尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

生徒会長は集めないのか?-「減いじめ」のために③

2012年08月29日 23時59分58秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 今まで何回か書いてることは、「いじめを減らすためには、どういうことができるだろうか」ということなんだけど、7月頃に「減いじめのために」とサブタイトルをつけて2回書いていた。少し具体論を書いてみたいので、「減いじめのために③」として書くことにする。

 学校で「不祥事」が起きると、きまって教育委員会が校長を臨時に集める。集まりの冒頭の映像がニュースで流れる。なんでそういうことをするんだろうか?僕には、「教育委員会のアリバイ作り」だと前から思っていて、「税金のムダ遣い」だと思ってきた。(校長の出張費が公費負担である。)何故かと言って、いじめ調査をやると言う程度の話なら、今では学校と教育委員会はインターネットでつながっているので、他の無数の調査と同じく、電子メールの添付ファイルで送りつけてくればいいのである。校長は直接は生徒をほとんど知らない。生徒の問題も校長が最高責任者ということにはなってるけど、授業や部活動を担当しないんだから、生徒の名前もあまり知らない。よほど表彰が多いか、逆に問題行動が多いかしないと、校長も覚えられない。(小規模校なんかだと、校長が毎朝校門に立って挨拶を続けて、名前も知ってると言う人もいるけれど。でも、全校生徒が千人近い大規模進学高校なんかだと、教師だって自分の教えている学年の生徒しか判らないくらいで、校長が知ってるわけはない。)最高責任者だから、大事な時に教委に呼ばれているのではなく、校長は「学校にいなくても一番不都合がない人」だから呼ばれているのかもしれない

 それより僕が昔から思っているのは、地方の小都市の中学なんかで「生徒会長会」をやるところはないんだろうか。生徒会長も「内申書ねらい」の「雇われマダム」みたいな存在の学校も多いとは思うけれど、副会長でも書記でもいいけど、各学校の生徒に直接行政が働きかけることはしないのか。そういう面倒なのはいやだと思う会長も多いだろうけど、それは今までやってないからで、続けていれば誇りに思う人も出てくるはずだ。今は何かと言うと、教師を通して「ボランティアという名前の強制動員」を学校にかけてくる。町の祭りだの、スポーツ大会のお手伝いだの、外国から誰か親善訪問団が来たの、なんてときに都合のいい動員対象と考えている自治体は多いだろう。でも、行ってみると言われた通りのお手伝いに使われて、Tシャツだの弁当とお茶かなんかはくれるけど、つまらない。外国の姉妹都市から子ども使節団が来るなんて時に、行事の企画そのものから子どもの声を生かし、子どもの力でやらせてみるというところは少ないだろう。でも、ホントはそういう積み重ねがあったうえで、地域の学校で問題が起こったら生徒の代表も集めて「君たちの力が今こそ必要だ」と呼びかける試みがあるといいなと思う。

 大体学校の中で「生徒会」の意味がとても小さくなってしまった。行事の補助、教師の手伝い機関という感じが強くなり、「学校に生徒の意見を伝える」という発想が無くなってきた。伝えられても、教師も多忙な上、教師の意見も職員会議で取り上げられない時代になってしまって、生徒の声を職員会議で議論することができない。教師も「我々に言われてもどうしようもない。学校に不満があるなら直接校長か、教育委員会へ伝えて欲しい」なんて、ホントのことを言いたくなってしまう。まあそれも何なので、何とか生徒会担当で引き取るが、他の教員集団の支援が得られない。

 生徒会活動がもう意味を持たなくなって長いので、教師の側も「生徒会を通して生徒の自治を育てる」などと言う取り組みを経験したことがない人ばかりになってしまったのである。生徒会の意見を聞くなどと言うと、生徒のわがままを容認していく危険性しか頭に浮かばないのである。どうせ教師に認められないと判っているんだったら、活動するだけ時間と労力のムダで、だから生徒会役員の成り手を見つけるのに苦労する時代である。高校では部活や受験勉強が大変な上、それらに関係ない生徒は「バイト」があるので、放課後に奉仕的に生徒会活動をする時間がない。高校に入った時点で、(有名大学合格とか就職とか)路線が大体決まってるので、それに向けた限られた時間と言うことで、生徒も「自治」を必要としないと思い込んでいる。推薦で大学へ行きたい人なんかが有利な点数稼ぎで生徒会をやるという風に思われているかもしれない。修学旅行も文化祭も「先生が決めてくれれば、それでいい」。それで学校が決めた範囲内で楽しんでいる。その範囲内で楽しめない生徒は、校外でバイトして自分のお金でコンサートに行ったりする。

