わたしには以前嫌いな人がいた。嫌いだと思っていたけれど、そういう人とは付き合わなければいいと知ってからというもの、嫌いだと思っていた人に近づかないようにしていたら、いつしかそういう感情は薄れた。そういう感情は薄れたけれど、嫌いだった人たちとまた会いたいとは思わない。
憎しみとか怒りというものはそういう感覚を持つ人に快感を与える。自分の頭の中で相手を罵倒し、辱めることで、全能感を得る。個人の妄想である限りはそんなことしてはいけないなどというとはできない。人が何かを考えることは自由だし、それを表現することだって止めることはできない。でも、その考えが単なる表現の域を超えて他人に害を及ぼすようになったら、それは迷惑だ。そして、それはすなわち犯罪となる。
アメリカで今度はユダヤ教の礼拝所で銃が乱射され、11人もの人が亡くなった(米・ユダヤ教礼拝所で銃乱射)。ヘイトクライム、という類の犯罪だそうだけど、何もしていない人が憎悪のためだけに殺されるというのはなんとも許しがたい。
世界に渦巻く憎悪の嵐はとどまるところを知らない。民主主義のお手本だったアメリカがその中心となっているのはなんという皮肉だろう。ブラジルでも極右政党の候補者が大統領となった(ブラジル大統領選、極右ボルソナロ氏が勝利)。南米最大の民主主義国家も憎悪の嵐に巻き込まれることになるのだろうか。
日本でも様々な憎悪が渦巻いている。小馬鹿にした蔑称をつけて特定の人を差別して、本人は楽しいかもしれないが、それで何が得られるのだろう。憎しみとか蔑みからは何も生まれない。
もう、止めようないのか