て2年間はこれまでの経験でやって来ました。大学院時代にバイオメカニクスや運動生理学などを学んだお陰でそこの部分にこだわりすぎてやっていた感じがあります。そこから抜け出すキッカケになったのはやはり師匠がの存在でした。めちゃくちゃ怖かったですが(笑)そこからしつこく話を聞いて自分なりに考えて今の私がいます。
 
 
多くの人に支えられてここまで来ている。それなのに今の私は何をしているんだろう。そういう気持ちが強くありました。そういう考え方自体が自分を追い詰めてしまうのだとは思いますが。様々なことが重なりました。これまで色々と言われて来たことも自分の中で重なっていました。師匠が一番しんどい時に何もできない。自分自身もチームを作らないといけないのにそれができていない。これまでやって来た事を全て否定されている感覚がずっとずっとありました。情けない話ですがかなり追い詰められていたと思います。
 
 
これもblogに書きました。ペットボトルのイチゴの話。耐え忍ぶ。伸びたくても伸びきれない。何もキッカケがないのだから伸びることはできない。水しか与えられていないのだから。そこに栄養素が入ると自然に伸びてくる。きっと私も選手も同じだったのだと思います。耐え忍ぶ。それは根を伸ばす時期。土台を固める時期。その時期があるかないかだと思います。そういえばペットボトルのイチゴ、めちゃくちゃ根が伸びていました。本当に小さな芽しか出ていなかったのに根だけはペットボトルの底に溜まるくらいの長さになっていました。
 
 
とにかく目に見えた成長はなかったイチゴ。見えないところでしっかりと根を伸ばしていたのです。これも写メしておけば良かったのですが。1センチもない芽に対して何倍も芽を伸ばしていた。きっと苦しかったと思います。それでも耐えて耐えて1年過ぎた。植物にどれだけ意志があるのかは分かりません。話はできないので。それでも今は伸び伸びとしています。1週間で5倍くらいの大きさになっているのではないかと思います。
 
 
苦しい時がある。いつもいつも上手くいくわけではない。それを私自身が受け入れなければいけなかった。あまりにも多くのことがありすぎて見失っていたものが多かったのだと思います。精神的に重なり過ぎたのかなと。言い訳に過ぎないかもしれませんが。
 
 
もっともっと葛藤がありました。それはそれで自分が受け入れていかなければいけない。何をするのかをもっと考えたいなと思います。自分らしさってものが存在するのかどうか分かりません。それでもこれまで支えてくださった方々に恥じないようにしたい。あいつと関わったのは恥だと言われないように。
 
 
上手く書けません。相変わらずです。何が書きたかったのか分からなくなります。お許しを。色々な方に心配をしてもらっていました。少し立ち直っています。ありがとうございました。
コメント (5)
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指導する中で

2019-05-11 | 陸上競技

続きというか、感じたことを言葉にしておきたいと思っています。特別な意味がそこに存在するのかどうかは分かりません。いつもいつも上手くいくわけではない。論語に「過ちて改めざる、これを過ちという」という言葉がある。この数週間の出来事、私の中では指導人生を大きく左右するくらいの出来事だったと思います。それくらい病んでいましたし、考えさせられました。

 

これは「技術指導」という部分だけではありません。「教育活動」という意味での部活動の存在についても考えさせられました。今の私の力ではすべての人間を幸せにはできない。人生の中で何度も感じてきた部分です。何度も何度も考えてきました。教育であったり人生であったり。全てのことができるようになればいいと思いますが、それはできない。

 

何度か話をしてきました。「食べたいと思わない人間の前にどれだけ豪華でおいしい料理を提示しても食べない」という話。アプローチの仕方を考えていけばきっと変わるのだと思って行動してきました。しかし、本当は違う。意識したらできることがある。それができないのは「指導の仕方が悪いのか」と思っていたのですがやはり「その気があるかないか」だと感じました。冷たいと言われてもいいと思います。全てをお膳立てしていくのはやめようと思います。結局私自身が一番嫌な思いをすることになるのだから。

 

この1か月間の進まなくなっていたのは私の責任だと思っています。自分を責めるなということを言われますが、実際問題ここは私の責任です。一部の選手は本当に速くなりたいと思ってやっていました。だからこちらが求める動きを徹底してやる。何も考えずに勝手に走っていても速くなるのは確か。さらに上を目指そうと思って与えられたメニューをしっかりとやる。それにより膝が出なくなる。進まなくなる。「たった0.5足くらいで大げさな話をする」と思われるかもしれません。実際問題その「0.5足」というのは致命的な長さなのです。

 

