早くいじめや選挙制度の問題に行きたいんだけど、映画を見て書いてしまうことが多い。それ以外に前から「違和感を感じる言葉の使い方」について書きたいなと思ってきた。いくつか用意があるんだけど、それらは置いといて、五輪関係で違和感があった言葉について忘れないうちに書いてみたい。
①「感動」は「貰えるもの」なんだろうか?
オリンピックフィーバーも50万人銀座大パレードで一段落なんだろうか?松本薫の「工事現場のおじちゃん」発言は笑えた。確かにみんな工事しないでパレード見てる映像が流されていた。ところで、この間「大きな感動を日本中がもらえました」とか「たくさんの元気をありがとう」とか、そんな言葉が日本中にあふれていた。それを聞いて思った。「感動」とか「元気」って、あげたり貰ったりできるもんなんかなあ。
「感動」って言う「実体のある物質」があって、放り投げたり受け止めたりできるような感じである。もちろん、選手の頑張り、素晴らしい技術、一生懸命さ、チームワーク、今までの努力なんかを、見ている側が大きな感動を持って受け止めるということはある。でも、それは見ている我々が「感動する」ものであって、なんかもう出来上がっている「感動というもの」を選手から貰うという表現には僕は違和感を感じてしまう。「感動をもらいました」なんて言わずに、「とても感動しました」と言えばいいではないか。なんなら「チョー感動した」でもいい。「チョー感動」には、自分が能動的に感情を動かしている様子が現れている。思えば数年前までは、みんな自分で感動していたのである。いつのまにか、自分の心で感動できずに「出来上がった感動」を貰うようになってしまったのではないか。
これは「いじめ」でも、「原発」でも、すべてに通じていく問題ではないか。メダリストに「感動をありがとう」と言ってるうちはまだいいけど、やがて自分が主権者であることを忘れて「感動をくれる政治家に一票を」ということになって行かなければいいんだけど。
②「はい、そうですね」問題
選手も大変である。全力で闘って勝ったり負けたりした直後に、すぐにも「報道インタビュー」に答えなければいけない。いや、大変だ。でも多くの人が応援してたんだし、税金も投入されてるんだから、五輪選手もある意味「公人」なんだし、仕方ないだろう。その競技では日本最高レベル、世界でも何十人に一人というレベルの人間なんだから、少しは気の利いたことが言えてもいいだろう。
ということで、メダルとか予選突破とか、まず「おめでとうございます」と言われるインタビューが始まる。すると、もうほとんど全員の選手が、まず「はい、そうですね」と応じるのである。みんながそう言うんだから、これは多分、「まずそのように受けて、その間に答えることを頭の中でまとめる」というトレーニングを受けてるに違いない。それはそれで、他の人でも応用可能な言葉ではないかとは思うけど、みんな同じ言葉では何だかなあ。
もっと自然な第一声、「ありがとう」でもいいし、「とってもうれしい」でもいいし、「ホントは悔しい気持ちでいっぱいです」でもいいじゃないかと思う。どうもなんだか、失言のようなことを思わず言ってしまわないような配慮、ちょっと一拍おいて、少し考えて語る配慮なのかなと思う。そのため「応援して頂いた皆さんのおかげです」とか優等生的発言が多くなる。でも、インタビューが終わると、家族のところに飛んで行って一緒に喜び合うというシーンが多かった。だから、本当のところを言うと、日本、特に被災地の人に喜んでほしいという気持ちももちろんあるとは思うけれども、それはタテマエで、まずは家族に「メダル、取れたよ」と言いたいんだろうと思う。まだ20代前半くらいの選手が多い。今まで選手を続けてこれたのは、親の影響や理解や経済力であり、また親が指導していた選手も多い。「お父さん、お母さん、メダル取ったよ。今まで、ありがとう」が第一声でいいんじゃないか。
③「走り」と「泳ぎ」問題
いつの頃からか、「明日はベストの走りをしたいと思います」というような表現が普通になってきた。「最高の泳ぎができました」とも言う。一応今のところ「走り」と「泳ぎ」に限られていると思う。それは「3語」の語感によるものだろう。
