こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

コロナ禍の前になすすべもなく平板化する心

2021年04月26日 | 日本のこと、世界のこと
 空気は少しひんやりとしているが、雲ひとつない快晴。ゴールデンウィークの気持ちのいい季節がやってきて、心も少し浮き立ってもいいはずだが今年はそうはいかない。3度目の緊急事態宣言が連休に合わせて発出され、2年続きでたくさんの人の楽しみは消えた。

 コロナ禍以降”感動する”場面に遭遇する機会が極端に減った。昨年、わが家では息子の結婚という喜ばしいことがあったが、結婚式はコロナ対策のため両家の者だけでささやかに行われた。ほかに、心が動かされるようなことは、何かあっただろうか、記憶はほとんど無い。もちろん、以前よりよほど木々の緑、花の美しさに心癒されることは増えた。そんなことに出会えるというだけでも十分幸せだが、もう少し、”従来型”の感動にも触れたい。映画、コンサート、スポーツ、美術、そんな当たり前の経験の記憶はもう1年以上無い。

 東京の寄席の組合が”演芸は社会生活の維持に必要なもの”として、休業要請には応じないことにしたそうだ(都内の4つの寄席 感染防止策行い公演継続「社会生活の維持に必要なもの」スポニチ 2021年4月26日)。たしかに、このまま笑いの文化が消えてしまったら、ポストコロナは笑いの失われた社会ということになってしまう。多くの芸人、役者、演奏家、アスリート、そういった人たちが”エッセンシャルではない存在”とされ、苦しい立場にある。でも、そういった職種の人がいるからこの世界には感動があって、喜びと涙がある。だから、大活躍する大谷なり松山に声援は集まるのだ。

 でも、そうやって聞こえてくる感動はごくわずかで、身の回りにあるのは喜びよりも、怒りと不安が圧倒的に多い。新型コロナウイルス感染症を前に、私たちにもたらされる感動は少ない。やがて心は感動を忘れ、起伏がなくなってしまい、平板化してしまうのではないかと心配になる。これがコロナ鬱の実体なのかもしれないが、人類はこの状況を打ち破って、新たな感動を起こすことを考えなくてはならない時期に来ている。ただ、ソーシャルディスタンスを維持したマスク越しの交流で、以前のような人間同士の結びつきをどれだけ再構築することができるか、前途は多難だ。
あらたなる挑戦

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