今まで何回か書いてることは、「いじめを減らすためには、どういうことができるだろうか」ということなんだけど、7月頃に「減いじめのために」とサブタイトルをつけて2回書いていた。少し具体論を書いてみたいので、「減いじめのために③」として書くことにする。
学校で「不祥事」が起きると、きまって教育委員会が校長を臨時に集める。集まりの冒頭の映像がニュースで流れる。なんでそういうことをするんだろうか?僕には、「教育委員会のアリバイ作り」だと前から思っていて、「税金のムダ遣い」だと思ってきた。(校長の出張費が公費負担である。)何故かと言って、いじめ調査をやると言う程度の話なら、今では学校と教育委員会はインターネットでつながっているので、他の無数の調査と同じく、電子メールの添付ファイルで送りつけてくればいいのである。校長は直接は生徒をほとんど知らない。生徒の問題も校長が最高責任者ということにはなってるけど、授業や部活動を担当しないんだから、生徒の名前もあまり知らない。よほど表彰が多いか、逆に問題行動が多いかしないと、校長も覚えられない。(小規模校なんかだと、校長が毎朝校門に立って挨拶を続けて、名前も知ってると言う人もいるけれど。でも、全校生徒が千人近い大規模進学高校なんかだと、教師だって自分の教えている学年の生徒しか判らないくらいで、校長が知ってるわけはない。)最高責任者だから、大事な時に教委に呼ばれているのではなく、校長は「学校にいなくても一番不都合がない人」だから呼ばれているのかもしれない。
それより僕が昔から思っているのは、地方の小都市の中学なんかで「生徒会長会」をやるところはないんだろうか。生徒会長も「内申書ねらい」の「雇われマダム」みたいな存在の学校も多いとは思うけれど、副会長でも書記でもいいけど、各学校の生徒に直接行政が働きかけることはしないのか。そういう面倒なのはいやだと思う会長も多いだろうけど、それは今までやってないからで、続けていれば誇りに思う人も出てくるはずだ。今は何かと言うと、教師を通して「ボランティアという名前の強制動員」を学校にかけてくる。町の祭りだの、スポーツ大会のお手伝いだの、外国から誰か親善訪問団が来たの、なんてときに都合のいい動員対象と考えている自治体は多いだろう。でも、行ってみると言われた通りのお手伝いに使われて、Tシャツだの弁当とお茶かなんかはくれるけど、つまらない。外国の姉妹都市から子ども使節団が来るなんて時に、行事の企画そのものから子どもの声を生かし、子どもの力でやらせてみるというところは少ないだろう。でも、ホントはそういう積み重ねがあったうえで、地域の学校で問題が起こったら生徒の代表も集めて「君たちの力が今こそ必要だ」と呼びかける試みがあるといいなと思う。
大体学校の中で「生徒会」の意味がとても小さくなってしまった。行事の補助、教師の手伝い機関という感じが強くなり、「学校に生徒の意見を伝える」という発想が無くなってきた。伝えられても、教師も多忙な上、教師の意見も職員会議で取り上げられない時代になってしまって、生徒の声を職員会議で議論することができない。教師も「我々に言われてもどうしようもない。学校に不満があるなら直接校長か、教育委員会へ伝えて欲しい」なんて、ホントのことを言いたくなってしまう。まあそれも何なので、何とか生徒会担当で引き取るが、他の教員集団の支援が得られない。
生徒会活動がもう意味を持たなくなって長いので、教師の側も「生徒会を通して生徒の自治を育てる」などと言う取り組みを経験したことがない人ばかりになってしまったのである。生徒会の意見を聞くなどと言うと、生徒のわがままを容認していく危険性しか頭に浮かばないのである。どうせ教師に認められないと判っているんだったら、活動するだけ時間と労力のムダで、だから生徒会役員の成り手を見つけるのに苦労する時代である。高校では部活や受験勉強が大変な上、それらに関係ない生徒は「バイト」があるので、放課後に奉仕的に生徒会活動をする時間がない。高校に入った時点で、(有名大学合格とか就職とか)路線が大体決まってるので、それに向けた限られた時間と言うことで、生徒も「自治」を必要としないと思い込んでいる。推薦で大学へ行きたい人なんかが有利な点数稼ぎで生徒会をやるという風に思われているかもしれない。修学旅行も文化祭も「先生が決めてくれれば、それでいい」。それで学校が決めた範囲内で楽しんでいる。その範囲内で楽しめない生徒は、校外でバイトして自分のお金でコンサートに行ったりする。
