尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「再審」の「最新情報」

2011年11月17日 23時04分58秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 1980年という年は、自分にとって、とてもいろいろな出来事があった忘れられない年。その年に最高裁で死刑判決が確定してしまったのが、静岡県清水市(現・静岡市)で起こった袴田事件である。僕はこの最高裁判決を傍聴している。最高裁判決と言うのは、実にぶっきらぼうなもので、結論だけ言って裁判官は引っ込んでしまう。「本件上告を棄却する」の一言を聞くだけで、理由を言わない。被告人も出廷しない。

 冤罪事件と言っても、いろいろあって「一度聞いた(読んだ、見た)だけで、これは絶対冤罪と思う度」というのが高い事件と、それほどでもない事件があるのは確かである。でも、この袴田事件というのは、すでに死刑から再審無罪が確定している、同じ静岡の島田事件と同じくらい、一度読んだだけで「これはおかしいでしょう」という事件だった。何しろ、裁判途中で「犯行当時の着衣」が変更されてしまったのである。味噌会社の事件で、裁判中に味噌蔵から血染めのズボンが発見され、改めてそれが犯行時のズボンとされたが、法廷ではかせてみると足に入らない。味噌に浸かって縮んだということにされた。それで「自白」はどうなんだというと、検事が取った一通を除き、後は全部証拠にならないとされた。それなのに有罪で死刑。どうしてそんな判決になったのかは、最近になってわかったわけである。一審の裁判官の一人は、この事件は絶対に無実だと確信したのだが、他の二人が最後まで有罪を維持した。その裁判官は、その後裁判官を続けられず退官、何十年立って「合議の秘密」を明かした。その話は、昨年「BOX 袴田事件 命とは」という映画になり公開された。

 袴田事件の取り調べテープが存在するということだ。しかし、検察側はそれを「開示しない」と言っているということだ。おかしいでしょう。税金で作ったテープだ。すべての証拠を出せと言いたい。多くの事件で、証拠開示が再審開始への決定的なきっかけとなった。この袴田事件に関しては、19日に集会がある。

 さて、今日の新聞によれば、9月中にも決定が出ると言われていた、福井女子中学生殺人事件の再審請求の決定日時が決まった。11月30日、午前9時半である。この事件は一審無罪なので、福井の事件だが、決定は名古屋高裁金沢支部で出る。この事件はおかしな「証拠」で起訴されたが、さすがに一審では無罪となった。その後、東京の集会に来た被告人の話を聞いたことがある。ところが、高裁で引っくり返った。今回は、裁判中に出ていなかった証拠がずいぶん開示されたというから、再審開始決定が期待される

 ところで、10日に三鷹事件第二次再審請求がなされた。三鷹事件と言うのは、1949年に起こった、下山事件、松川事件と並ぶ国鉄の3大怪事件と言われるものである。共産党員被告9人と非党員の運転手竹内景助が起訴された。一審で鈴木忠五裁判長は、共産党員の共同謀議は「空中楼閣」と批判して党員被告は無罪、竹内のみ情状をくんで無期懲役とした。2審では書面審理のみで、共産党員被告の無罪は維持したものの、竹内被告を死刑に変更した。最高裁でももめにもめて、結局弁論を開かないまま竹内の死刑を維持した。15人の裁判官中、死刑に反対が7人で、一票差の死刑と言われた。事件内容以前に、この「弁論も聞かずに書面審理だけで、被告人の弁明も聞かず顔も見ずに、無期から死刑に変更するのは許されるのか」というのが批判されたので、以後最高裁はすべての死刑事件で弁論を開く慣例ができた。もうすぐオウム真理教事件の最後の最高裁判決があるが、もう上告棄却(死刑判決維持)に決まってると言ってもいいけれど、弁論は開かれ弁護側の主張(検察側もだが)を聞いたわけである。

 そういう意味で三鷹事件というのは、戦後の裁判史上で有名な事件なのだが、当時は共産党員被告の救援が中心となり、竹内のことがおろそかになった面も否定できない。竹内の供述が変転を重ねたこともあって、それをどう理解すべきかいろいろな考えがあった。結局、竹内も無実を主張して再審を請求したものの、1967年に脳腫瘍で拘置所内で死んで、再審は終わりになっていた。それが近年三鷹事件を取り上げる本やテレビ番組で無実の主張が取り上げられ、家族による再審請求に結びついた。戦後史の中で数奇な道をたどった事件であり、この再審請求の道筋も見続けて行きたい。それは9月に書いた菊池事件(藤本事件)にも大きな示唆を与える再審請求ではないかと思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「しいのみ学園」-映画に見る昔の学校①