 中学はまた少し違うと思うけど、他の目を気にする世代だから、生徒会活動は難しい。でも僕の経験だと、生徒会役員を見つけるのに苦労する学年は他の問題でも大変。うまく教師と生徒の相互関係が出来ている学年では、生徒会役員にどんどん立候補してくれる。いまどき定数以上が立候補して選挙で落とすしかなかった選挙も何回かあった。そういうこと(生徒会役員になりたい生徒が多くいるような生徒の状態)がいじめや他の問題の情報が教師に集まってくる前提条件だと思う。行事などで生徒会、各委員会組織の力をもっと付けていくこと。それは大変面倒くさいのである。教師がどんどんやってしまう方がはるかに早い。「だったら先生やってよ」というのを押しとどめて、生徒がやらなきゃ学校ではないと押し切る。その面倒くさいプロセスに付き合えるだけの、「生徒と関わることを楽しめる教員」であるかどうか

 教師の側が意識して、生徒の中に生活リーダーを育成していく意識を持たないとリーダーは育たない。忙しいから簡便な方に教師は流れやすい。でも生徒の中に「学校を自分たちで良くしていく」意識がないと、結局は何もできない。いじめを深刻なものにしないためには、生徒の関心をもっと他のポジティブなものに向けていくことが必要だし、またここまで行ったら先生に相談しないと大変だという感覚を生徒が持っていることが大切である。そういう感覚は、行事を生徒会とともに作っていく中で養われていくものではないか。生徒のリーダーが育ってもすべての情報が集まるわけではない。気を付けていないと今度はその生徒が浮いてしまって情報が集まらなくなる。またそれよりも、「悪い情報」は教師にあげても、「いい情報」は自分たちの中で留めるということも多い。点数稼ぎみたいな「いい話」はあえて教師には秘密にするのである。でも、そうなって初めて「自治」が少しは根付いたと言えるのではないか。卒業して数年してから、あのときこんなことがあったんですよ、などと聞くわけである。

 「リーダー育成」というのは「エリート育成」とは違う。成績優秀な生徒を選抜して英語などをたたきこみ留学などカネもかけて、日本の次代のリーダーを育てるなどと言う発想が最近は多い。それじゃ実際の社会では働けない。大学を出て正社員になると、すぐにパート従業員のリーダーにさせられ、人間関係が作れないで辞めてしまう「エリート」は多いはずだ。エリートだけ選抜するのではなく、それぞれの学校で意識の高い生徒が皆を行事などで引っ張っていく、などという体験。人は「真のリーダー」になる前に、小集団の「サブリーダー」で鍛えられる体験を積む必要がある。その原体験として、行事や生徒会活動がある。今こそいじめ防止に生徒会の総量を結集する運動がいるのではないかと思う
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「減いじめ」は「学校の目標」ではない

2012年08月29日 00時05分07秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題が数年に一度大問題になると、報道などで「いじめは絶対にあってはならない」と大きなキャンペーンが始まり、「学校でいじめをなくすにはどうしたらいいのか」という議論が起きる。まるで「いじめ根絶」が学校の存在理由であるかのような議論が続く。そうして「学校はいじめに毅然とした対応をせよ」と言い出す人が出てきて、「いじめに対処できない今の教員が問題なのだ」となっていく。でも、いじめは学校が学校である以上根絶できないので、対応を求められる教員の疲弊がますますひどくなる。こういう(いじめ問題に限らないのだが)「負のスパイラル」が学校現場を覆いつくしてから、もうずいぶん経っている。

