昨日は浦和はナビスコ杯を戦い、C大阪にアウェイで勝って準決勝進出を決めました。準決勝の相手はG大阪という難敵ですが、仮に万博の一発勝負だったら厳しくても、埼玉スタジアムならリーグ戦でも引き分けていますし、何が起きるか分かりません。いつも中立観戦していた年中行事のナビスコ杯決勝が当事者になれば最高です。
残留争いは初めてという若いサポも多くなったので、ベテランサポの私は1999年のことを書きます。あのときはファイナルファイブなどという言葉がマスコミを賑わしていましたが、要は残り5試合全勝に近い成績を残さないといけない、本当の崖っ淵でした。
アウェイの神戸戦で敗れ、いよいよ後がなくなった浦和はホームで市原と対戦しました。これに勝ってようやく降格圏の一つ上にいる市原に勝ち点で並び、さらに勝たなければ残れない試合でした。当時は平日夜の試合でしたが、この試合を見逃す訳にはいかないと、会社を半休にして参戦しました。
普段、私はスタメンの布陣をチェックしたり、ゲームの流れを追うため、ノートにメモを取っています。しかし、この試合は特別でした。サポーターも優勝争いをしたときのために用意していた、赤と白のボール紙をこの大一番に投入してきました。
こうなったら、私も駒場のスタンドを埋めた一人として微力ながら応援しなければと思い、ノートはカバンにしまい少しは声も出しました。色紙の応援はRマドリードあたりはよくやっているそうですが、日本では初めてで、人間の頭の色の黒が消えて、きれいな赤白模様ができました。
メモがないので、試合展開は正確には思い出せませんが、相手の長身FWバロンに身長では10cm以上負けていた急造CB路木が互角に渡り合っていたのが印象的です。試合は福田のゴールで1-0と浦和が勝ち、この試合に賭けていたサポの思いは実りました。
次の平塚戦も勝ち、降格圏を一旦は出ました。しかし、V川崎戦を引き分けて迎えた最終決戦の広島戦、週2試合が2週間続いた選手も疲れていましたが、崖っ淵が続くことでサポも疲れていた印象です。確かに応援はしましたが、市原戦に全てを持ってきてしまって、余力がなかった印象です。
幸い、今回浦和は逃げる立場で、仮に決戦があっても大宮戦と最終戦の柏戦くらいかもしれません。しかし、あのときの駒場は一つだったことだけは自信を持って振り返れます。埼玉スタジアムがどういう雰囲気になるか、分かりませんがちょっと不安もあります。
残留争いは初めてという若いサポも多くなったので、ベテランサポの私は1999年のことを書きます。あのときはファイナルファイブなどという言葉がマスコミを賑わしていましたが、要は残り5試合全勝に近い成績を残さないといけない、本当の崖っ淵でした。
アウェイの神戸戦で敗れ、いよいよ後がなくなった浦和はホームで市原と対戦しました。これに勝ってようやく降格圏の一つ上にいる市原に勝ち点で並び、さらに勝たなければ残れない試合でした。当時は平日夜の試合でしたが、この試合を見逃す訳にはいかないと、会社を半休にして参戦しました。
普段、私はスタメンの布陣をチェックしたり、ゲームの流れを追うため、ノートにメモを取っています。しかし、この試合は特別でした。サポーターも優勝争いをしたときのために用意していた、赤と白のボール紙をこの大一番に投入してきました。
こうなったら、私も駒場のスタンドを埋めた一人として微力ながら応援しなければと思い、ノートはカバンにしまい少しは声も出しました。色紙の応援はRマドリードあたりはよくやっているそうですが、日本では初めてで、人間の頭の色の黒が消えて、きれいな赤白模様ができました。
メモがないので、試合展開は正確には思い出せませんが、相手の長身FWバロンに身長では10cm以上負けていた急造CB路木が互角に渡り合っていたのが印象的です。試合は福田のゴールで1-0と浦和が勝ち、この試合に賭けていたサポの思いは実りました。
次の平塚戦も勝ち、降格圏を一旦は出ました。しかし、V川崎戦を引き分けて迎えた最終決戦の広島戦、週2試合が2週間続いた選手も疲れていましたが、崖っ淵が続くことでサポも疲れていた印象です。確かに応援はしましたが、市原戦に全てを持ってきてしまって、余力がなかった印象です。
幸い、今回浦和は逃げる立場で、仮に決戦があっても大宮戦と最終戦の柏戦くらいかもしれません。しかし、あのときの駒場は一つだったことだけは自信を持って振り返れます。埼玉スタジアムがどういう雰囲気になるか、分かりませんがちょっと不安もあります。