昨日見た映画の話。ものすごく傑作ということでもなく、スルーしてもいいんだけど、まあ書いておこうかなという点がある。今や「追悼映画専門館」とでも言うべき、池袋の新文芸坐だが、山田五十鈴を追悼し、堀川弘通監督を追悼し、今は三回忌特集で「小林桂樹と池部良」。その後に大滝秀治、生誕80年のフランソワ・トリュフォーと続いていく。その小林桂樹特集で、1971年東宝作品。石田勝心監督作品「父ちゃんのポーが聞こえる」。公開当時に佳作と評価され、僕もいつか見てみたいけど、難病ものだしなあと思っていた。その「いつか」が41年ぶりに訪れた。
一言でいえば「難病映画」になるが、同時に「鉄道映画」でもある。難病映画としてはかなり知られているが、案外鉄道映画として知られていないので、そのことをまず書きたい。父ちゃんである小林桂樹は、北陸の蒸気機関車の運転手である。コンビを組む釜焚き(石炭をくべる仕事)は藤岡琢也で、両者とも名演。富山県高岡の話とされているが、撮影は七尾線の七尾駅と言うことだ。そのことは「映画:「父ちゃんのポーが聞える」と、 昭和48年9月の頃の七尾線」という「ぼんやりした放浪者」というブログに学んだ。映画に出てくる機関車などの情報が詳しい。日本国有鉄道の協力で出来ていて、蒸気機関車だけでなく、鉄道員の暮らしがリアルに描かれている。
小林桂樹の父は、妻を亡くして男手で2人の娘を育てている。上の娘が嫁ぐことになり、親子三人の旅を計画する。娘が太平洋が見たいということで、千葉に行って、今はつぶれた「行川(なめかわ)アイランド」のフラミンゴショーを見る。2001年に閉園した施設の貴重な映像記録である。千葉の観光施設として、後に鴨川シーワールド、さらに東京ディズニーランドが開園し、だんだん斜陽化していった。
(行川アイランドのフラミンゴショー)
姉が嫁ぎ、父は再婚し、新しい家庭になった頃から、次女則子(吉沢京子が懐かしい)の身体に異変が現れる。立っていられずよく転ぶのである。不注意ではなく、明らかに片足にマヒがあるらしい。やがて中学で授業を受けるのも大変になり、病院内の学級(こまどり学級)に移る。そこの先生が吉行和子で、僕は彼女のファンだからうれしい。病院でも長くなるが、なかなか診断もはっきりしないまま病状は重くなってくる。その間、絵を教えに来てくれるボランティアの青年(佐々木勝彦)と親しくなり、初潮も迎え、恋のような感情を持つ。青年たちの絵画展が大和高岡店で開かれ、車いすで見に行った後で、一緒に山の公園にドライブする。しかし、パン屋の彼は東京に修行に行き、面会にも来られなくなる。
その頃、則子の診断がはっきりする。現在の医学では治らない「ハンチントン病」(当時はハンチントン舞踏病と言われた)である。これはネットで検索すると、今も治らないが、遺伝子が特定されたという。遺伝病で治療法が今もない。極めて珍しい難病である。則子は山の中の療養所に移らざるをえず、父ちゃんもなかなか見舞いにも行けない。しかし、近くを汽車の運転で通るので、その時に汽笛をポーと鳴らすと約束する。このあたりの機関車と汽笛と病床の則子の描写が泣かせるわけである。そのあと、汽車が踏切に停まったトラックと衝突、父ちゃんは大怪我を追う。「ポー」は同僚に引き継がれ、鳴らされるのだが、そのあと則子は…。
則子は実在の人物で、松本則子が映画では杉本に変えられている。病床でつづった詩集が刊行され、その映画化。感動的で、特に小林桂樹が名演。こういう映画もあっていんだけど、僕は難病ものが苦手だ。大ヒットした「愛と死をみつめて」(1964)や「世界の中心で、愛を叫ぶ」(2001)、アメリカの「ある愛の詩」(1970、原題Love Story)などが有名。白血病が多いが、大体の病気は映画に出てくる。