真面目にやればやるほど悪い方向に進む。この典型的なパターンでした。blog自体はかなり停滞していました。上手くいかないことでなかなか書く気になれなかった。理由が明確になりにくかったというのもあります。何度か選手の言葉に耳を傾けてきました。その時に「身体が重い」という言葉がありました。これは「重心が後ろに残っている」ということでした。速く動こうとすることで足先だけの動きになる。乗せるというよりも「速く動く」ことがメインになっていく。

 

「乗り込み動作」という言葉があります。これは感覚的な話。私はほとんど使いません。イメージは「乗せる」という表現にしています。微妙なニュアンスですが。接地した場所にきちんと腰が乗っているかどうか。その時に軸足が曲がって力を緩衝していないか。ここに走りのポイントがあると思っています。基本は「膝締め」を徹底します。その方が接地のポジションが作りやすいからです。自然にいいポジションに入っていく。

 

記事に書いている「下に落とす意識」で走る選手がいます。うちには2人いるのですがこれは「膝下の使い方」が違ってきます。1年生と2年生という差もあるのですが。2年生は前に出た時に膝が締まっているので「縦の動き」でしっかりと乗ることができます。台ドロップの時にもその音が響きます。前に出す意識から変えたことで音が変わりました。乗り切れていなかったのだと思います。もう一人は膝下を少し振り出して走る。ここは少し戻すようにしなければ上手く乗れません。難しいのです。もうしばらく時間がかかるかもしれませんが1週間で劇的に走れるようになってきました。驚いています。

 

で、何が書きたかったのか。「前に出す意識」の選手と「下に落とす意識」の選手。前に出す意識の選手を中心に指導してきました。これは私自身がそういう走りをしていたからだと思います。こういう選手は「膝を引き出した時に腰が移動する感覚」を重視すると走りが良くなると思います。膝だけを引き出すのではなくそこに腰が付いていく。これは膝が締まっていれば自然に良いポジションに接地できると思います。

 

「下に落とす意識」の選手の場合は真逆だと感じています。これは難しいかもしれませんが。こちら側の選手は「落とした場所に重心が移動する」感覚だと思っています。「乗せていく」という感覚の走り。この時に腰が遅れてしまうと進まなくなる。引き出しの意識ではないので膝が出た時に腰は進みません。降りるときに腰が進むのです。

 

微妙な表現ですね。これまでは「腰が進む」というのは2か所あると思って指導してきました。「膝が前に出た時に腰が進む」「地面に接地するときに腰が進む」という2つ。減少としてとらえた場合、やはりこの2か所だと思います。それを一律意識させてきました。しかし、今回指導の中から見えてきたこと。これは「走りのタイプによって腰が進む感覚が全く違う」ということでした。事例が少ないので正確な情報になるのかどうか分かりませんが。これまでの指導経験の中から感じていた部分が今回のことで一致しました。

 

つまり、腰が進むというのは2か所あるのですが「どちらの移動を意識したら進みやすいのか」は選手それぞれで全く違ってくるのです。そんなことを偉そうに書くなと言われるかもしれません。が、どれだけこういう部分を考えながら指導をしているのか。全員が全員そのような指導をしているとは思いません。シンプルな動きの中に様々な要素が入っている。だからこそ突き詰めて考えると面白い。

 

「足を上げろ」「足を落とせ」。これはどちらも正しい。そんな基本的なことをこの歳になって気づく。そして「重心の移動」も同様。一律同じような意識ではできないのです。今やっている台ドロップもハードルドリルも根本的な部分は間違っていないと思います。が、それを実施する選手自身の意識の問題だと思います。ハードルを越えて地面に接地するときに腰が乗るのか、抜き足を前に出すときに腰が進むのか。はっきり言って「見ているだけ」では絶対にわかりません。明らかに違いがあるからです。見た目の動きが同じでも「意識する場所」が違えばそれは練習として意味がある。

 

今まで一番ダメなパターンは「とりあえずやること」だと思っていました。適当にやっているだけ。意味も考えずに言われたからやるというのが一番成長がない。次は「形だけ真似ること」が良くない。そこにどのような意味があるのかを考える、理解するというのが必須。そしてこの時に「理解していても自分に合うかどうかを感じ取る」という部分も必須です。それが抜けていたら「負の強化」となってしまう。これは恐ろしいことです。指導者が「これは絶対に正しい」と言い続けることで選手はそれを信じます。その時に「進まないのはきちんとした動きができていないからだ」と思いこんでしまうと選手は本当に進まなくなります。

 

