日曜朝の横須賀線。
いつもと同じ時間の電車に乗って東京へと向かう。大船を過ぎれば、いつもだと座席がすべてうまるのだが、今日は違う。
違わないのは、横須賀線に乗っている私だけ。
よくあることだが、ふと奇妙にも感じる。
おそらく、広い世界の中で、矮小な自分がちょろちょろ動いているだけなのだろう。
物体としての自分の存在は、顕微鏡の奥の細胞1個とどれほども違わない。
だが、自分の存在そのものが、自分の観念そのもの、すなわち世界であるので、物質的な大きさと観念としての自分の世界の大きさを比較することはできない。
人間、というか生物は存在そのものが、その存在自身の世界なので、所詮他者との関係性の有無にはそれほど意味はない。
私が今感じている、そして、私以外の人すべてがそれぞれ感じている世界は、それぞれの人独自の世界である。それぞれの世界が重なりあう、同調する、同一化する、といったようなことは絶対におきない。結局、人間は自分の世界の中で形成された価値観の中で正しいもの、善なるもの、利益になるもの、快楽をもたらすものへと向かって生きる。私が優しい気持ちでいたい、怒りっぽいのがいやだ、というのも私自身の世界の安寧のためだ。
社会は重なりあうことのない世界と世界が共存することによって成り立っている。人間が社会性をもって生きているのは、そうしないと自分の存在を守ることができないから。人間関係とは、相手の世界との相互理解の形成だ。ちなみに、戦争は個人レベルでの相互理解を行わないという意味で、最悪の事態である。
ところで、私は日曜日の朝、研究会で勉強をするために、がらがらの横須賀線に乗って会場のある東京へ向かう。そこで私が得るであろう知識は深く広いものだ。
だが、その知識の行き先はどこなのだろう。
私に蓄積され、私の世界の中で発展する知識はどのように他者に還元されていくのだろうか。
いや、他者への還元などということが果たしてあるのだろうか。
他者は、私がいなくても他者として存在する。
私にしても、こうして他の乗客がいなくても存在している。
電車の中でも、降りたホームでも、道でも、どこでも。
いつもと同じ時間の電車に乗って東京へと向かう。大船を過ぎれば、いつもだと座席がすべてうまるのだが、今日は違う。
違わないのは、横須賀線に乗っている私だけ。
よくあることだが、ふと奇妙にも感じる。
おそらく、広い世界の中で、矮小な自分がちょろちょろ動いているだけなのだろう。
物体としての自分の存在は、顕微鏡の奥の細胞1個とどれほども違わない。
だが、自分の存在そのものが、自分の観念そのもの、すなわち世界であるので、物質的な大きさと観念としての自分の世界の大きさを比較することはできない。
人間、というか生物は存在そのものが、その存在自身の世界なので、所詮他者との関係性の有無にはそれほど意味はない。
私が今感じている、そして、私以外の人すべてがそれぞれ感じている世界は、それぞれの人独自の世界である。それぞれの世界が重なりあう、同調する、同一化する、といったようなことは絶対におきない。結局、人間は自分の世界の中で形成された価値観の中で正しいもの、善なるもの、利益になるもの、快楽をもたらすものへと向かって生きる。私が優しい気持ちでいたい、怒りっぽいのがいやだ、というのも私自身の世界の安寧のためだ。
社会は重なりあうことのない世界と世界が共存することによって成り立っている。人間が社会性をもって生きているのは、そうしないと自分の存在を守ることができないから。人間関係とは、相手の世界との相互理解の形成だ。ちなみに、戦争は個人レベルでの相互理解を行わないという意味で、最悪の事態である。
ところで、私は日曜日の朝、研究会で勉強をするために、がらがらの横須賀線に乗って会場のある東京へ向かう。そこで私が得るであろう知識は深く広いものだ。
だが、その知識の行き先はどこなのだろう。
私に蓄積され、私の世界の中で発展する知識はどのように他者に還元されていくのだろうか。
いや、他者への還元などということが果たしてあるのだろうか。
他者は、私がいなくても他者として存在する。
私にしても、こうして他の乗客がいなくても存在している。
電車の中でも、降りたホームでも、道でも、どこでも。