中学はまた少し違うと思うけど、他の目を気にする世代だから、生徒会活動は難しい。でも僕の経験だと、生徒会役員を見つけるのに苦労する学年は他の問題でも大変。うまく教師と生徒の相互関係が出来ている学年では、生徒会役員にどんどん立候補してくれる。いまどき定数以上が立候補して選挙で落とすしかなかった選挙も何回かあった。そういうこと(生徒会役員になりたい生徒が多くいるような生徒の状態)がいじめや他の問題の情報が教師に集まってくる前提条件だと思う。行事などで生徒会、各委員会組織の力をもっと付けていくこと。それは大変面倒くさいのである。教師がどんどんやってしまう方がはるかに早い。「だったら先生やってよ」というのを押しとどめて、生徒がやらなきゃ学校ではないと押し切る。その面倒くさいプロセスに付き合えるだけの、「生徒と関わることを楽しめる教員」であるかどうか。
教師の側が意識して、生徒の中に生活リーダーを育成していく意識を持たないとリーダーは育たない。忙しいから簡便な方に教師は流れやすい。でも生徒の中に「学校を自分たちで良くしていく」意識がないと、結局は何もできない。いじめを深刻なものにしないためには、生徒の関心をもっと他のポジティブなものに向けていくことが必要だし、またここまで行ったら先生に相談しないと大変だという感覚を生徒が持っていることが大切である。そういう感覚は、行事を生徒会とともに作っていく中で養われていくものではないか。生徒のリーダーが育ってもすべての情報が集まるわけではない。気を付けていないと今度はその生徒が浮いてしまって情報が集まらなくなる。またそれよりも、「悪い情報」は教師にあげても、「いい情報」は自分たちの中で留めるということも多い。点数稼ぎみたいな「いい話」はあえて教師には秘密にするのである。でも、そうなって初めて「自治」が少しは根付いたと言えるのではないか。卒業して数年してから、あのときこんなことがあったんですよ、などと聞くわけである。
「リーダー育成」というのは「エリート育成」とは違う。成績優秀な生徒を選抜して英語などをたたきこみ留学などカネもかけて、日本の次代のリーダーを育てるなどと言う発想が最近は多い。それじゃ実際の社会では働けない。大学を出て正社員になると、すぐにパート従業員のリーダーにさせられ、人間関係が作れないで辞めてしまう「エリート」は多いはずだ。エリートだけ選抜するのではなく、それぞれの学校で意識の高い生徒が皆を行事などで引っ張っていく、などという体験。人は「真のリーダー」になる前に、小集団の「サブリーダー」で鍛えられる体験を積む必要がある。その原体験として、行事や生徒会活動がある。今こそいじめ防止に生徒会の総量を結集する運動がいるのではないかと思う。
学校で「不祥事」が起きると、きまって教育委員会が校長を臨時に集める。集まりの冒頭の映像がニュースで流れる。なんでそういうことをするんだろうか?僕には、「教育委員会のアリバイ作り」だと前から思っていて、「税金のムダ遣い」だと思ってきた。(校長の出張費が公費負担である。)何故かと言って、いじめ調査をやると言う程度の話なら、今では学校と教育委員会はインターネットでつながっているので、他の無数の調査と同じく、電子メールの添付ファイルで送りつけてくればいいのである。校長は直接は生徒をほとんど知らない。生徒の問題も校長が最高責任者ということにはなってるけど、授業や部活動を担当しないんだから、生徒の名前もあまり知らない。よほど表彰が多いか、逆に問題行動が多いかしないと、校長も覚えられない。(小規模校なんかだと、校長が毎朝校門に立って挨拶を続けて、名前も知ってると言う人もいるけれど。でも、全校生徒が千人近い大規模進学高校なんかだと、教師だって自分の教えている学年の生徒しか判らないくらいで、校長が知ってるわけはない。)最高責任者だから、大事な時に教委に呼ばれているのではなく、校長は「学校にいなくても一番不都合がない人」だから呼ばれているのかもしれない。
それより僕が昔から思っているのは、地方の小都市の中学なんかで「生徒会長会」をやるところはないんだろうか。生徒会長も「内申書ねらい」の「雇われマダム」みたいな存在の学校も多いとは思うけれど、副会長でも書記でもいいけど、各学校の生徒に直接行政が働きかけることはしないのか。そういう面倒なのはいやだと思う会長も多いだろうけど、それは今までやってないからで、続けていれば誇りに思う人も出てくるはずだ。今は何かと言うと、教師を通して「ボランティアという名前の強制動員」を学校にかけてくる。町の祭りだの、スポーツ大会のお手伝いだの、外国から誰か親善訪問団が来たの、なんてときに都合のいい動員対象と考えている自治体は多いだろう。でも、行ってみると言われた通りのお手伝いに使われて、Tシャツだの弁当とお茶かなんかはくれるけど、つまらない。外国の姉妹都市から子ども使節団が来るなんて時に、行事の企画そのものから子どもの声を生かし、子どもの力でやらせてみるというところは少ないだろう。でも、ホントはそういう積み重ねがあったうえで、地域の学校で問題が起こったら生徒の代表も集めて「君たちの力が今こそ必要だ」と呼びかける試みがあるといいなと思う。