強い選手ばかり見ていると絶対に気づかないと思います。普通の選手を何とかしようとする中で見えてくるものがある。「何もしなくても速い選手」を見ていると楽しいのかもしれません。勝負という部分では勝てるので。しかし、これまで私が見てきた選手にはそんな選手はいませんでした。だから積み上げていく。その中で加速段階もある程度の改善方法が見えてくるようになりました。今回、選手が「走れない」と辛い表情を見るのが本当に辛かった。何とかしてあげたいと思いながらも何をすればいいのか分からない。これではダメだと感じていました。

 

県選手権の前日、「崩れた走りを戻さなければ」という感覚がありました。これは一方的に思っていただけなので。その時に「技術指導をしよう」と決めました。「競技に取り組む姿勢」で指導が止まっている間は先には進まない。感謝の気持ちも同様。感謝する気持ちがない人間に「感謝しろ」と求めても絶対に無理。そうであれば「本来的にやるべきこと」に力を注ぐ必要がある。そう感じました。それが今の技術的な考え方、見方に繋がったかなと。

 

1週間の出来事でした。イライラしたりすることもかなりありました。が、やるべきことはそれほど多くありません。そう感じてやっていかなければいけない。「中国大会は無理だろう」と思われていると思います。それでも3人がかなり走れるようになっています。冗談抜きで。戦える可能性が出てきました。そう信じてやっていきます。冬季練習は十分できています。それを本物にする。

 

できることをやります。心からそう思います。

 

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客観と主観

2019-05-11 | 陸上競技

思うことを。

 

前の記事について。これはあまりにも興味深いことだったので何人かに話をしました。興味を持ってくれる人もいる。まーこれは私の感覚なので細かい部分が相手に伝わるかどうかです。自分自身で見極めながら話をしていかなければいけません。本当にマニアックです。こんなことを考えてそれが「楽しい」と思える人は数少ないのではないか。変わっているという部分かもしれません。もちろん、私的には「標準的」だと思っていますが。

 

客観的に見てどうか。これはすごく大切なことだと思います。グランドで選手を見続けるということはしています。最近は意図的にちょっと目を離すようにしています。基本的な部分は徹底する。が、ある程度自分で考えてやることにする。すべてを与えるのではなく感覚を大切にしたいなと思う部分がありました。流れの中で練習をしていく。その部分は重要だと思います。しかし、それは「考える」という能力がある程度必要になるのかなと。または、圧倒的に運動能力が高いか。

 

技術的なことは一定水準以上で指導することができていると思います。動きを徹底することに関してはかなり。しかし、徹底するポイントがどこにあるのか。客観的な「動き」に関してはしっかりと見続けなければいけません。外から見た動きというのも重要だと思います。「やりたい動き」があってそれを徹底する。それによりある水準までは競技力が上がっていくと思っています。

 

が、今回は「きれいに走る」ことができるようになっていました。本当にきれいに走る。しかし、思ったよりも進まない、gt先生から「例年と比べて進んでいない」と一言もらって見直す。客観的な意見をもらってそこから考える。「進んでいない」という言葉は私にとってかなり「辛い一言」です。が、それを言ってくれる人はなかなかいない。本当に何かを考えて「進んでいない」と言ったのかは分かりませんが大きなヒントがありました。

 

技術的な部分に関してはやはり見直しました。「速さ」を求めるのではなく「進む」ことを求める。そこは重要だと思いますね。当たり前の話ですが。その場足ふみで何かをしていても結果にはつながらない。やるべきことは「前に進むこと」だからです。

 

そして今回一番考えさせられたのは「主観」の部分。「型にはめる」というのは好きではないのですがいつのまにか「走りをパターン化している」状況でした。本人たちの感覚をもっともっと聞かなければいけない。対話が必要になります。「どう?」という問いかけはいつもしています。走った時の感覚に変化があるのかどうかを聞く。その中で「より良い方向性」を目指す。普通の選手が結果を残していくためにはその部分は必須なのではないかと思っています。

 

もちろん、「強くなりたい」と望んでくれることが必要になります。今はその「温度差」があります。生活指導をしなければいけない状況が続いていて「競技のこと」「技術のこと」について触れる前の段階で終わっています。申し訳ないですが今は「生活指導」をしている時間はありません。冷たいようですが数日間練習参加を断りました。それは「強くなりたい」と思って参加してくれる選手に対する敬意だと思っています。

 

そうやって作った時間で選手とひたすら向き合いました。動きをみる。本人たちの感覚を確認する。こちらから「良かったね」という言葉は一切かけない。本人の感覚を言葉にさせる。その中で自分がどうすれば走れるのか、何をすれば進むのかを考えさせました。内観する。私の感覚を押し付けるのではなく本人の内面的な部分を確認する時間を作ることにしました。