 そういう議論は教育に害をなすだけで、教育現場を荒廃させるだけである。どうしてかと言う理由はいろいろあるが、そのひとつは学校の対応を短期的なものにしてしまうことである。いじめが起こったら当然「いじめられている生徒」への配慮を第一に考えなければならないが、同時に「いじめている生徒」への支援も緊急に必要だし、「傍観している生徒」への指導も忘れてはならない。そしていじめ対応で疲弊する教員集団への支援も欠かせない。ところが、「いじめをなくすのが教員の責務」という発想だけで考えると、とりあえず今いじめられている生徒へのいじめを止めることにのみ関心が集中してしまう。それが緊急の課題であるのはもちろんだが、「学校の毅然とした対応」でいじめが止まったとしても、いじめる側のケアがなされていないと、しばらくすると標的を変えて次のいじめが始まってしまう。次々に指導を繰り返していくと、いじめ生徒は学校にいられず校外で問題を起こすようになる。「学校で問題を起こされるよりはいい」と考えて、後は警察まかせという発想になってしまう。

 学校だけで考えると、教師はそれでいいわけなんだけど、社会全体で考えると学校が問題生徒を見放すデメリットは大きい。「中学を出てなんとか高校に入り卒業したい」というのは、今の社会で要求される最低水準で、生徒の側でもその価値観を内面化している。中学、高校の段階で学校から排除されてしまうと、今の日本では非常に生きにくい。多くの若者がアウトロー集団で生きるようになると、犠牲も大きいし社会のコストも高い。学校が毅然と対応して問題生徒を校外に追い出すと、結局数年後、数十年後に犯罪の増加や社会保障費の増加につながる。今の日本では、ほとんど報われることもないのに多くの中学、高校教員が時間外労働で多くの若者がドロップアウトするのを最後の最後で救っている。このように「問題生徒への対応」こそが長期的には大変重要なものなのである。

 そういう問題もあるわけだが、僕が一番言いたいのは、そもそも「マイナスをなくす」が学校の目標であっていいのかということである。最近は「いじめをなくす」も学校の大きな取り組み目標になってきて、「思いやりの心を育てる月間」とかが設定されていることが多い。こうなると、もう「学校の目標」に近くなっている。しかし、「小さないじめ」が無くなることはないし、もしあったら教師が見回り、呼び出しを繰り返し、他の教育活動を差し置いても(教材研究や部活指導をほとんどせずに)、「生徒を見張る」ことにエネルギーを費やしている場合だろう。しかし、その結果いじめが全然報告されなくなっても、それが生徒を伸ばしたと言えるだろうか。「悪事」をなさないけれども、「善事」をなす知恵と力も育たないのでは、教育とは言えない

 新聞に載るようないじめ事件は極めてまれである。いじめだけでなく、学校では小事件はいろいろ起こるが、大事件はめったに起きない。ほとんどの教員は何十年も勤めて一度も経験しない。反対に授業や部活での活躍で新聞に載ることも普通の教員にはまずない。すごくいいことにも悪いことにも当たらず、教員生活を終えるというのが大方の教員である。そういう学校の日常のあり方の中では、「大きないじめ問題」がないのは当たり前であって、「遅刻を減らす」がクラス目標になるときはあるけど、「いじめをなくす」は当たり前すぎて学校の目標にはならない。テストの目標が「赤点を取らない」では情けない。それが現実的目標だという生徒もいるだろうけど、大方の生徒はもっと高い目標を立てなければいけない。

