本の紹介。渡部謙一「東京の『教育改革』は何をもたらしたか」(高文研、1800円)。著者は1998年に都立久留米高校校長となり、2004年に定年退職。その後、大学の非常勤講師などをしながら、「東京の教育を考える校長・教頭経験者の会」を立ち上げて発言を続けている。
この本は今年9月に出て、新聞で見てすぐに買ったが、しばらく読む気になれなかった。著者は2004年に退職しているので、内容的にはごく近年のことより、21世紀初頭のことが中心になっている。しかも校長だった人なので、今さら読んでも仕方ないかなと思った。しかし、読んでみるとやはり、あの時期、つまり21世紀初頭の東京の教育行政が大きく変わった時代を振り返ることは大事だなと思った。しかも、それを現場教員からというより、管理職の側で見たことを伝えるのは、非常に大切だと思う。その頃、まだ東京を対岸の火事と見ていた日本各地で、強権的な教員管理体制を導入し学校現場の力を削ごうとする動きが広まっている。それを東京は防げなかったが、情報を発信して全国に伝えることは意味はあるだろう。こういうふうになっていくのだと。管理職を目指す人が少ないなどというのは、これを読めば納得できるだろう。というか、それでも受ける人がいるのが不思議。
20世紀にはまだ教員でなかった若い世代は、教師の仕事はこんなものだと思い込んで生きて行ってしまいかねない。生徒も親もどんどん入れ替わるので、ちょっと前のことも忘れられていく。だから、この本は、いろいろな人に読んで欲しいとは思うけど、特に若い世代が、大学や地域の図書館でリクエストして是非読んでみて欲しい。都立高校の図書室では買えるかどうか判らないけれど。
現職の都立高校教員は正直言って、読むと辛くなるので読まない方がいいかもしれない。思い出したくないことをいろいろ思い出してしまうと思う。完全に負けきって、もう言われる通り働いていくしかないと諦めたのに、やけぼっくいに空気を送り込むような読書体験になる。新しい知見はあまりなく(校長どうしのことなどは知らなかったことがあるが)、全体の流れはもう知っている。自己申告書が導入され、授業観察が始まり、10.23通達に至るわけである。あのころは最初は毎年ごとだったが、だんだん毎月毎月、やがては毎週毎週のようにとんでもない新方針が伝えられた。「処分」を受けた経験はない僕でさえ、監査、監査で自己防衛を求められた嫌な時代のことが集中的によみがえり、心臓がドキドキしてしまい、この本は都立の教員にとっては健康に悪いよと思ってしまった。でも、同時に、こういう中で働いてきたということを、生徒や保護者にも知って欲しいとも思った。
この本の中身に触れる前に少し書いておきたいことがある。僕は辞めてから東京の教育状況も書いて行きたいと思っていたけれど、ほとんど書いていない。震災、原発問題があるし、僕には当面更新制をめぐって発信する必要もあった。しかし、それだけではない。しばらく都教委のことは忘れたいという気分だったのである。多くの教員が早く辞めたいと思っている「ブラック企業」をやっと逃れられたという気持ちが強い。しかし、もう半年以上たち、少しずつ東京の実情も書いて行きたい。マスコミはイデオロギー対立的な場合は取り上げるけれど、職場の日常に潜む権力性の取材はほとんどしない。ところで、その時にはこの書の中にも少し触れられているが、それまでの高校の教育にあった「我々の側」の弱点をきちんと見つめて考えていくことが非常に大切なことではないかと思っている。
この本について何点か。この著者は教育に関してきちんとした考えを持ち、自ら発信してきた人である。このような校長には僕は会わなかった。この本の学校作りのところはとても役に立つと思う。勤務する久留米高校が統廃合の対象になったときに、すでに地域の中に開かれた組織をつくり発信を始めていた。東京では「学校運営連絡協議会」が各校に作られていくが、それを先取りしていた。その先見性はしかし役に立たない。サッカーで全国大会出場経験のある久留米高校も、様々な条件を抱えていて統廃合の対象校とされる。それに対し、地域や同窓生の反対運動が高まった。校内でもPTA主催で都教委からの説明会があったという。そこで都の計画に批判が集中する。しかし、都側は最後に「私たちの意は理解されたものと思います」と言うのである。時間をかけて「理解していない」ことをあれだけ発言したのに。これが都教委のいつもの手口である。僕は教科書問題で都教委への要請行動に出席したことがある。また、教務主任として研修会や説明会にも参加した。そういう時もいつも同じ。主義主張で対立しているような問題だけではなく、あらゆる問題で論点をずらすような答弁しかしない。そういう場所に出てくる人も、教育畑ではなく、突然他局から異動させられたばかりのこともあるらしい。