大体学校の中で「生徒会」の意味がとても小さくなってしまった。行事の補助、教師の手伝い機関という感じが強くなり、「学校に生徒の意見を伝える」という発想が無くなってきた。伝えられても、教師も多忙な上、教師の意見も職員会議で取り上げられない時代になってしまって、生徒の声を職員会議で議論することができない。教師も「我々に言われてもどうしようもない。学校に不満があるなら直接校長か、教育委員会へ伝えて欲しい」なんて、ホントのことを言いたくなってしまう。まあそれも何なので、何とか生徒会担当で引き取るが、他の教員集団の支援が得られない。
生徒会活動がもう意味を持たなくなって長いので、教師の側も「生徒会を通して生徒の自治を育てる」などと言う取り組みを経験したことがない人ばかりになってしまったのである。生徒会の意見を聞くなどと言うと、生徒のわがままを容認していく危険性しか頭に浮かばないのである。どうせ教師に認められないと判っているんだったら、活動するだけ時間と労力のムダで、だから生徒会役員の成り手を見つけるのに苦労する時代である。高校では部活や受験勉強が大変な上、それらに関係ない生徒は「バイト」があるので、放課後に奉仕的に生徒会活動をする時間がない。高校に入った時点で、(有名大学合格とか就職とか)路線が大体決まってるので、それに向けた限られた時間と言うことで、生徒も「自治」を必要としないと思い込んでいる。推薦で大学へ行きたい人なんかが有利な点数稼ぎで生徒会をやるという風に思われているかもしれない。修学旅行も文化祭も「先生が決めてくれれば、それでいい」。それで学校が決めた範囲内で楽しんでいる。その範囲内で楽しめない生徒は、校外でバイトして自分のお金でコンサートに行ったりする。
中学はまた少し違うと思うけど、他の目を気にする世代だから、生徒会活動は難しい。でも僕の経験だと、生徒会役員を見つけるのに苦労する学年は他の問題でも大変。うまく教師と生徒の相互関係が出来ている学年では、生徒会役員にどんどん立候補してくれる。いまどき定数以上が立候補して選挙で落とすしかなかった選挙も何回かあった。そういうこと(生徒会役員になりたい生徒が多くいるような生徒の状態)がいじめや他の問題の情報が教師に集まってくる前提条件だと思う。行事などで生徒会、各委員会組織の力をもっと付けていくこと。それは大変面倒くさいのである。教師がどんどんやってしまう方がはるかに早い。「だったら先生やってよ」というのを押しとどめて、生徒がやらなきゃ学校ではないと押し切る。その面倒くさいプロセスに付き合えるだけの、「生徒と関わることを楽しめる教員」であるかどうか。
教師の側が意識して、生徒の中に生活リーダーを育成していく意識を持たないとリーダーは育たない。忙しいから簡便な方に教師は流れやすい。でも生徒の中に「学校を自分たちで良くしていく」意識がないと、結局は何もできない。いじめを深刻なものにしないためには、生徒の関心をもっと他のポジティブなものに向けていくことが必要だし、またここまで行ったら先生に相談しないと大変だという感覚を生徒が持っていることが大切である。そういう感覚は、行事を生徒会とともに作っていく中で養われていくものではないか。生徒のリーダーが育ってもすべての情報が集まるわけではない。気を付けていないと今度はその生徒が浮いてしまって情報が集まらなくなる。またそれよりも、「悪い情報」は教師にあげても、「いい情報」は自分たちの中で留めるということも多い。点数稼ぎみたいな「いい話」はあえて教師には秘密にするのである。でも、そうなって初めて「自治」が少しは根付いたと言えるのではないか。卒業して数年してから、あのときこんなことがあったんですよ、などと聞くわけである。
「リーダー育成」というのは「エリート育成」とは違う。成績優秀な生徒を選抜して英語などをたたきこみ留学などカネもかけて、日本の次代のリーダーを育てるなどと言う発想が最近は多い。それじゃ実際の社会では働けない。大学を出て正社員になると、すぐにパート従業員のリーダーにさせられ、人間関係が作れないで辞めてしまう「エリート」は多いはずだ。エリートだけ選抜するのではなく、それぞれの学校で意識の高い生徒が皆を行事などで引っ張っていく、などという体験。人は「真のリーダー」になる前に、小集団の「サブリーダー」で鍛えられる体験を積む必要がある。その原体験として、行事や生徒会活動がある。今こそいじめ防止に生徒会の総量を結集する運動がいるのではないかと思う。