苦手と言うのは、難病を克服して今は元気という展開がないからだ。亡くなって追悼出版が評判になり映画化される。「お涙ちょうだい」的な描き方だからというよりも、展開が判っていることが問題なのだ。それでは難病ものは「忠臣蔵」になってしまう。筋を楽しむことができず、あれよあれよと上映時間内に悲劇になっていくのを見てるのは辛い。
日本では戦争が終わって豊かになり、結核も治るようになり、いじめや犯罪はあるけれども、まあ生まれたら大体成人するのが当たり前になっている。戦前は乳幼児の死亡率が非常に高かったのが、今は子どもの死亡率が低い。だからこそ、若くして難病で不帰の人となる悲劇は、皆に大きな衝撃を与える。遺稿が残されていれば、けなげに治療に励み皆に感謝しながら、病気ゆえの感受性豊かな詩やエッセイを書いていることが多い。出版されると皆に感動を与える。自分の命も大切にして日々を一生懸命生きなければ…。平和な日本で最大のドラマは、家族の病気と死なのである。
中国映画「サンザシの樹の下で」(チャン・イーモウ監督)も「文革もの」と思わせて最後は難病ものになる。それを見ると、難病映画が受ける経済段階があることがわかる。東京五輪の年に「愛と死を見つめて」がヒットしたように、北京五輪が終わった中国で難病映画がつくられたことは興味深い。
もう一点、この「ポー」は、いくら田園地帯といえど全く人家がないわけでもないだろうから、「うるさいのではないか」。何しろ朝の5時50分である。危険を避ける意味ならともかく、このような「公私混同」で汽笛を鳴らしていいものなのか。今は何かにつけ「うるさい」という苦情を気にしないといけない時代だ。しかも労働者が勝手に行った行動で、今なら確実に「組合たたき」に使われるだろう。管理職の許可は取っていたのかと言う人が出てくるだろう。当時は誰もそう思わず、親の自然な情だから管理職を通さず同僚どうしで継いで行って、そのことを誰も疑わない。鉄道マンの美談と思われ、組合映画ではなく、国有鉄道協力の映画になるわけである。「いい時代だった」と改めて思う。(2019.11.20一部改稿)
一言でいえば「難病映画」になるが、同時に「鉄道映画」でもある。難病映画としてはかなり知られているが、案外鉄道映画として知られていないので、そのことをまず書きたい。父ちゃんである小林桂樹は、北陸の蒸気機関車の運転手である。コンビを組む釜焚き(石炭をくべる仕事)は藤岡琢也で、両者とも名演。富山県高岡の話とされているが、撮影は七尾線の七尾駅と言うことだ。そのことは「映画:「父ちゃんのポーが聞える」と、 昭和48年9月の頃の七尾線」という「ぼんやりした放浪者」というブログに学んだ。映画に出てくる機関車などの情報が詳しい。日本国有鉄道の協力で出来ていて、蒸気機関車だけでなく、鉄道員の暮らしがリアルに描かれている。
小林桂樹の父は、妻を亡くして男手で2人の娘を育てている。上の娘が嫁ぐことになり、親子三人の旅を計画する。娘が太平洋が見たいということで、千葉に行って、今はつぶれた「行川(なめかわ)アイランド」のフラミンゴショーを見る。2001年に閉園した施設の貴重な映像記録である。千葉の観光施設として、後に鴨川シーワールド、さらに東京ディズニーランドが開園し、だんだん斜陽化していった。
(行川アイランドのフラミンゴショー)