 

一人は「感覚を作るために朝練をやりたい」と申し出てきました。もちろん、付き合います。今はテスト週間なので朝は勉強会です。しかし、この子にとっては今が大事。少しでも時間を作って「速く走れるようになりたい」と思うのであれば当然ですがそれにつきあう必要があると思っています。「与えすぎだ」と言われることがあります。これに関しては本当にそう思います。「何かしてあげなければ」という想いがあってもそれが本人にとって必要かどうか。感謝してもらいたいとは「ありがとうございます」という言葉があるかどうか。これも大きい。気持ちの問題ではありますが。

 

本人たちと話をする中でこちらもヒントがたくさん出てきます。「落とす走り」の選手と話をする。少しずつ自然に落とす感覚ができるようになる。そうすると「落とす」というよりは「乗せる」感覚が必要だなと感じたと。練習で接地のポジションを確認するために「台ドロップ」をします。「感覚がいい」と感じたのは走っていてではなく「台ドロップの接地の音」と言っていました。きちんと乗ることができているので「パン」と乾いた音がします。それができているから走れる、と。

 

単純に「前に出す走り」「下に落とす走り」だけを考えるのではないなと思いました。それに付随する感覚作りは必要。ポイントを押さえる。それだけではない。人数が多いチームではそこまで道具も使えないと思います。うちの最大のメリットかもしれません。道具を使いながら走りを作る。目に見える動きだけではなく何が大切かを考えながらやる。それが今必要なのかなと。

 

細かいことをやらなくても走れる選手は走れる。当然のことだと思います。工夫して練習をしていると思っています。しかし、本人たちの感覚を度外視して「こちらがいいなと思うもの」だけを取り入れていくと色々な弊害が出てくると思います。ここが今回のことで痛いほどわかりました。そして「本気で競技をやっている者」の存在がわかる。単純に「やっているだけ」の選手と「強くなりたい」と心から思ってやっている選手の違いは明確でした。

 

客観と主観を擦り合わせていく。ここは重要。「絶対的に正しい練習」が存在するかどうかは分からない。だからこそ目の前にいる選手にとって必要なことを取り入れる。それが大切だと強く感じました。

 

まとまりません。もうしばらく頭の整理をさせてください。書きます。

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見極める2

2019-05-10 | 陸上競技

続きを。陸上競技についてほとんど書いていなかったので「病んでいる人の愚痴」blogとして存在していた気がします。それはそれでいいのかなと思いますが。「自分らしく」という言葉。よくわかりません。私自身がどのような人間なのか。自分の中で「誰かに何かを与えること」で自分を保っているのではないかと思います。本来であれば見返りを求めるべきではない。勝手にやっているのだから。それでも「何か」を求めようとしてしまう。未熟です。

 

 

で、練習について。前の記事に書いたようにミニハードルを使っての練習で少し回復してきました。もちろん、それが本当に直結するかどうかは分かりません。これまでも練習で走れていてい試合で走れないというのがあったので。これは私の「見た目の動き」と重なる部分がありました。素早い動きをすることで「きれいに走る」というのはできていた。しかし、進んでいるかどうかは別問題。進んでいたと思いますが、それが10進めるところを7くらいしか進んでいなかったのかもしれません。ミニハードルを入れてやったときに「進む」という感覚が戻ってきたようでした。

 

 

それでも数人は進みません。バラバラです。どうするのかを考える。新入生でかなり力がある選手がいます。中学時代に12秒台で走ったことがある。これはうちの学校としてはほとんどないことです。わざわざ遠方から来てくれています。入学前から中学校で練習をしていてくれたのですが全く走れていません。14秒台でしか走れないという状況で入ってきました。これはかなり計算外。13秒5で走ってくれればと思っていたのですが。0.6秒は遅れています。

 
 
走りを見ていてもとても12秒台で走ったことがあるとは思えない感じ。本人が一番しんどいと思います。何とかしなければいけない。
 
 
また、ピッチを中心に走るToも同様に「感覚がよくない」と口にし続けます。負荷をかけると全く動かなくなる。脚に力が入らない、地面に力が伝わらないというのを何度も言います。感覚的には鋭い方だと思います。ボディーコントロールなどはずば抜けています。が、思うように走れない。ここは考えなければいけない。「スイッチング」だけの問題ではないのだと思います。
 
 
ひたすら考えましたが解決の糸口が見えません。Hoからは中学時代の動画を送ってもらってずっと見ていました。接地のポジションが前になっている、重心の移動が小さいという基本的な部分しか動画では見えてきませんでした。客観的に見てなかなか分からない。もちろん動きがバラバラなのが一番の原因だとは思うのですが。しかし、それだけではない気がしていました。
 
