ひんやりした朝。昨晩までの雨のせいで空気はしっとりしている。アプローチにはソヨゴの濡れ落ち葉。
また嫌な夢を見た。楽しい夢もないわけではないだろうが、すぐに忘れてしまう。どんな夢だったかはあらかた忘れてしまったが、若い頃、人に迷惑をかけた話だったと思う。人付き合いは未だに悩ましい。他人を変えることはできないと、言葉ではわかっていても体で理解し、そのように行動することがなかなかできない。
”そこはちょっと譲ってよ、分かってよ”、なんていうことがしょっちゅうある。自分が相手に合わせるということが必要なのだが、受け入れられないことは少なくない。
価値観の相違。
自分の価値観を相手に押し付けることがいけないが、いつまでも赤ん坊に手づかみでの食事を続けさせるわけにはいかないのと同じで、間違ったことをしている人に対しては、”改めさせる”ことが必要だ。
だが、手づかみでの食事は間違っているだろうか。それが当たり前の地域だってある。食事マナー一つとっても違いがあるのだから、考え方に至っては千差万別十人十色、土台すり合わせなどできるわけがないのだ。
全員が同じ価値観である集団などない。例えば品質管理を求められる検査室では標準作業手順書を作成して、全員が同じ手順で同じことをする、という手法がとられている。それでもだんだん我流が幅を効かせるようになってしまうので、何度もチェック、見直しが行われる。業務ですらそうなのだから、それ以外の点で価値観を同一にするには教育、思想を統制するしかないが、そんなことは土台無理だ。
では、どうしたらいいか。
それぞれの人がそれぞれの考え方を持っているということを受け入れる、すなわち多様性の受け入れ、ということになるのだろうか。若い人が自分を主張するのを受け入れることなんてのも必要かもしれない。
同調圧力、年功意識の強いこの国で、そんなことをどれほど進めていくことができるかはわからないが、遅まきながら私もそのことをやっていこうと心がけたい。
自分を持つ