「談志が死んだ」(回文)。まあ、これはもうみんな思いついているだろうけど。僕は談志を聞いたことがない。伝説的な天才なんだろうけど、参議院議員だった時代の印象が消えないのである。71年の参院選全国区に無所属で出て、50位で当選した。その全国区とは日本全国で50人を選ぶという世界に例のない超「大選挙区制」だったわけだが、「残酷区」とか言われて比例代表区に変更された。しかし、当選後すぐに自民党に入党。75年に沖縄開発庁の政務次官に起用された。しかし、沖縄海洋博の視察で酔って記者会見をして批判を浴び(政務と酒とどっちが大事かと聞かれて、酒だと答えた)、国会を欠席して寄席に出たりして、ついに一月ほどで辞任、自民党も離党した。
その後、1983年に落語協会の真打ち昇格問題で、会長であり師匠である小さんと対立して、協会を脱退、落語立川流を旗揚げするわけだが、そのことは僕が書くことでもない。60年代にテレビで活躍していた落語家や漫才師がたくさんいた。「テレビの黄金時代」である。志ん朝は落語に戻り、講談の一龍斉貞鳳や漫才の横山ノックは政治家になった。談志は「笑点」の初代司会者で「笑点」の発想者らしい。談志降板後、てんぷくトリオの三波伸介が司会者になり、急死を受けて回答者の圓楽に変わった。てんぷくトリオも伊東四朗しか残っていない。みんな死んじゃうね。談志が71年に参院に出たのも、要するにテレビに出てたから皆顔と名前を知ってたのである。田英夫、安西愛子、望月優子とその時の全国区上位は皆テレビで知られていた人である。3年前の68年に石原慎太郎、青島幸男、横山ノックらが全国区で当選してタレント候補と言われていた。
死去の報は弟子にも知らせず、家族で密葬したということである。立川流も志の輔以下、素晴らしい弟子を育てた。そこがすごい。いや、談志のことをあまり書くつもりはなかったんだけど、つい長くなってるから、これで一本にする。落語そのものについても、そのうちまとめてもっと書きたいと思っている。(この間、西岡参院議長はあまり追悼する気はなかったけれど、劇作家の斎藤憐、推理作家の土屋隆夫、「面白半分」発行人の佐藤嘉尚などの各氏の追悼を書ければと思っていた。なかなかヒマがないけど、いつかまとめて書く機会を作りたい。)
その後、1983年に落語協会の真打ち昇格問題で、会長であり師匠である小さんと対立して、協会を脱退、落語立川流を旗揚げするわけだが、そのことは僕が書くことでもない。60年代にテレビで活躍していた落語家や漫才師がたくさんいた。「テレビの黄金時代」である。志ん朝は落語に戻り、講談の一龍斉貞鳳や漫才の横山ノックは政治家になった。談志は「笑点」の初代司会者で「笑点」の発想者らしい。談志降板後、てんぷくトリオの三波伸介が司会者になり、急死を受けて回答者の圓楽に変わった。てんぷくトリオも伊東四朗しか残っていない。みんな死んじゃうね。談志が71年に参院に出たのも、要するにテレビに出てたから皆顔と名前を知ってたのである。田英夫、安西愛子、望月優子とその時の全国区上位は皆テレビで知られていた人である。3年前の68年に石原慎太郎、青島幸男、横山ノックらが全国区で当選してタレント候補と言われていた。
死去の報は弟子にも知らせず、家族で密葬したということである。立川流も志の輔以下、素晴らしい弟子を育てた。そこがすごい。いや、談志のことをあまり書くつもりはなかったんだけど、つい長くなってるから、これで一本にする。落語そのものについても、そのうちまとめてもっと書きたいと思っている。(この間、西岡参院議長はあまり追悼する気はなかったけれど、劇作家の斎藤憐、推理作家の土屋隆夫、「面白半分」発行人の佐藤嘉尚などの各氏の追悼を書ければと思っていた。なかなかヒマがないけど、いつかまとめて書く機会を作りたい。)