 
本人に「中学時代はどんな意識で走っていたのか?」を聞いてみました。すると「落とす意識で走っていた」と。なかなか分かってもらえない部分だと思いますが衝撃でした。感覚的なものなのでこれを上手く表現するのは難しいのですが。力説しても「こいつ何言ってるの?」と思われる部分なのかなと思います。が、あえて書きます。
 
 
なぜ衝撃を受けたのか。私の指導は多分他の指導者とは随分違います。走りを少しずつ作っていく。時間をかけて感覚を作っていくものです。練習の全てに意味づけをして明確な考えのもとで練習をしています。
 
 
その指導コンセプトは「接地ポジション」と「耐える:という部分が中心。それと同等に重視しているのが「前に送る」いう感覚。このスタイルでずっとやってきました。makinoやnaoは脚を送る感覚が弱い時には走れません。話をして確認すると「落とす意識が強くて返ってこない」という言葉が出ます。地面を蹴る動作になるのでそのまま脚が流れてしまう。それにより次の動作が遅れてきます。
 
 
かなり動きを徹底します。その感覚を身につけるために様々なことをやります。それにより走りが大きく変わってくる。進む動きになる。Saは県選手権の後に「スイッチング」と「膝の引き出しに伴う重心移動」を取り入れることで進み始めました。ピタッと合うのだと思います。その事にある程度自信を持ってやっていました。
 
 
が、「落とす意識で走っていた」という部分。これはある意味私が指導しているポイントと真逆の考え方です。「前に送る」ことと「下に落とす」という言葉だけでも全くちがう。信頼できる指導者にお願いして指導してもらうときにも「スプリントコンセプトが同じ」場合にのみお願いしています。ここまで真反対の感覚の中で指導をするという機会は全くありませんでした。
 
 
ある場所でスプリントの話をしたことがあります。その時の話の中で「足は勝手に上がってくるからそれを落とすだけでいい」という部分がありました。マニアック過ぎて誰も面白くないのですが。私の感覚でしては反対でした。「脚を前に送って重心が移動すれば勝手に脚が落ちる」という部分があります。脚を落とさないと転倒してしまうからです。落とさなくても勝手に落ちる。落ちる時に接地ポイントがズレなければ走れる。そう考えて指導をしてきました。
 
 
ハッとしました。実際、「勝手に上がってくるから落とすだけでいい」と言われていたチームの選手、かなり強かった。その時は深く考えることはありませんでした。当時は自分の指導に固執していた感じがあります。それほど若くはありませんでしたが「今のやり方で上手くいっている」という自負がありました。スプリントに関する考え方が違うなという部分が大きかった。
 
 
今回、選手の話を聞いて本人に「落とす意識」で走らせてみることにしました。単純に落とすのではなく「前で落とす」という感覚で。「落とす意識」で走ればピッチが上がります。が、その場足踏みになってしまう。重心の移動が生まれにくいからです。「落とす意識」でいいので約束として「前で落とす」ということにしました。地面に力を加えると自然に反発がもらえて脚が上がってくるのかもしれない。だとすればそれを徹底しておくために「前で落とす」という意識づけをする。
 
 
すると動きが安定しました。素人みたいな話を書いているかもしれませんが。遅れていたフォロースイングが遅れなくなる。前に送る感覚がなくてもフォローが遅れなくなる。前述の「勝手に上がってくるから落とすだけでいい」という話と内容が一致する。もちろんまだまだやらなければいけないことがあるのですが走りが変わりました。本人に確認すると「高校に入ってから前に前にという意識で走っていた」と。それが本人にとってマイナスになっていた可能性がある。
 
 
めちゃくちゃマニアックな話になっています。あまりにも衝撃だったのでgt先生に報告したのですが「意味分からん」と言われて一蹴。まーそれもそうでしょう。興味のない部分に関してはなかなか分かってもらえない。
 
 
ここに関してはもう少し触れたいなと思うことがあります。この記事に関しては「客観的事実のみ」を書いておきます。マニアックで興味がある人は是非とも個人的にこのことに関して意見交換をしたいなと思います。本気で。
 
 
次はもう少し突っ込んで書きます。多分。
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2019-05-09 | 陸上競技
ここ最近の指導を見直してみることにしました。やっている方向性さ間違っていないと思っています。しかし、こちらがイメージする走りができない。理由が分かりませんでした。
 
 
先日gt先生がラインしてきて「走りが進んでないね」と指摘されました。冬に来た時には「よく進んでいる」と言っていたのですがシーズンに入って「進んでいない」と見えたのだと思います。単純な一言ですが自分の指導を見直す大きなきっかけになりました。
 