「室伏さん、明日は最高の投げを期待しています」とは言わないだろう。「跳び」も使わない。そもそも「構成力」を必要とする体操やシンクロナイズトスイミングでは、身体の動きは様々だから「演技」という言葉になる。サッカーでは外国由来の競技だから、「見事なゴールでした」「素晴らしいミドルシュートでした」と外来語を使う。「見事な蹴り(頭突き)でしたね」という表現はしない。トラック競技や競泳は、身体の動きがシンプルで「走る」「泳ぐ」という3文字の動詞が存在する。だからそれを名詞化して使いやすい。
この問題はスポーツ以外にも使われていて、学校の教員だったら「授業」と言えばすむところ、カルチャーセンターでヨガや生け花や絵手紙なんかの講座を持ってたりする人は、「教え」と言ったりすることが最近はあるようだ。「徳川家康の教え」(人生はガマンだ)などと「教え」という名詞を使うことはあったけど、今までは「今日はこれから教えがある日なので」なんて用法は聞いたことがなかった。
これは何なのかということはまだ僕はよくわからない。漢字熟語に「する」をつけて動詞化することが日本では多い。「読書する」「旅行する」などなど。これは本来は「読書をする」「旅行をする」なんだろう。一方、動詞を名詞化した場合、すぐに「する」を付けることは今はまだできない。「走りする」「泳ぎする」とはいかになんでも言えない。だから「を」を入れないといけない。「走りをする」「泳ぎをする」と言わなけらばならない。これが僕には違和感があって、「走りをする」というくらいなら、「走る」と言えばいいと思うしシンプルで省エネではないか。
多分これは「全力で走る」だけではダメで、「ベストの走りをお見せしたい」「最高の泳ぎを期待してください」という気持ちが入っているんだろうと思う。つまり「ひたすら一人で頑張る」という段階から、「パフォーマーとして、他人に見せる目的でスポーツをする」という段階に変わってきた。陸上も水泳も、事実上プロ化して、「走り」や「泳ぎ」というものを売ってるという自覚があるのではないかと言う気がする。でも、僕は「全力で頑張ります」と言えばいいと思っていて、「ベストの走りをしたい」なんて表現はおかしいなあと思っているわけである。
①「感動」は「貰えるもの」なんだろうか?
オリンピックフィーバーも50万人銀座大パレードで一段落なんだろうか?松本薫の「工事現場のおじちゃん」発言は笑えた。確かにみんな工事しないでパレード見てる映像が流されていた。ところで、この間「大きな感動を日本中がもらえました」とか「たくさんの元気をありがとう」とか、そんな言葉が日本中にあふれていた。それを聞いて思った。「感動」とか「元気」って、あげたり貰ったりできるもんなんかなあ。
「感動」って言う「実体のある物質」があって、放り投げたり受け止めたりできるような感じである。もちろん、選手の頑張り、素晴らしい技術、一生懸命さ、チームワーク、今までの努力なんかを、見ている側が大きな感動を持って受け止めるということはある。でも、それは見ている我々が「感動する」ものであって、なんかもう出来上がっている「感動というもの」を選手から貰うという表現には僕は違和感を感じてしまう。「感動をもらいました」なんて言わずに、「とても感動しました」と言えばいいではないか。なんなら「チョー感動した」でもいい。「チョー感動」には、自分が能動的に感情を動かしている様子が現れている。思えば数年前までは、みんな自分で感動していたのである。いつのまにか、自分の心で感動できずに「出来上がった感動」を貰うようになってしまったのではないか。
これは「いじめ」でも、「原発」でも、すべてに通じていく問題ではないか。メダリストに「感動をありがとう」と言ってるうちはまだいいけど、やがて自分が主権者であることを忘れて「感動をくれる政治家に一票を」ということになって行かなければいいんだけど。
②「はい、そうですね」問題
選手も大変である。全力で闘って勝ったり負けたりした直後に、すぐにも「報道インタビュー」に答えなければいけない。いや、大変だ。でも多くの人が応援してたんだし、税金も投入されてるんだから、五輪選手もある意味「公人」なんだし、仕方ないだろう。その競技では日本最高レベル、世界でも何十人に一人というレベルの人間なんだから、少しは気の利いたことが言えてもいいだろう。
