尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

いじめが根絶できない理由②

2012年08月01日 20時44分52秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと間が空いてしまったけれど、「根絶できない理由」の続き。僕が書きたいのは「学校とはどういう場所か」という問題。「所詮、いじめはなくせない」なんていう「あきらめ論」を書きたいわけではない。もちろん人間の集まるところ、問題が全く起こらない場所を作れるわけがない。だからと言って、全ての問題で「根絶をめざす」と言ってはいけないわけではない。汚職やインサイダー取引なんかは、根絶をめざすべき問題だ。大人が、自分の利害で行う行為なんだから、根絶できないはずがない。(それでも人間は誘惑に弱いから、事件は起こり続けるが…。)

 社会には、教育に関する意見の相違を超えて、「学校は本来いじめがあってはならない場所」という発想が根強いと思う。僕はその発想が根本から間違ってると考える。「学校は本来いじめが多くなるはずの場所」であり、だからそれを前提に対策を立て実施し続けていく必要がある。
 
 大体、学校は未成熟な子どもをいっぱい集める場所なんだから、問題がいろいろ起こっても不思議ではない。子どもは経験が少なく、失うものも少ないのに、若さというエネルギーだけはあったりする。だから、過去の失敗体験を生かして自分を修正できずに、思い込みで暴走したり、ちょっとしたことで強い挫折感を覚えたりする。でも未熟だということは、反面では「変わる可能性を持っている」ということで、だから「反いじめ文化」を育てる教育が重要なのである。(実際、世の中で一番やっかいな「いじめ」は、権力をふるうことに慣れたまま年とって、もう凝り固まってしまった老人による嫌がらせではないか。)

 その「子どもの未熟性」という問題もあるが、僕が一番強調したいのは以下の二つの点である。一つは「学校は子どもを全員集める」という点である。義務教育の小中はもちろん、高校もほぼすべてに近い子どもが所属する。私立に行ったり特別支援学校に行く場合もあるが、数としては地域に住む子どもの多くは地元の学校に通う。義務制の小中は辞められない。転校はできるし、不登校という選択もあるけれど、それでもどこかの小中学校に所属していなければならない。会社を初め大人の集団は、その気になれば辞められる。(ブラック企業ややくざ組織なんかは抜けられないかもしれないが。)「全員所属」に近い場所ほど、問題が起こりやすいのは当然である。徴兵制の軍隊がない現在、そういう場所は「家庭」と「学校」である。続いて「会社」。ほとんどの事件は、家庭か学校か会社で起きる

 子どもが学校にいるのは長くても10時間くらいで、それ以外の時間は家庭や地域で生きている。世界中どこの地域でも何かの問題がある。地域の経済格差や家庭の文化の違い、地域にある差別感情や歴史的に作られた対立感情などは、子どもの中にもインプットされている。生徒は無色の存在として学校に入学するのではなく、地域や家庭の負の歴史を引きずっているのである。学校側が放っておくと、深刻な弱いものいじめにならなくても、弱者をからかう言動が教室に飛びかうことになりやすい。一端そういう言説空間が確立されてしまうと、担任教師が一人で対応することは難しい。(もちろん、生徒が負っているのは「負の歴史」だけでなく、「正の歴史」もある。今はボランティア活動や様々な文化体験を持っている生徒もいっぱいいて、経験を生かして学校で生き生きと活動していることも多い。地域の様々な文化・スポーツ活動が学校と協力して効果をあげている例も多い。)