 
ひたすらパソコンと向き合って文字にしました。本来的にやるべきことは何か。正直、何も考えずに指導していてもそれなりに走るようになると思います。明確な狙いがあってそこに向けて準備していく。走り自体も動きを丁寧に作り上げていく感覚。それはなかなか分からないと思います。
 
 
これまでメニューを作る時にはUSBにある過去データを元に作っていました。色々と考えながらメニューを組み立てる。同じ練習にならないように工夫をしながら。文字に起こしてみると本来的な練習ではない部分がありました。狙いとしている部分ではない練習。やるべき動きを書き上げた時に今やっている練習の中で出てこないものがありました。つまり、「本来やりたいことではない練習がある」ということです。
 
 
冬季練習の最後の辺り。色々と考えることがあって少し別の練習を入れました。これまでやっていた要素に少しアレンジを加える。大きなことではないと思っていました。これまでスイッチングの動きをミニハードルを使ってやっていました。腿上げとは少し感覚が違うのですが。動きのリズムを変えないようにしてしっかりと膝を引き出す。身体の前側で脚を動かすというイメージの練習。スイッチングの「タタ」です。
 
 
ある時、ちょっと思うことがあってミニハードルからスティックに変えました。それも0.5足長インターバルを詰めて。大した話ではないのかもしれません。スピードレベルが低い中での0.5足は実は大きな話なのではないかと感じています。意識するのは「速い動き」を。ハードルドリルも通常のものとはスピードハードルのように二種類考えていました。速い動きをさせたいと思っていたからです。
 
 
スティックでのスイッチング。5足長から4.5足にしていました。詰めています。最初に出来るだけ大きな動きで前まで持ってきて落とす。次に同じ動きを出来るだけ速く行う。そのまま10mダッシュをするというもの。速い動きを意識してそこからスプリントに繋げていこうというものです。こちらとしてはある程度の狙いがありました。ある程度進むようになってきているのでもうワンランク上の水準で練習をしたいというもの。それほど難しい話ではありません。
 
 
見ている動きはかなり良くなっていました。速い動きをするのでスピード感はある。当然だと思います。
 
 
実はこの練習に関しては必須だとは思っていませんでした。スピード刺激を入れたいという感覚があったのでその一要素として入れる。かなり前にピッチを上げるための動きをひたすらやって失敗したことがあります。ピッチを上げることを意識し過ぎて前へ進むことを忘れている。前半マークの距離が狭く狭くなっていました。それがあったのだ特化せずに刺激として入れるくらいがいいかなと。
 
 
が、気がつくとスティックのスイッチングでは狙いとする所がなくなっていました。狭く速くしたことで見た感じの動きはかなり良くなる。が、速く動くことを最優先してしまって本来的な進む動きを完全に忘れてしまう。膝の引き出しと重心移動が必要なのに「速く動くこと」がメインになっている感じがありました。膝を引き出す前に落とす。スティックを使うことでしっかりと膝を引き上げることをしなくても「ごまかせる」状況になっていた。この手の練習は通常ほとんどやりません。それが「もうワンランク上を目指す」という中で取り入れたのですが弊害のほうが多かった感覚です。
 
 
ミニハードルでこの速い動きをやればよかったのかもしれませんが。それも0.5足長詰めての動きになるので膝の引き出しなども十分ではない。本来進むべき動きがいつの間にか「速く動く」ということに擦り替わっていました。8年位前に同じようなことがあったので細心の注意を払っていました。同じミスはできないので。今はそこまでの感覚ではないのですがもっともっと考えておかなければいけない部分だったと思います。
 
 
ミニーハードルでやればそれなりに膝が引き出せます。これまではやりませんでした。スイッチングの動き自体をそこまでやっていなかったというのもあります。スイッチングランをやらないといけないなと感じたのは少し前でした。どうも進む感じが悪いなと感じていたので「動きの中でスイッチングをする」という部分を再開しました。それは感覚的なものです。しかし、根本的な部分を見落としている。意味がありません。
 
 
もっともっと適当に練習をしてればこんなことにはならないのかもしれません。意図のある動きをするというのはどれだけの指導者がやっているのか分からない。今、普通の選手をどうやって伸ばしていくかを考えた結果あれこれ「方法論」を思いつく。昨年やっていたからこれでいいやという感覚でやっていればそういうことはないのかもしれません。しかし、完成はない。常に考えていく必要があると思っています。
 