2011年11月17日 00時22分38秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昨日見た映画の話。清水宏監督作品、1955年、新東宝作品「しいのみ学園」である。僕は古い日本映画をよく見る。これは国立近代美術館フィルムセンターの香川京子特集で見た。障害児教育に身をささげる教師役の香川京子はとても清楚で美しく、忘れがたい。代表作の一つだなあと思った。

 この映画のモデルはどこかなと調べて驚いた。「しいのみ学園」というのは、当時のベストセラーで実話の映画化だということだ。著者の山本三郎は当時福岡学芸大学教授だったが、自分の子供が小児マヒのためいじめられているのを見て、自分で学校を作ろうと考えた。それが「しいのみ学園」で、「養護学校」の始まりのような位置にあるという。この山本三郎氏は、その後曻地三郎(しょうち・さぶろう、1906~2013)と姓が変わった。福祉界では有名な人らしいのだが、僕は全然知らなかった。「しいのみ学園」は、1978年の「養護学校義務化」に伴い、知的障害児通園施設となり続いている。
(曻地三郎)
 「しいのみ学園」のある場所は福岡市南区で、発足当時は田園地帯だったらしい。映画では山の中になっているので、どこでロケをしたのかなと調べると、清水監督のよく使う伊豆だということだ。伊豆長岡あたり。富士山がよく見えるところだが、原作が福岡だから映らないように撮ったという。

 僕は小児マヒの子供がほとんど見捨てられたようになっていたのに驚いた。家で邪魔者にされ岡山から捨てられるように連れてこられた子供がいる。その子は体が弱く歌も歌えない。しかし、だんだんみんなに溶け込んでいき、ハイキングの時に香川京子の先生に促されて、初めて学園の歌を歌えるようになる。本人もそれがうれしく、父親に手紙を書きたいと言い出す。それを聞いて、香川京子は他の子にも親への手紙を書かせることを思いつく。そのことを園長役の宇野重吉に報告すると、宇野重吉が「子供の教育法は、子供が教えてくれるね」と、とても心に響く美しいコメントを返す。この言葉一つを聞くだけで、この映画を見た価値があった。

 学校でのいじめのひどさにも驚いた。野球の仲間に入れてあげない。グローブもミットもないからと言われて、宇野重吉の父親が買ってあげる。しかし、買った道具は使われてしまうのに仲間には入れてくれない。父がうちのグローブやミットを使っているなら、仲間に入れてあげてと言う。じゃあ、やめよと野球をしていた全員が、足を引きずるマネをしながら引き揚げて行く。これがなんで学校で大問題にならないのか。この映画が作られヒットしたのだから、障害児への同情は皆持っていたわけだが、学校での「人権教育」という概念がなかった時代なのだろう。そういう時代の子供たちの様子がよく判る。また、映画の主題歌(学園の歌)も当時ヒットし、学校でも歌われたということだ。探すと聞けるサイトもあった。しかし、何だか短調の暗い感じの曲。そういうところも、なんだか昔風の感じだった。

 清水宏監督は松竹で戦前から活躍してきた長い経歴の監督で、一時期田中絹代と結婚していた。しかし、小津安二郎や溝口健二のようなかっちりしたドラマ世界を構築することが不得手というか嫌いというか、シネマ・エッセイみたいな映画ばかりを作った。だから映画史では二流扱いされてきたけれど、近年は再評価の声が高い。戦争映画や恋愛映画が撮れない代わり、子供を主人公にした天衣無縫な映画がうまく、坪田譲治の映画化「風の中の子供」「子供の四季」がベストテンに入った。戦後も戦災孤児を自分で引き取って作った「蜂の巣の子供たち」が有名。

 そういう監督なんだけど、「ありがたうさん」という伊豆のバス運転手を描いたロードムービーが一番ではないか。誰にでも「ありがとう」と声かける運転手を描くあいさつ運動映画のように見せて、朝鮮人労働者は出てくるし娘の身売り問題も出てくる。ドキュメンタリー・ドラマと言った手法で、60年代のヌーベルバーグを先取りしたような映画をいくつも作り、世界的に再評価が進んでいる。しかし、どの映画にも共通するのは、「子供へのまなざし」。自分も子供みたいな人だったのではないかと思うが、子供をありのままに、あざとい演技をさせずに描いて、ほのぼのシンミリさせるという映画をいっぱい作った。不思議な映画監督である。(2020.3.31一部改稿)
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする