この方の話に触発されてではありませんが、生まれも育ちも浦和という私の「年がばれる話」です。新たに越してきた浦和の新住民にはないであろう、地元育ちならではの記憶がいくつかあります。
まず、宇都宮線、高崎線の浦和駅のことですが、私の少年時代は平日の朝夕のラッシュ時のみの停車で、日中と休日は通過していました。県庁所在地のプライドを考えれば全面停車は当然と当時の国鉄に掛け合った結果、ようやく全面停車が実現したのが小学校3年生のときでした。
当時の埼玉新聞で一面トップだった記憶があります。それ以前は、日中に浦和駅の地下通路を通ると、ただいまの時間通過と書かれた紐が入り口に巡らされて、人が入らないようにしていました。
また、浦和の西口の駅前に伊勢丹とコルソがあるのが当たり前の方は新世代もしくは新住民です。その前の浦和駅は、それこそ終戦直後の闇市が出そうな駅前で、砂埃舞う狭いロータリーにぐるりと取り囲むようにバス停があり、その角の一等地に山口屋がありました。
ご多分にもれず、甘いものが好きだった少年時代の私には、目立つところにある山口屋は憧れの店でした。もっとも、山口屋は高いので買ってもらえず、代わりはセキモトの洋菓子でした。セキモトは今でもコルソの地下にあるので、懐かしくなって当時のままのショートケーキを買うこともあります。
その狭い駅前に、伊勢丹やコルソが立つようにするには、相当大規模な立ち退きと駅前再開発が必要でした。当時は少年だったのでわかりませんが、相当の軋轢はあったものと予想できます。その狭い駅前そっくりの駅前を、韓国の慶州駅で見たのには懐かしさを覚えました。
また、少年時代の娯楽は、別所沼のペダルボートでした。今思うと、あんな狭いところでボートに乗って面白いのかと思うのかもしれませんが、当時は水の上に出るだけで十分な娯楽でした。手漕ぎボートは大人になってからねと両親に言われていましたが、大人になる前にボートの方がなくなってしまいました。
もっとも、このボートは別所沼を管理する側にとっては面倒な要因だったらしく、当時は沼の周りに浮き輪が吊ってあって、おぼれている人がいたら投げてくださいという立て看板がありました。実際にこの浮き輪が活躍したら大変ですが、そういうものが必要になるくらい、別所沼は深くて足が立ちにくい、やっかいな沼地でした。
まず、宇都宮線、高崎線の浦和駅のことですが、私の少年時代は平日の朝夕のラッシュ時のみの停車で、日中と休日は通過していました。県庁所在地のプライドを考えれば全面停車は当然と当時の国鉄に掛け合った結果、ようやく全面停車が実現したのが小学校3年生のときでした。
当時の埼玉新聞で一面トップだった記憶があります。それ以前は、日中に浦和駅の地下通路を通ると、ただいまの時間通過と書かれた紐が入り口に巡らされて、人が入らないようにしていました。
また、浦和の西口の駅前に伊勢丹とコルソがあるのが当たり前の方は新世代もしくは新住民です。その前の浦和駅は、それこそ終戦直後の闇市が出そうな駅前で、砂埃舞う狭いロータリーにぐるりと取り囲むようにバス停があり、その角の一等地に山口屋がありました。
ご多分にもれず、甘いものが好きだった少年時代の私には、目立つところにある山口屋は憧れの店でした。もっとも、山口屋は高いので買ってもらえず、代わりはセキモトの洋菓子でした。セキモトは今でもコルソの地下にあるので、懐かしくなって当時のままのショートケーキを買うこともあります。
その狭い駅前に、伊勢丹やコルソが立つようにするには、相当大規模な立ち退きと駅前再開発が必要でした。当時は少年だったのでわかりませんが、相当の軋轢はあったものと予想できます。その狭い駅前そっくりの駅前を、韓国の慶州駅で見たのには懐かしさを覚えました。
また、少年時代の娯楽は、別所沼のペダルボートでした。今思うと、あんな狭いところでボートに乗って面白いのかと思うのかもしれませんが、当時は水の上に出るだけで十分な娯楽でした。手漕ぎボートは大人になってからねと両親に言われていましたが、大人になる前にボートの方がなくなってしまいました。
もっとも、このボートは別所沼を管理する側にとっては面倒な要因だったらしく、当時は沼の周りに浮き輪が吊ってあって、おぼれている人がいたら投げてくださいという立て看板がありました。実際にこの浮き輪が活躍したら大変ですが、そういうものが必要になるくらい、別所沼は深くて足が立ちにくい、やっかいな沼地でした。