 
様々なことに「メリット」「デメリット」があります。そこをどうやって見極めるか。私自身が考えなければいけない部分です。選手には謝りました。一生懸命にやってくれている選手が大半だと思います。もっと適当にやっていたらこんな感覚にはならないのではないかと。ミニハードルにして足長も元に戻すと「進む感覚がある」と言っていました。まだまだ確認しなければいけないのですが「冬季の進んでいた時の感覚に戻った」と数名が話をする。
 
 
ひたすらやってきています。だからこそ「ポイント」になる部分さえ押さえることができれば走りは戻ると思っています。冬季にずっと「速い動き」をやっていたわけではありません。1か月弱です。そうであれば「もう一度やるべきことをやる」という部分が出来ればしっかりと走れるようになる。これは卒業生の様子を見ていて確信できました。自分の走りのポイントを理解して取り組むことで戻る。丁寧にやる時間さえあればどうにかなると思っています。
 
 
見極める。一つはこの部分でした。もう一つ大きなことがありました。これも感覚的なものです。長くなるのでまた別に書きます。
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必死に

2019-05-08 | 陸上競技
ここ数ヶ月間、自分のやろうとしている事とやっている事が上手く噛み合わない時間があった。イメージしている行動が自分でもできない。自分自身の存在が空気のような薄っぺらい感じがしていた。鬱だとは思わないが、それに近い感覚があったのだと思う。今はどうか分からない。抜け出せたとは到底思えないが。
 
 
もっともっと気楽に生きていけたらとは思う。場当たり的にその場さえうまく過ごせば良い。他者を利用しながら自分のことだけを考えてやっていけば良い。そういう感覚がないわけではないのだができない。「真面目だから」と言われることもある。本当に真面目なのかどうかは分からない。融通の利かない人間なのだとは思う。
 
 
そんな中で陸上競技に関して感じることがあった。自分自身「何をやってるんだろう「と感じる部分。やりたいことが本当にできているのか。何をやっているのか分からないなと。数日前に「きちんと動きを徹底しなければ走れなくなる」とふと感じた。その感覚はきっと正解だと思う。
 
 
そう感じてとにかくパソコンに向かって文字にした。基礎技術の部分をどうにかしたい。簡単に確認できるものを作りたい。そう感じてひたすら文字にしていくことにした。誰かのためというわけではなく自分自身のためにというのが大きい。もちろん作った資料を渡さなければいけないという部分もあった。それ以上に自分自身が何かをしなければ気が狂ってしまいそうな感覚があったから。
 
 
競技に関してかなり考えていると思う。もっと適当にやっても走れるようになると思う。スプリントについて考えなくても速い者は速い。その現実は絶対に避けられない。必死にやってもなかなか力が出せない者もいる。それは受け入れなければいけない。競技に関して「こうでなければいけない」と感じる部分が増えていた。専門的にやっている自負はある。が、あまりにも細かすぎて必要以上にやっている感じもある。
 
 
本当に本当に必死に考えた。人生の中で一番競技について考えたかもしれない。周りから見たら「おかしい」と思われるだろう。それでも今の自分を乗り越えるためには必死に考えるしかない。そう思っていた。
 
 
「誰かのためにやる」という感覚がある。よくよく考えてみるとそれにより「自分を正当化している」だけなのかもしれない。やっていることが他の誰かの役に立っていることで自分の存在価値を示したかっただけなのかもしれないなという感覚もある。正解かどうかを決めるのは結局自分自身なのだと思う。本当は認められたいという自己承認欲求が誰よりも強いのかもしれない。それはそれでもういい。今の自分には関係ない。
 
 
必死に。本当に競技のことだけを考える数時間。何をやるべきなのか。何が必要なのか。競技について。結局、今の自分を支えているのは「陸上競技を好きだ」という感覚だけ。無趣味だと思う。大学院を卒業する時に「もっと陸上競技について知りたい」と思っていた。もう20年も前の話。その時の想いを忘れていたのかもしれない。
 
 
考えたことはまた文字にしておきたい。今は今の想いを書いておく。考えたことでこの数ヶ月、視野が狭くなっていて指導の中で本筋を外れていたのではないかなという気はしている。元々やりたいこと、やるべき事を見失っていたのかもしれない。思い通りに行かないことの方が圧倒的に多い。だからこそどうするか。そこに尽きる。
 
 
技術的なことも少し触れておきたいと思っている。これはまた別に。少し進めるかもしれない。
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生命力

