10月24日付の記事で取り上げた、光文社新書の「上野先生、勝手に死なれちゃ困ります」。この対談集を出した、上野千鶴子、古市憲寿両人を呼んでのトークショーが、新宿紀伊國屋ホールで行われました。僕も知ったのが遅くて「天皇ごっこ」を見た日に、たまたま紀伊國屋書店に寄った日のこと。宣伝するヒマもなかったんですが、日曜の夜でまだまだ席は空いていました。現在ホールは、ラッパ屋という劇団が「ハズバンズ&ワイブズ」という劇を上演中。日曜夜の公演のない時間帯に、家庭の一室風セットをそのままにしての対談。なんだか居間の世間話みたいで面白かったです。
あの本には古市家の家族が結構出て来てるけど、「家庭争議」は起きなかったか?上野さんから、そんな心配から始まりました。父親は本が出れば、活字世代でうれしいらしい。母と妹は自分が出てくるところにマーカーで印つけて、その分の印税を寄こせという反応だったと笑わせました。焼肉一回分くらいらしい。あの本は、「団塊世代」の「製造物責任」(こういう子供を育ててしまった)を問うというか、説明していく感じで進んで行きます。でも、「あの本の後半で少し変わったかと思ったら、なんだか元に戻ってる」とのことで、上野センセイは「自分の製造物責任もあるのか」と。それと言うのも、古市クンは「どうしたらいんですかね?」ということばかりで、「結局、フクシマも他人事だった」というような発言が続々。
これは戦略的発言であるかもしれないけど、若い世代の「生のリアリティの薄さ」がよく伝わりました。上野さんの言うことは、団塊世代はストック形成はしたので、それを再フロー化すれば、次の世代には財産は残せないけど、死んでいくまでなんとかなる。問題は次の世代、ということで、そう言われても「上野先生、どうしたらいいですか?」。それは「あなたの世代が考えること」。
若い世代は「原発事故にも怒らないのか?」。それでは困るな。僕が書き続けているのも、「怒るべきことに怒れなくては困るでしょ」ということです。でも、上野さんに言わせると、若い世代は怒らないのではなく、対象が外の社会にではなく、自分の内側へ向かっていく。自傷行為や摂食障害などという形で、怒りが自分に向けて発現される。これが、20年におよぶ「ネオリベ」(新自由主義)にさらされ「自己責任」を内面化させられた子供たちの姿だということでした。
僕は「リスカ少女」を何十人と知っているわけですが、見田宗介先生や上野千鶴子さんが「自傷行為」をアイデンティティとの関わりで論じるのに多少の違和感を感じるものです。でも、ここで言われたことの大きな方向性は正しいように思いました。と同時に僕が思うのは、たぶん会場には大学を出たか今行ってる人がほとんどだったのではないでしょうか。しかし、世の半分の人は大学へは行きません。就職したりフリーターになったり、その前に不登校で高校も辞めて行く人も多いです。そういう若い世代のことが脳裏にあるでしょうか。僕が六本木高校の「人権」の授業で見てきたことで言えば、今の子供たちの「生の実感のなさ」は共通しているように思います。でも実際に冤罪に陥れられたり、ハンセン病で療養所で暮らさざるを得なかったり、ホームレスの体験があったりした人の話は、ちゃんと聞くし心のこもった感想を書く。僕はだから、若い世代の心に届く言葉を前の世代が送ってこなかったという面も大きいように思ってます。
大人がきちんと怒る、さらには泣く、笑うということも大事なんじゃないでしょうか。「泣く人とともに泣き、笑う人ともに笑いなさい。」(パウロの言葉。)僕はこの言葉をよく「卒業アルバム」などに書きます。うーん、だから今年はこれほど今「泣く人」がいるのを判っているときに、他人事みたいには言えないかな。
あの本には古市家の家族が結構出て来てるけど、「家庭争議」は起きなかったか?上野さんから、そんな心配から始まりました。父親は本が出れば、活字世代でうれしいらしい。母と妹は自分が出てくるところにマーカーで印つけて、その分の印税を寄こせという反応だったと笑わせました。焼肉一回分くらいらしい。あの本は、「団塊世代」の「製造物責任」(こういう子供を育ててしまった)を問うというか、説明していく感じで進んで行きます。でも、「あの本の後半で少し変わったかと思ったら、なんだか元に戻ってる」とのことで、上野センセイは「自分の製造物責任もあるのか」と。それと言うのも、古市クンは「どうしたらいんですかね?」ということばかりで、「結局、フクシマも他人事だった」というような発言が続々。
これは戦略的発言であるかもしれないけど、若い世代の「生のリアリティの薄さ」がよく伝わりました。上野さんの言うことは、団塊世代はストック形成はしたので、それを再フロー化すれば、次の世代には財産は残せないけど、死んでいくまでなんとかなる。問題は次の世代、ということで、そう言われても「上野先生、どうしたらいいですか?」。それは「あなたの世代が考えること」。
若い世代は「原発事故にも怒らないのか?」。それでは困るな。僕が書き続けているのも、「怒るべきことに怒れなくては困るでしょ」ということです。でも、上野さんに言わせると、若い世代は怒らないのではなく、対象が外の社会にではなく、自分の内側へ向かっていく。自傷行為や摂食障害などという形で、怒りが自分に向けて発現される。これが、20年におよぶ「ネオリベ」(新自由主義)にさらされ「自己責任」を内面化させられた子供たちの姿だということでした。
僕は「リスカ少女」を何十人と知っているわけですが、見田宗介先生や上野千鶴子さんが「自傷行為」をアイデンティティとの関わりで論じるのに多少の違和感を感じるものです。でも、ここで言われたことの大きな方向性は正しいように思いました。と同時に僕が思うのは、たぶん会場には大学を出たか今行ってる人がほとんどだったのではないでしょうか。しかし、世の半分の人は大学へは行きません。就職したりフリーターになったり、その前に不登校で高校も辞めて行く人も多いです。そういう若い世代のことが脳裏にあるでしょうか。僕が六本木高校の「人権」の授業で見てきたことで言えば、今の子供たちの「生の実感のなさ」は共通しているように思います。でも実際に冤罪に陥れられたり、ハンセン病で療養所で暮らさざるを得なかったり、ホームレスの体験があったりした人の話は、ちゃんと聞くし心のこもった感想を書く。僕はだから、若い世代の心に届く言葉を前の世代が送ってこなかったという面も大きいように思ってます。
大人がきちんと怒る、さらには泣く、笑うということも大事なんじゃないでしょうか。「泣く人とともに泣き、笑う人ともに笑いなさい。」(パウロの言葉。)僕はこの言葉をよく「卒業アルバム」などに書きます。うーん、だから今年はこれほど今「泣く人」がいるのを判っているときに、他人事みたいには言えないかな。