尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「桐島、部活やめるってよ」

2012年08月27日 23時34分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 朝井リョウ原作、吉田大八監督の映画「桐島、部活やめるってよ」。ほぼすべてが学校内のシーンという「学校映画」だが、かつてなく日本社会を深く描いた社会映画だと思う。あまり思い出したくない「学校社会」のリアルを巧みに描いている。

 原作とは少し違うらしいけど、原作も映画も「桐島」その人が登場しないという点は同じ。「何でもできる万能タイプ」のバレーボール部長が、部活をやめてしまったらしく、学校自体にも来ない。バレー部員も「親友(のはずの友達)」も「カノジョ」も理由がわからないまま、当たり前と思っていた世界が変わってしまう。そういう高校2年の2学期のある金曜日から火曜日にかけての日々。

 若い時期と言うのは、すべての世界は相対的なものだということを知らないから、一生懸命であれ斜に構えてであれ、何にしても思い出すと恥ずかしい。なんであの頃、あの子をあんなに好きだったんだろう。なんであの頃、クラスメートとあんなにうまく行かなかったんだろう。なんであの頃、あんなに部活動に熱中できたんだろう。そして、なんであの頃、何も考えずに勉強や部活を「普通に」やっていられたんだろう。そう言うことが見えてしまえば、恥ずかしくて思い出す気にもならない。それが高校時代だろう。そういう高校時代を「断片」の重なりとして、いくつものエピソードを積み重ねて描く

 映画は普通、タイトルが出て始まる。寅さんのように主筋に入る前に「寅さんの夢」がお決まりで出てくる映画もあるけど、大体は映画の名前が最初に出る。でもこの映画は、タイトルが出ない。タイトルは最後になってやっと現れる。まず、最初に「金曜日」と出て、職員室の場面である。登場人物も判らないし、相互の関係も判らない。ところが、次のシーンも「金曜日」、次も「金曜日」…。同じシーンが登場人物の視点を変えて違った目で描かれる。そうしてだんだん相互の関係、すれ違い、対立、無関係と言う関係が見えてくる。この「断片」の積み重ねという手法が、ロバート・アルトマン監督の「ナッシュビル」「ショート・カッツ」を思い出させるという評もあるけど、同じ話を違う視点で描き直すという感じが内田けんじ「運命じゃない人」に似てるかもしれない。

 桐島はバレー部長であるにも関わらず、「帰宅部」の友人3人がいつもバスケをしながら帰りを待っている。(「帰宅部」の中にも、野球部で期待されながら出ていない生徒もいる。)また、いつも「カノジョ」が部活の終わるのを待っている。恵まれていると一応言うわけだが、けっこうウットウシイのかもしれない。「カノジョ」が日常的にいる女子グループも内情は複雑。バドミントン部の実果は、なんで部活やってるのと聞かれて、あたしは内申書ねらいだからというが、直後に同グループで同じバド部のかすみには、「あれはウソ。ホントはバドが好きだから。あの人たちに言ってもなんだから」みたいに言う。かすみは実は「帰宅部」の竜汰とつきあってるけど、それは竜汰が秘密にしたいということで実果にも言ってない。桐島がいないため、今まで試合に出られなかった背の低い小泉が日曜の試合に出られたが、結果は負け。桐島に最後まで一緒に部活やろうと言われて入った小泉は、部活の猛練習についていけない。実果はそう言う小泉を見ていて、「好きとかじゃないけど、小泉君見てると、熱心にやってても、負けるときは負けるんだなと思って」と思いがいっぱいになり、「ゴメン、今日は部活ムリ」と帰ってしまう。

 金曜に朝礼があるらしく、部活動紹介で映画部が「映画甲子園」1次を突破したと紹介された。映画部の部長前田は自分で書いたシナリオ映画にしたいのだが、顧問は自分で書くと言い張る。「宇宙ゾンビなんて、リアルじゃないだろ」。「半径1メートル以内の映画を作れ」。高校生なんだから、進路とか男女交際とかの悩みこそがリアルなはずだという思い込みである。しかし、映画部はカノジョができそうもない、学校内モテ度ランキングで低い位置にいる生徒たちばかりである。スポーツ不得意で、見た目も地味で、オタク的映画ファンなんだから。だから派手系女子(桐島の「カノジョ」たち)からは、無視というか違った存在として扱われている。日曜に映画館で「鉄男」を見てると、たまたまかすみが来ていて(来てた理由はラスト近くでわかる)、中学時代は映画ファンで時々話をしたねという。今は高校のクラスメートだというのに、住んでる場所が違ってしまった。授業中もシナリオ改定の「内職」をしてる前田たちは、放課後の映画撮影で生き返る。まさに学校で「ゾンビ」として生きているのだ。授業や「校内恋愛」では死んでいて、趣味の世界だけでよみがえるのである。勉強や恋愛などの青春の方がリアリティがなく、彼らにはゾンビの方がリアリズムの世界なのである

 
 映画を校庭で撮っていると野球部がジャマになる。野球部には言えないから屋上に移って撮ろうとすると、吹奏楽部長亜矢が一人で練習をしている。実は「帰宅部」でバスケをしてる男子を見ているらしい。ジャマになるからどいてくれないかと頼むかどうか。「吹奏楽部なら同じ文化部だし言えるだろ。」でも亜矢は何のかのとヘリクツを言ってどかない。この映画部と吹奏楽部長だけが「桐島」の関係の枠組みから自由である。火曜日、桐島が屋上にいるらしいとの情報が携帯で流れて、桐島関係者(バレー部、帰宅部、カノジョたち)が一斉に屋上をめざし、ゾンビ撮影中の映画部をめちゃくちゃに荒らしてしまう。小道具の隕石を壊されたのを見た前田はバレー部の副部長に「謝れ」と詰め寄るのである。そのあとの「乱闘」とラスト。しかし、結局は「何も変わらない」。桐島は現れず、なんで辞めたのかもわからない。すべての登場人物にとって、世界は少し変わったのかもしれないが、何も変わらず時間だけがたっていくのかもしれない。

 重層的な人間関係のつながりの中で、何もリアルなものがつかめないという感覚だけがよく伝わる。何も見えていない「青春」の時期を通して、少しは自分の位置が見えてしまったのかもしれない。でも、まったく「青春の甘酸っぱい思い出」が出てこなくて、「いま」の生きにくさだけが描かれるという、稀なる青春映画。学校内の「階級」を描いた傑作だと思うけど、同時に「学校には様々な人がいる」ので、時々素晴らしいダイヤモンドのようにキラキラ輝く瞬間がないわけではない。そのことも多くの生徒に言える。そういう「学校という空間」がとてもうまく描かれている。

 原作者は岐阜出身だけど、この映画は高知県で撮影されている。山が遠くに見える高校の様子は新鮮である。(日本のほとんどの地域は学校から山が見えると思うけど、関東平野の端にある東京では山が見えない。冬の寒く晴れた日だけ遠くに富士山が見える学校があるけれど。)監督の吉田大八は、CMディレクターから2007年に「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」でデビュー。サトエリの代表作になるだろうけど、永作博美も最高。その後、「クヒオ大佐」「パーマネント野ばら」の作品がある。映画部は8ミリで映画を撮ってると言う設定で、その映写機がいい。俳優は映画部長前田が神木隆之介、かすみが橋本愛などの若手が出てる。実果をやった清水くるみが良かった。
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