2019-05-06 | 陸上競技
1年前、織田記念に出場した時にコンビニで「ペットボトルで育てる野菜」を購入した。部室で育てようと思って。2つ購入して部室で育てるようにしていた。naoに頼んでいたのだがセッティングしてきた。が、それ以来ずっと部室内の西側の窓の所に置き忘れられていた。1年生が部室を掃除した時にあることが発覚。西側の窓にはいつもブラインドで外が見えなくなっていたので忘れられていた。
 
 
 
2つあったうちの一つは枯れていた。当然だと思う。しかし、もう一つは少しだけ生きていた。本当にすごいことだと思う。水だけ。説明書を読み直してみると「芽が出たら水に肥料を混ぜること」と書いてある。それさえやっていないのに「命」が1年間続いていた。奇跡だと思う。
 
 
水を入れ替えて肥料を足す。根だけはかなり伸びていた。生きていくために必死だったのだと思う。肥料がない中で枯れないように耐えていた。すごい生命力。
 
 
そこから数日間経過した。
 
 
 
枯れかけていた植物は信じられないくらい伸びていた。驚いた。もうダメかもしれないと思っていたのに数日間でこれだけ伸びるとは。緑色で茎も伸びている。
 
 
生き延びていた。必要な栄養と日光が与えられた時に一気に伸びる。すごい話だと思う。誰もが枯れてしまうだろうと思っていたものが芽を出す。上へ上へと伸びていく。
 
 
今、自分自身も選手も同じなんだと思う。耐える時があった。でもそれは伸びる時期を待っている。必ずそのタイミングが来る。忘れられていて伸びることができなかったペットボトルのイチゴのように。耐え忍んだからこそできる事がある。そう信じたい。そう信じている。
 
 
生命力。それは誰にでもどんな生き物にもある。与えられたモノをどう生かすのか。それによって大きく変わってくる。植物も選手も私も。
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耐える

2019-05-05 | 陸上競技
色々と思うことがあります。自分について、これまでの指導について。反省点の方が多い。自己肯定感が低いというのもあると思います。
 
 
変わらなければいけない。私自身。そう思います。
 
 
ひたすら思い悩む。が、進まない。それでは時間と労力の無駄になる。それをどれだけ続けるのか。本当に意味のある時間になっているのか。
 
 
考えたい。苦しい時間を耐えなければいけないと思います。苦しさから目をそらしても何も生み出さないなら。苦しさを受け入れながら先に進む。
 
 
私ができること。それをやるしかない。指導をする中で自分自身が見失っていたものがある。それを見直す最大の機会になった。
 
 
気持ちを整える。それしかないと思っています。
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やりたいこと

2019-05-02 | 陸上競技
卒業生が練習に来た。来てくれた事に感謝したい。
 
 
この数週間、何をやっているんだろうという気持ちが強かった。指導をしている感覚がない。それこそ「靴紐の結び方」から教える状態。それはどうなのか。物事に向き合う姿勢が大切だと思う。そこを教える事が最優先になる。
 
 
それにより競技に関する指導はほぼない。そこに至るまでが長すぎる。到底たどり着けるイメージはなかった。ある程度任せながらやっている感じがあった。というか指導するまでのエネルギーがない。選手の気分に波があったりするのもマイナス要素だった。卒業生がどうだったのかというと実はあまり変わらなかったのかもしれない。過去は美しく脚色される部分がある。
 
 
練習を見ていて「何やってるんだろう」という気持ちになった。やりたい動きが明確ではない。流れの中でやっている。狙いが明確ではない練習を見ていてグランドにいる意味があるのか?!という気持ちになった。
 
 
「考えさせる」という部分がすごく必要だと思っている。が、任せるとそれができなくなる部分もある。自分達のやりやすいようにやっていく。それでは結果には繋がらないのではないか。そのうちできるようになる、という部分ももちろんある。しかし、今目の前で練習をしている選手の中で「強くなりたい」と思ってやっている選手も何人もいる。その選手達に本当に必要なことを与えられているのか。ふとそう思った。
 
 
技術指導をする。そういう話をした。その意味がどれだけ伝わるか。このことに関しては書けたら書きたい。あれこれ考える事がある。が、「技術指導をする」という事がこの場で私が今やるべきことではないかと感じた。見守るスタイルに憧れる。が、そんな指導は今は必要ないのかもしれない。時と場合によって必要なことをやる。その水準器達するかどうかで関わり方を変えることも必要なのではないか。
 
 
いつのまにか細かいことを求めなくなっている自分がいた。諦めていたのかもしれない。それは何故なのか。分からない部分はある。速くてもそうでなくても求める水準があるのではないか。そう考えた時にやるべきことがすこし見えた。積み上げていく。それはかなりの時間を要する。それでもやるしかない。それが私のスタンスではないか。
 
 
思う事がある。ただそれだけ。
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