ということで、隣の清瀬北高校と統廃合されてできた東久留米総合高校に著者は一回も行っていないという。普通は元校長は開校式典などに招待されるはずだが、都教委は来賓リストを点検して、都教委批判を行う人間の招待を取り消させる。信じがたいことだが、そういうことがある。三鷹高校の土肥元校長も、都教委相手の裁判をやっているので来賓に呼ばれない。そのような「小人物性」は、いかにも現都知事のもとで起こることらしいと言えば、そうなのだが。
ある時、著者はこんな「処分」にあう。校長の業績評価を教員の給与に連動させる制度が始まる。そのとんでもなさはさておき、校長の「評価者訓練」が午前中に行われた。12時頃終わり、午後からは新設校の計画委員会があり、校長、教頭、事務長の出席が求められている。しかし、そうなると学校に管理職がいなくなるから、著者は午後の会は欠席して学校に戻ることにして昼食を取って1時半ごろ学校に着いた。ところがこの日、定時制教員の出勤監査が入り、1時に都教委の役人が来ていたのである。しかし、管理職が誰もいないので監査ができなかった。そこで都教委は「管理職が誰もいなかったのは何故だ」と大声で怒りだし、「何かあったらどうするんだ」と著者を「厳重注意処分」にするのである。都教委からの、午前午後の参加を求める書類を見せても「それはそちらの内部事情」と訳の分からないことを言われたという。こういう風に、都教委に言われた通りやっていても処分を受けることがあるのである。こういうことはあの頃時々あって、僕は「カフカの世界」だと思っていた。著者は役人も本来はいい人のはずと書くが、僕はそれはここまで行くと違うと思う。こういうことをする都教委の人々は、僕の考える人間の世界にはいない。ゆえに「都教委はエイリアン」と僕は言っている。そいうエイリアンの生態がよく判る本である。(業績評価や10.23通達については細かく触れる余裕がない。かなり知られてもいるので、校長からみてどうだったか、是非直接この本で読んでほしい。)
この本は今年9月に出て、新聞で見てすぐに買ったが、しばらく読む気になれなかった。著者は2004年に退職しているので、内容的にはごく近年のことより、21世紀初頭のことが中心になっている。しかも校長だった人なので、今さら読んでも仕方ないかなと思った。しかし、読んでみるとやはり、あの時期、つまり21世紀初頭の東京の教育行政が大きく変わった時代を振り返ることは大事だなと思った。しかも、それを現場教員からというより、管理職の側で見たことを伝えるのは、非常に大切だと思う。その頃、まだ東京を対岸の火事と見ていた日本各地で、強権的な教員管理体制を導入し学校現場の力を削ごうとする動きが広まっている。それを東京は防げなかったが、情報を発信して全国に伝えることは意味はあるだろう。こういうふうになっていくのだと。管理職を目指す人が少ないなどというのは、これを読めば納得できるだろう。というか、それでも受ける人がいるのが不思議。
20世紀にはまだ教員でなかった若い世代は、教師の仕事はこんなものだと思い込んで生きて行ってしまいかねない。生徒も親もどんどん入れ替わるので、ちょっと前のことも忘れられていく。だから、この本は、いろいろな人に読んで欲しいとは思うけど、特に若い世代が、大学や地域の図書館でリクエストして是非読んでみて欲しい。都立高校の図書室では買えるかどうか判らないけれど。
現職の都立高校教員は正直言って、読むと辛くなるので読まない方がいいかもしれない。思い出したくないことをいろいろ思い出してしまうと思う。完全に負けきって、もう言われる通り働いていくしかないと諦めたのに、やけぼっくいに空気を送り込むような読書体験になる。新しい知見はあまりなく(校長どうしのことなどは知らなかったことがあるが)、全体の流れはもう知っている。自己申告書が導入され、授業観察が始まり、10.23通達に至るわけである。あのころは最初は毎年ごとだったが、だんだん毎月毎月、やがては毎週毎週のようにとんでもない新方針が伝えられた。「処分」を受けた経験はない僕でさえ、監査、監査で自己防衛を求められた嫌な時代のことが集中的によみがえり、心臓がドキドキしてしまい、この本は都立の教員にとっては健康に悪いよと思ってしまった。でも、同時に、こういう中で働いてきたということを、生徒や保護者にも知って欲しいとも思った。
