浜田寿美男著「「私」とは何か」を読んで
照る日曇る日 第2013回
いきなり回答不能な難題を突き付けられて、はてどうしたものか、読むのを止めようかと思ったけれど、じっと我慢して著者による「ことばと身体の出会い」による人間発達のありように耳を傾けてみる。(私は昔から論理的思考が苦手で、ほとんど1分間しか物を考えることができないのです。)
はじめは人間以下同然だった生物が、生まれながらに備わった身体の原資に助けられて言葉を獲得し、他者との関係性の中で本源的な自己に目覚め、社会的存在として生き生きと成長していく。その心的動機と実態を、「発達論的還元」という手法によってあからめていくのだけれど、折に触れて自閉症児の発達についての記述が登場する。
そしていわゆる健常児の健全な発達と、それができない自閉症児の発達障害が、陰と陽、ネガとポジのような形で明るみに出されていくのが興味深かった。
健常児は生まれながらに主体的な存在であり、両親をはじめ周囲の他者からの働きかけをしっかりと受け止め、これに積極的に反応していくことによって大きく成長するのだが、自閉症児はこの相互運動と関係性の内部に入れず、社会的な意味世界と絶縁した「無意味世界」のただ中で孤立していることが多い。
だから自閉症という忌まわしき命名がなされたのだろうが、私たち親は、生涯に亙って孤島に住むひとりぼっちのロビンソン・クルーソーと付き合い、交流することを通じて、彼らの意味世界への介入を続けているのである。
余談ながら、自閉症の発達障害のこのような内実と、自閉症の真因としての脳障害説あるいは遺伝子異常説とは、相互に矛盾することなく並立していると考えてもよいと思う。
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