ということで、メダルとか予選突破とか、まず「おめでとうございます」と言われるインタビューが始まる。すると、もうほとんど全員の選手が、まず「はい、そうですね」と応じるのである。みんながそう言うんだから、これは多分、「まずそのように受けて、その間に答えることを頭の中でまとめる」というトレーニングを受けてるに違いない。それはそれで、他の人でも応用可能な言葉ではないかとは思うけど、みんな同じ言葉では何だかなあ。
もっと自然な第一声、「ありがとう」でもいいし、「とってもうれしい」でもいいし、「ホントは悔しい気持ちでいっぱいです」でもいいじゃないかと思う。どうもなんだか、失言のようなことを思わず言ってしまわないような配慮、ちょっと一拍おいて、少し考えて語る配慮なのかなと思う。そのため「応援して頂いた皆さんのおかげです」とか優等生的発言が多くなる。でも、インタビューが終わると、家族のところに飛んで行って一緒に喜び合うというシーンが多かった。だから、本当のところを言うと、日本、特に被災地の人に喜んでほしいという気持ちももちろんあるとは思うけれども、それはタテマエで、まずは家族に「メダル、取れたよ」と言いたいんだろうと思う。まだ20代前半くらいの選手が多い。今まで選手を続けてこれたのは、親の影響や理解や経済力であり、また親が指導していた選手も多い。「お父さん、お母さん、メダル取ったよ。今まで、ありがとう」が第一声でいいんじゃないか。
③「走り」と「泳ぎ」問題
いつの頃からか、「明日はベストの走りをしたいと思います」というような表現が普通になってきた。「最高の泳ぎができました」とも言う。一応今のところ「走り」と「泳ぎ」に限られていると思う。それは「3語」の語感によるものだろう。
「室伏さん、明日は最高の投げを期待しています」とは言わないだろう。「跳び」も使わない。そもそも「構成力」を必要とする体操やシンクロナイズトスイミングでは、身体の動きは様々だから「演技」という言葉になる。サッカーでは外国由来の競技だから、「見事なゴールでした」「素晴らしいミドルシュートでした」と外来語を使う。「見事な蹴り(頭突き)でしたね」という表現はしない。トラック競技や競泳は、身体の動きがシンプルで「走る」「泳ぐ」という3文字の動詞が存在する。だからそれを名詞化して使いやすい。
この問題はスポーツ以外にも使われていて、学校の教員だったら「授業」と言えばすむところ、カルチャーセンターでヨガや生け花や絵手紙なんかの講座を持ってたりする人は、「教え」と言ったりすることが最近はあるようだ。「徳川家康の教え」(人生はガマンだ)などと「教え」という名詞を使うことはあったけど、今までは「今日はこれから教えがある日なので」なんて用法は聞いたことがなかった。
これは何なのかということはまだ僕はよくわからない。漢字熟語に「する」をつけて動詞化することが日本では多い。「読書する」「旅行する」などなど。これは本来は「読書をする」「旅行をする」なんだろう。一方、動詞を名詞化した場合、すぐに「する」を付けることは今はまだできない。「走りする」「泳ぎする」とはいかになんでも言えない。だから「を」を入れないといけない。「走りをする」「泳ぎをする」と言わなけらばならない。これが僕には違和感があって、「走りをする」というくらいなら、「走る」と言えばいいと思うしシンプルで省エネではないか。
多分これは「全力で走る」だけではダメで、「ベストの走りをお見せしたい」「最高の泳ぎを期待してください」という気持ちが入っているんだろうと思う。つまり「ひたすら一人で頑張る」という段階から、「パフォーマーとして、他人に見せる目的でスポーツをする」という段階に変わってきた。陸上も水泳も、事実上プロ化して、「走り」や「泳ぎ」というものを売ってるという自覚があるのではないかと言う気がする。でも、僕は「全力で頑張ります」と言えばいいと思っていて、「ベストの走りをしたい」なんて表現はおかしいなあと思っているわけである。