姉が嫁ぎ、父は再婚し、新しい家庭になった頃から、次女則子(吉沢京子が懐かしい)の身体に異変が現れる。立っていられずよく転ぶのである。不注意ではなく、明らかに片足にマヒがあるらしい。やがて中学で授業を受けるのも大変になり、病院内の学級(こまどり学級)に移る。そこの先生が吉行和子で、僕は彼女のファンだからうれしい。病院でも長くなるが、なかなか診断もはっきりしないまま病状は重くなってくる。その間、絵を教えに来てくれるボランティアの青年(佐々木勝彦)と親しくなり、初潮も迎え、恋のような感情を持つ。青年たちの絵画展が大和高岡店で開かれ、車いすで見に行った後で、一緒に山の公園にドライブする。しかし、パン屋の彼は東京に修行に行き、面会にも来られなくなる。
その頃、則子の診断がはっきりする。現在の医学では治らない「ハンチントン病」(当時はハンチントン舞踏病と言われた)である。これはネットで検索すると、今も治らないが、遺伝子が特定されたという。遺伝病で治療法が今もない。極めて珍しい難病である。則子は山の中の療養所に移らざるをえず、父ちゃんもなかなか見舞いにも行けない。しかし、近くを汽車の運転で通るので、その時に汽笛をポーと鳴らすと約束する。このあたりの機関車と汽笛と病床の則子の描写が泣かせるわけである。そのあと、汽車が踏切に停まったトラックと衝突、父ちゃんは大怪我を追う。「ポー」は同僚に引き継がれ、鳴らされるのだが、そのあと則子は…。
則子は実在の人物で、松本則子が映画では杉本に変えられている。病床でつづった詩集が刊行され、その映画化。感動的で、特に小林桂樹が名演。こういう映画もあっていんだけど、僕は難病ものが苦手だ。大ヒットした「愛と死をみつめて」(1964)や「世界の中心で、愛を叫ぶ」(2001)、アメリカの「ある愛の詩」(1970、原題Love Story)などが有名。白血病が多いが、大体の病気は映画に出てくる。
苦手と言うのは、難病を克服して今は元気という展開がないからだ。亡くなって追悼出版が評判になり映画化される。「お涙ちょうだい」的な描き方だからというよりも、展開が判っていることが問題なのだ。それでは難病ものは「忠臣蔵」になってしまう。筋を楽しむことができず、あれよあれよと上映時間内に悲劇になっていくのを見てるのは辛い。
日本では戦争が終わって豊かになり、結核も治るようになり、いじめや犯罪はあるけれども、まあ生まれたら大体成人するのが当たり前になっている。戦前は乳幼児の死亡率が非常に高かったのが、今は子どもの死亡率が低い。だからこそ、若くして難病で不帰の人となる悲劇は、皆に大きな衝撃を与える。遺稿が残されていれば、けなげに治療に励み皆に感謝しながら、病気ゆえの感受性豊かな詩やエッセイを書いていることが多い。出版されると皆に感動を与える。自分の命も大切にして日々を一生懸命生きなければ…。平和な日本で最大のドラマは、家族の病気と死なのである。
中国映画「サンザシの樹の下で」(チャン・イーモウ監督)も「文革もの」と思わせて最後は難病ものになる。それを見ると、難病映画が受ける経済段階があることがわかる。東京五輪の年に「愛と死を見つめて」がヒットしたように、北京五輪が終わった中国で難病映画がつくられたことは興味深い。
もう一点、この「ポー」は、いくら田園地帯といえど全く人家がないわけでもないだろうから、「うるさいのではないか」。何しろ朝の5時50分である。危険を避ける意味ならともかく、このような「公私混同」で汽笛を鳴らしていいものなのか。今は何かにつけ「うるさい」という苦情を気にしないといけない時代だ。しかも労働者が勝手に行った行動で、今なら確実に「組合たたき」に使われるだろう。管理職の許可は取っていたのかと言う人が出てくるだろう。当時は誰もそう思わず、親の自然な情だから管理職を通さず同僚どうしで継いで行って、そのことを誰も疑わない。鉄道マンの美談と思われ、組合映画ではなく、国有鉄道協力の映画になるわけである。「いい時代だった」と改めて思う。(2019.11.20一部改稿)