尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

談志が死んだ

2011年11月23日 23時31分58秒 | 追悼
 「談志が死んだ」(回文)。まあ、これはもうみんな思いついているだろうけど。僕は談志を聞いたことがない。伝説的な天才なんだろうけど、参議院議員だった時代の印象が消えないのである。71年の参院選全国区に無所属で出て、50位で当選した。その全国区とは日本全国で50人を選ぶという世界に例のない超「大選挙区制」だったわけだが、「残酷区」とか言われて比例代表区に変更された。しかし、当選後すぐに自民党に入党。75年に沖縄開発庁の政務次官に起用された。しかし、沖縄海洋博の視察で酔って記者会見をして批判を浴び(政務と酒とどっちが大事かと聞かれて、酒だと答えた)、国会を欠席して寄席に出たりして、ついに一月ほどで辞任、自民党も離党した。

 その後、1983年に落語協会の真打ち昇格問題で、会長であり師匠である小さんと対立して、協会を脱退、落語立川流を旗揚げするわけだが、そのことは僕が書くことでもない。60年代にテレビで活躍していた落語家や漫才師がたくさんいた。「テレビの黄金時代」である。志ん朝は落語に戻り、講談の一龍斉貞鳳や漫才の横山ノックは政治家になった。談志は「笑点」の初代司会者で「笑点」の発想者らしい。談志降板後、てんぷくトリオの三波伸介が司会者になり、急死を受けて回答者の圓楽に変わった。てんぷくトリオも伊東四朗しか残っていない。みんな死んじゃうね。談志が71年に参院に出たのも、要するにテレビに出てたから皆顔と名前を知ってたのである。田英夫、安西愛子、望月優子とその時の全国区上位は皆テレビで知られていた人である。3年前の68年に石原慎太郎、青島幸男、横山ノックらが全国区で当選してタレント候補と言われていた。

 死去の報は弟子にも知らせず、家族で密葬したということである。立川流も志の輔以下、素晴らしい弟子を育てた。そこがすごい。いや、談志のことをあまり書くつもりはなかったんだけど、つい長くなってるから、これで一本にする。落語そのものについても、そのうちまとめてもっと書きたいと思っている。(この間、西岡参院議長はあまり追悼する気はなかったけれど、劇作家の斎藤憐、推理作家の土屋隆夫、「面白半分」発行人の佐藤嘉尚などの各氏の追悼を書ければと思っていた。なかなかヒマがないけど、いつかまとめて書く機会を作りたい。)
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梶芽衣子トーク&ライブ

2011年11月23日 00時05分21秒 | 自分の話&日記
 昨夜は日比谷図書文化館で、梶芽衣子のトーク&ライブ。これ、最高でしたね。ここ数年で一番面白いトークショー。もっとも昔の梶芽衣子の映画をみていないと面白くないと思うけど。梶芽衣子、本名太田雅子は神田の生まれで、日比谷公園でアイスクリームを食べながら散歩中にスカウトされたという。当時は日活本社が日比谷にあり、上部は日活ホテルになっていた。今のペニンシュラ・ホテルのところで、裕次郎・北原三枝の結婚式をやったとか、いろんな日活映画のロケに使われたとか、映画の本によく出てくる。ということで、梶芽衣子は日比谷に縁があり、都立日比谷図書館が千代田区立日比谷図書文化館にリニューアルされた記念の公演である。

 まあ、還暦をとうに過ぎたというのに、かくも元気ではつらつとしてビックリ。数日前に階段から落ちて怪我したということだったけど。だから目元を保護するサングラス、黒づくめの服装に真紅のハンカチが胸元にあり、素晴らしい。あの「さそり」シリーズの衣装も自分で考えたそうだが、衣装も演技の一環というライフスタイルを貫いている。お酒は全く受け付けない体質だそうだが、トークはざっくばらんでとても面白く、さそりの無言スタイルの印象とは全然違う。タランティーノの「キル・ビル」で梶芽衣子の歌が流れるが、タランティーノの来日時の契約には「梶芽衣子に会わせる」が入っていたそうで、帝国ホテルにいったら、30分間握手した手を離されなかったとか。70年の「反逆のメロディ」で原田芳雄と共演するが、それは沢田監督が日活以外の俳優を探していて、梶芽衣子がテレビで見た原田を推薦したのだという。

 梶芽衣子の特集がこの夏に銀座シネパトスというところであって、全部は見てないけれど数本を見た。さそりシリーズも何本か見直したし、「無宿」(やどなし)とか「修羅雪姫」も見たが、代表作の「曽根崎心中」も33年ぶりに見た。増村保造監督のATG作品だが、これで主演女優賞を総なめした宇崎竜童が黒メガネを取って時代劇に挑み、二人の破局的な恋の道行が圧倒的な情感で描かれる。近松はいつまでも新しいと思ったが、この原作さがしの苦労は大変だったという。増村監督と梶芽衣子で撮ることだけ決まっていて、松本清張や黒岩重吾やいろいろ読みふけり、ようやく決まったが、完全主義の監督に冬の撮影に辛さ。モントリオール映画祭で受賞した後、ニューヨークで上映したら、宇崎竜童のロック調の音楽が「どうして音楽だけ、われわれのものを使うのか」と質問されたとか。当時見た実感では、大ヒット中のダウンタウン・ブギウギ・バンドの宇崎が素顔で熱演して、さらに現代調音楽をつけたことがとても新鮮で成功していた。今年31年ぶりに歌を吹き込みCDを出したが、それは宇崎竜童の曲ばかり。ではこの間親密だったかというと、撮影最終日以後全く会うこともなく、今回突然電話したのだとか。

 梶芽衣子の芸名になる前に、本名で「夜霧よ今夜もありがとう」などに出ていた。今見ると、太田雅子時代から僕は好きで、日活ニューアクションの「野良猫ロック」シリーズなど本当に大好き。ただ同時代的に見たのは「さそり」シリーズから。あの冷たく鋭い目つきの黒づくめの造形が、連合赤軍事件以後の「内ゲバ」に明け暮れた「鉛の時代」の心象を形作っている。最後の歌が「怨み節」。愉快なトークと「怨み節」が聞けて幸せな一夜でした。
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