最近、笑顔が少なかったこと、笑顔は作ってでも必要なものだということに気がついたところで、”では、いつまで作り笑いをしていなくてはいけないのか?”という疑問が頭をよぎった。
われながら呆れるほど心配性な話だ。杞憂とはまさにこのことで、こんなこと書いているとそのこと自体が滑稽で笑える。
”本当の笑顔”というのは何から生み出されるだろう?
笑顔の質を判断することは難しい。何が良い笑顔で、何が良くない笑顔かなんてことはわからない。
杞憂に陥っている自分自身を眺めている自分を見るだけでも浮かんでくる。自虐の笑いとでもいうのだろうか。先日はあるブログで、赤い羽根共同募金に駆り出され、街頭に立って大声をあげたという話を読んで、私がクールだと想像しているブログ主さんのなんとも言えない姿に思いを馳せたら笑みが浮かんだ。
見かけと行動の差、とてもいうのだろうか、おそらく多くの人の外見(他人が見ている自分)は、自分が思っている姿と大きくかけ離れていると思う。笑顔は往々にして人間の行動をみていると浮かんでくる。それぞれの人の行動は最大限自分のためになることだと思って生きているが、そこにあるその人の行動とその人の心の本質のギャップが笑顔を引き起こす。落語はその点をよくついて、笑いにする。
「エッ? 笑顔っていうのは心にも体にも良いっていうのかい? 作り笑いでも?
なら、ずっと笑い顔でいりゃあ、良いじゃねーか。
なにぃ?ずっと笑顔でいたら顔がそのままの形になっちまって元に戻らなくなったって?
いいじゃねーか、笑顔が板についたなら、七福神が乗ってるっていう宝船に潜り込んでもバレやしねーよ。
幸せもんだな、オイ!」
てな具合になるほど笑っていられるといい。
神様はみんな笑顔