 ところで今まで書いたのは、学校は地域の生徒が全員来る(問題児もいるだろうし、人間が多ければ衝突も起きる)、その生徒は地域や家庭の問題から自由でないということで、学校と言うところは「外部のマイナスが持ち込まれる場所」だということである。しかし、僕はそれだけでは不十分な理解なのではないかと思っている。学校であるというそのものの中に、いじめが起きやすい構造があるのではないか。いろんな人がよく言うのは、「学校は勉強する場所」という言葉で、勉強やスポーツをしっかりやっていれば、いじめや暴力なんかはおきないらしい。勉強やスポーツそのものが「人格を陶冶(とうや)する」とでも考えているんじゃないか。確かに一流の学者やスポーツマンは人格者が多いかもしれないが、僕らが人生で見聞きするのは、むしろ中途半端に成績が良かったり、部活で上の学校に進んだりする生徒が、上の学校で挫折してしまう場合の方が多い。

 教師はタテマエを言うしかない場合があり、「勉強は本当は楽しい」とか「体を動かすことは楽しい」とかいつも言ってる。僕もまあそう言ってた。いや、僕は社会科教員だから歴史を語っていれば確かに自分では楽しいのである。でも、勉強には評価がつきまとう。評価なしの学校はない。学校での評価は、それより上の学校への進学や会社への就職を考えている生徒には、絶対的な影響がある。学校と言うところは、楽しいメニューもそれなりに用意されてるし、勉強も本来は楽しいんだろうけど、基本的には「生徒が教師による評価を競う場所」である。それも嫌なことをけっこうたくさんしないと評価の対象になってこない。クラスにはいじめっ子タイプもいれば、好きな生徒がいることもあるって言うのに、よりによって人前で英語の教科書を読み上げたり、跳び箱を跳んで見せたりしないといけない。あるいは黒板に出て二次方程式を解かせられたり、リコーダーを演奏して聞かせたりしないといけない。それが嫌じゃないって人には判らないだろうけど、不得意な人にはトラウマになるような出来事が一杯あるのである。だけど、「できる子」だった学校教師、あるいは政治家も官僚も学者もマスコミ人も、そこらへんをあまり感じることができないんじゃないか。

 評価する場所という学校本来の特性からして、悪い評価を受ける生徒はカラカイの対象になるし、スポーツが不得意な生徒は団体競技なんかでは排斥される。それでも人間は生きていく能力を発揮して、強い者と弱いものがうまく交じりあってグループを形成して、リーダーを中心にまとまって生活していく。僕はこの、評価する場所という特性を悪いことだとは思っていない。むしろ試験の成績や目に見える運動能力はまあ評価が納得しやすいし、努力で変えていける。人生の中ではこんな判りやすい評価はあまりない。コミュニケーション能力が問われたり、容姿で落とされたりする就職なんかの方がよほど辛い。評価される側として「評価対策力」を養うのは、学校の授業しかないだろう。でも、その評価するという学校の特性そのものが、生徒集団の中に優劣を生み出し、優越感や挫折感を生む。それが生徒の属するグループの中に、さまざまな葛藤を生み出すから、学校という場所は放っておくと「仲間割れ」「仲間はずれ」が常に起こる。避けられないし、人はそこから学ぶものだと思うけど、同時に注視していないと深刻な疎外感を持つ生徒が出てくる。学校という場所はそのことを判ったうえで対応して行かないといけない場所なんだと思う。

(ではどうすればいいのか、今のいじめ対策には何が欠けているのかなどは次以降。)
追伸。僕の授業に対して「歴史の面白さを感じた」と書いてくれた生徒がいてうれしかった思い出があるが、でもビデオを見せながら面白エピソードを語るようなことばかりしているわけにはいかない。高校段階までは「教科書の知識を注入する」学習も必須である。「生徒が考える授業実践」みたいなことができる学校の方が少ないだろう。「1582年、天下統一目前のAがBに襲われたCの変が起きた」と試験問題を出すと、「識田信長が明知秀光に本熊寺で襲われた」とか書く生徒はけっこういるのだ。僕が忘れられないのは、「ヒラヤマ山脈」(生徒に平山がいたとき)と「水たま病」という答えである。知識の習得方法を学校で学ばせておかないと、自動車免許の学科試験を落ち続ける。
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