 同じように学校としては、いじめやその他の問題行動をなくすというのは当然どの教員の前提ではあるけれど、大きな目標とすることはもっと違うことになるはずである。「マイナスをなくす」ではなく、「プラスをつくる」という方向の目標があるはずである。それは「生徒一人ひとりにあった進路の実現」であるとか、「生徒皆が生き生きと取り組む学校行事の成功」であるとか、「生徒が主体的に学びあう授業の創造」とかなんとかである。言葉にしてしまえば、どういう目標をたてようが、「絵に描いたモチ」である。しかし、それに向けた具体的な生徒の取り組みを作っていくと、そこには大きな違いが表れてくると思う。「マイナスをなくす」を目標にすると、例えば「遅刻を減らす」で言えば、生徒の委員会を動かして遅刻回数比べをして、クラスごと、班ごとに競わせたりする。たまにやると生徒の意識向上になるのは間違いない。でも一年中そういう取り組みだけをしていると、目標にした問題行動自体は消えても、競争で競うために集団規制で消えただけで、生徒の本質は変わらない。自主性が育たないから、他のところで別の問題行動が起こってしまう。

 それにそういう「マイナスなくせ運動」だけやってると、学校がつまらないものになってしまう。教師も生徒もつまらないなあと思いながら、「決まったことだから」と言い聞かせてみんなでガマンする。そういう学校を作ってしまうことになる。学校の日常、授業や日々の生活は楽しいことだけではない。それは間違いないんだけど(集団生活はガマンを強いられる場面があるし、授業は難しく、あるいはやさしすぎ、またはまったく関心が持てない内容の場合も必ずあって、楽しいとは思えない場合が多い。)でも、だからこそ、日常を抜け出す学校行事、特に宿泊行事なんかは楽しいものである。いや、それこそ面倒なことがいっぱいで大変とも言えるけど、学年皆で泊まりに行くと言うことだけでワクワク感があるものだ。(全員ではなく、行事こそ辛いという問題を抱えた生徒もいることは確かだけど。)

 教師は本当はそういう「ワクワク感」を様々な行事をとおして作っていくのが仕事ではないのか。問題行動をなくすということだけを考えるのではなく、生徒とともに「何か充実したもの」を作り出していく。子どもの自主性を伸ばしながら、共に行事や部活動を作っていく。その結果(かどうか誰にもわからないんだけど)、リーダーが育っていって、他の問題行動も減っていく。そして行事などの成功を見て、生徒が自分の学年、学校に誇りを持っていく。その「生徒内世論」がいじめ、仲間はずれなどの行動を内面から抑えていく。そういう「正のスパイラル」を作り出すというのが本当の「学校目標」なのではないか

 今のいじめ(だけでなく)に見られる、教員や生徒に多くの負担を強いる形で「マイナス行動を学校からなくせ」キャンペーンだけでは、学校がますますつまらなくなる。教師がいつも「これはいじめではないか」という目で生徒を疑うようなピリピリした学校になっては、生徒は安心して暮らせない。いられなくなってしまう生徒も出てくる。生徒だけでなく、教員も居づらくなり病気休職が増えていく。教師はホンネが言えなくなり、「今の学校が楽しいとは思えない」という気持ちになり、どんどん転勤していく。そうなってはいけない。

 卒業式を迎えて、この学年でやった修学旅行は楽しかったね、文化祭のクラスの出し物面白かったよね、運動会も合唱コンクールもみんなの力でうまく行ったねと言えるかどうか。生徒をそういう気持ちで送り出し、教員の飲み会では「今年の生徒は楽しかったね」と言える。「そういえば、あんまりひどいいじめ事件もなかったしね」となる。「まあ、小さないじめはあったし、タバコや万引きもあったけどね」。「でも、生徒にリーダーがいたからか、行事もうまく行ったし、大きな事件も起こらずに済んだ。良かった、良かった」と美味しく飲み交わす。そういうのが、あえて言えば「理想」であって、なんで大事件がなかったかは誰にも判らないけど、行事や進路活動は大体うまくいき、生徒も感謝して卒業していった…となるのがいいと思う。

 「いじめをなくす」は「目標」ではなくて、生徒を育てた「結果」だと思うのである。生徒はいじめはよくないと思っているのが圧倒的に多数であるけど、その気持ちを力にできていない。その生徒の力を、行事などで育てていくことで引き出していく。結果、生徒の思いが学年作りの力になっていく。これが本来の学校の目指すものではないかと思う。ここで次に考えるべきことがある。「リーダー育成」「行事の作り方」「学年団の団結」である。このあとはそういう「各論」を書いてみたい。 
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