ちょっとしたゴミ、例えば詰め替え用シャンプーの注ぎ口のチップとか、くずかごに投げ入れ損ねたちり紙とかが落ちているとき、誰かが拾って捨ててくれるだろうと思う瞬間がある。たまに台所に立って、レンジ周りを汚してしまったり、朝晩洗面台のまわりをぬらしてしまったりして、そのことに気がついてもそのままにしてしまうこともある。そんな、ちょっとしたことというのは、わが家では妻がカバーしてくれている。数年前に、こういったことが小さなストレスとなって蓄積する、というようなことを考えた(一手間かける人生 2016年10月07日 )。でも、それは自分のことしか考えていなかったことで、妻に不要な仕事を押し付けていたということまでに考えは至っていなかった。
主婦の仕事、というものを家事、という漠然とした24時間連続した業務と考えてなんでもかんでも押し付けるというのは主婦以外の家族の横暴だ。母の日にいくら手伝ったところで、その日1日だけでも主婦の仕事は全うできていない。主婦の仕事というのは大変なことであるのに、それを全うすることだけを要求して、自分は好きな仕事をさせてもらっているのに、散らかし放題というのでは道理に合わない。私がすべきことというのはたくさんある。ちなみに誰かがやってくれるだろう、という考え方は公共の場においても注意すべき発想であって、自らの生活態度を律するということはこういうことでもある。
少なくとも自分の身の回りぐらいは丁寧に始末して生活することが主婦である妻への愛情であり、敬意であると、今頃になって気がついている。そして、家族という小さな社会を真っ当にすることが、私の周りの社会を真っ当なものとし、ゆくゆくは社会全体を真っ当にするということにつながる。
小さな一歩から