この本の中身に触れる前に少し書いておきたいことがある。僕は辞めてから東京の教育状況も書いて行きたいと思っていたけれど、ほとんど書いていない。震災、原発問題があるし、僕には当面更新制をめぐって発信する必要もあった。しかし、それだけではない。しばらく都教委のことは忘れたいという気分だったのである。多くの教員が早く辞めたいと思っている「ブラック企業」をやっと逃れられたという気持ちが強い。しかし、もう半年以上たち、少しずつ東京の実情も書いて行きたい。マスコミはイデオロギー対立的な場合は取り上げるけれど、職場の日常に潜む権力性の取材はほとんどしない。ところで、その時にはこの書の中にも少し触れられているが、それまでの高校の教育にあった「我々の側」の弱点をきちんと見つめて考えていくことが非常に大切なことではないかと思っている。
この本について何点か。この著者は教育に関してきちんとした考えを持ち、自ら発信してきた人である。このような校長には僕は会わなかった。この本の学校作りのところはとても役に立つと思う。勤務する久留米高校が統廃合の対象になったときに、すでに地域の中に開かれた組織をつくり発信を始めていた。東京では「学校運営連絡協議会」が各校に作られていくが、それを先取りしていた。その先見性はしかし役に立たない。サッカーで全国大会出場経験のある久留米高校も、様々な条件を抱えていて統廃合の対象校とされる。それに対し、地域や同窓生の反対運動が高まった。校内でもPTA主催で都教委からの説明会があったという。そこで都の計画に批判が集中する。しかし、都側は最後に「私たちの意は理解されたものと思います」と言うのである。時間をかけて「理解していない」ことをあれだけ発言したのに。これが都教委のいつもの手口である。僕は教科書問題で都教委への要請行動に出席したことがある。また、教務主任として研修会や説明会にも参加した。そういう時もいつも同じ。主義主張で対立しているような問題だけではなく、あらゆる問題で論点をずらすような答弁しかしない。そういう場所に出てくる人も、教育畑ではなく、突然他局から異動させられたばかりのこともあるらしい。
ということで、隣の清瀬北高校と統廃合されてできた東久留米総合高校に著者は一回も行っていないという。普通は元校長は開校式典などに招待されるはずだが、都教委は来賓リストを点検して、都教委批判を行う人間の招待を取り消させる。信じがたいことだが、そういうことがある。三鷹高校の土肥元校長も、都教委相手の裁判をやっているので来賓に呼ばれない。そのような「小人物性」は、いかにも現都知事のもとで起こることらしいと言えば、そうなのだが。
ある時、著者はこんな「処分」にあう。校長の業績評価を教員の給与に連動させる制度が始まる。そのとんでもなさはさておき、校長の「評価者訓練」が午前中に行われた。12時頃終わり、午後からは新設校の計画委員会があり、校長、教頭、事務長の出席が求められている。しかし、そうなると学校に管理職がいなくなるから、著者は午後の会は欠席して学校に戻ることにして昼食を取って1時半ごろ学校に着いた。ところがこの日、定時制教員の出勤監査が入り、1時に都教委の役人が来ていたのである。しかし、管理職が誰もいないので監査ができなかった。そこで都教委は「管理職が誰もいなかったのは何故だ」と大声で怒りだし、「何かあったらどうするんだ」と著者を「厳重注意処分」にするのである。都教委からの、午前午後の参加を求める書類を見せても「それはそちらの内部事情」と訳の分からないことを言われたという。こういう風に、都教委に言われた通りやっていても処分を受けることがあるのである。こういうことはあの頃時々あって、僕は「カフカの世界」だと思っていた。著者は役人も本来はいい人のはずと書くが、僕はそれはここまで行くと違うと思う。こういうことをする都教委の人々は、僕の考える人間の世界にはいない。ゆえに「都教委はエイリアン」と僕は言っている。そいうエイリアンの生態がよく判る本である。(業績評価や10.23通達については細かく触れる余裕がない。かなり知られてもいるので、校長からみてどうだったか、是非直接この本で読んでほしい。)