シネマヴェーラ渋谷の篠田正浩監督(1931~)特集上映で、篠田監督の初期作品をかなり見た。新しく篠田監督について思ったこともあるが、ここでは再見した傑作「心中天網島」について、大阪市の橋下徹市長の提起した文楽協会への補助金問題とも関連して書いておきたい。
「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)は、近松門左衛門が1720年に書いた人形浄瑠璃の傑作である。それを篠田正浩監督がATG1000万円映画として1969年に映画化した。実験的な作風、鋭い社会風刺、岩下志麻、中村吉右衛門の名演で傑作となった。1969年キネマ旬報ベストワン。岩下志麻が主演女優賞など、この年の映画賞で高く評価された。ATGは1960年代末に、当時でも低額の1000万円で映画製作に乗り出し、お金はないが自由を求める映画人が結集した。「心中天網島」はATG製作で初のベストワン作品となった。
画面からは、まず篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子が電話でしゃべる声が聞こえてくる。クレジットタイトルにかぶさっている。ここで早くも「実験的方法の作品」であることが示される。単なる過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。セットは簡素な遊郭の一室で、いとこの前衛書家篠田桃紅が書いた書が装飾に使われている。美術は粟津潔、音楽だけでなく脚本にも武満徹がクレジットされている。武満徹は篠田作品の多くで音楽を担当したが、この映画は中でも素晴らしい。この名前を見るだけで、60年代日本のすぐれた若い才能が結集して作られた作品の熱気が伝わる。篠田監督の最高傑作である。
紙屋の治兵衛が女房のおさんがありながら、紀伊國屋の遊女小春と馴染みになる。小春は治兵衛と心中約束をしているが、おさんから手紙を貰い身を引く決心をする。一方、小春をねらう恋敵・太兵衛は金の力にまかせて小春を我がものにしようとするが…。浮世の義理と金の重みに雁字がらめの人々の、意地と誤解がもつれにもつれ、世間体を考える人々の悪意に囲まれ、二人は悲劇に追い込まれていく。映画ならではの工夫として、小春とおさんを岩下志麻が一人二役で演じた。岩下志麻は実生活で篠田監督と夫婦であり、篠田映画のミューズを数多く演じたが、中でもこの二役は素晴らしい。治兵衛にとって小春とおさんが持つ意味、引き裂かれた心をまざまざと示す。小春が客として以上に持つ愛情、おさんの小春への義理立てがともに観客にストレートに伝わってくる。
この映画では画面に「黒子」が出てくる。文楽(人形浄瑠璃)では、人形を操る人形遣いが「黒子」として観客に見える。一方、顔を出して人形を操る人形遣いもいる。ここが世界の人形劇の中でも独特な点である。人間が顔を出すと物語に入り込めないという橋下市長の感想があった。映画は俳優が演じているし、場の転換の時間もいらないから、本来「黒子」がいる必要はない。しかし、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出す。
この演出にはどういう意味があるのだろうか。一つは文楽という古典劇のムードを出す演出があるだろう。人間が演じる「人形浄瑠璃」である。しかし、それだけではない。登場人物の周りには、もっと大きな「世界」があり、ひとりの人間はその世界で割り振られた「運命という名の物語」を誰かに操られて演じている。つまり「黒子」は「運命」や「歴史」の具象化として、象徴的に存在していると感じられる。
文楽を学生時代に見たときに「これほど人形が生きているように見えるのか」と思った記憶がある。人形遣いが見えるということも、むしろ自然な感じがした。(人形は誰かが操っているに決まってるんだから)。人形の演じる物語とその人形を操る人形遣いを同時に見るという構造は、自分の専門である日本近現代史を見ると、全く違和感がなかった。黒子は民衆の隠喩か、あるいは運命の悪意なのか。さて、ある時非常に疲れていた時に文楽を見に行った。その時は語りが眠気を誘い、ほとんど全部寝てしまった。だから忙しいときに見ると、また寝そうだと思ってその後長く見なかった。僕は橋下市長が見に行く必要はないと思う。忙しい市長が見ても、物語に入り込めないこともあるのは仕方ない。それは文楽の問題でも市長の問題でもない。
僕はそれより近松門左衛門原作の映画化作品を見たらどうかと思う。映画なら家で好きな時に見られるし、途中で中断してもいい。生身の人間が演じるから、現代的なテーマ性がはっきりする。名作の映画化だから、文楽や歌舞伎に負けない魅力がある。脚本がしっかりしているから、監督も演出に集中しやすい。幾つか有名な作品を挙げると、
1954 近松物語(溝口健二)
1957 女殺油地獄(堀川弘通) 1992(五社英雄) 2009(坂上忍)
1957 暴れん坊街道(内田吐夢)
1959 浪花の恋の物語(内田吐夢)
1958 夜の鼓(今井正)
1978 曽根崎心中(増村保造)
1986 鑓の権左(篠田正浩)
まだあるが、特に溝口「近松物語」、増村「曽根崎心中」などは、この篠田監督の「心中天網島」に勝るとも劣らない名作であり、心打たれる傑作だ。
これらの映画を見ると、近松門左衛門の偉大さがよく伝わる。人形で見ると、なんだか古風な物語で、義理人情に縛られた遊郭のお話に感じられるときもある。しかし、近松の神髄は、「愛と自由」であり、虐げられた女の解放である。痛烈な身分社会批判であり、金がすべての世の中への痛打である。身分と金と世間体に縛られ、自由に愛を貫き通せない人間の悲しみが全身に伝わってくる。「天下の台所」と言われた大坂の町人の自由を求める叫びである。
表面的には身分社会への批判はあまり出ていない。それを書いたら幕政批判になってしまう。だから「ぜいたくな町人が金に飽かせて女を我が物にしようと画策することへの批判」といった「ぜいたく町人批判」という当時でも許される範囲の物語になっている。しかし、金で縛られた女の苦悩、金さえあれば解決できるのに工面できない苦悩、そこには「貨幣」という形で表現された人間の苦しみが描かれている。金力という権力批判であり、それがまかり通る不自由な身分社会への批判である。全く他人ごとではない。カネで苦悩する今の世の中に通じる、今も滅びないテーマではないか。
近松門左衛門(1653~1725)は、シェークスピア(1564~1616)、モリエール(1622~1673)などより遅い生まれだが、やはり市民階級の勃興の中で国民的な劇作家として活躍した。このような劇作家を生み出したことは大阪の誇りである。しかし、時代とともに「古典」として大成してしまうと、「通しかわからない」ものになっていく。それは避けられないし、それを革新していくことも大切だが、もともとのできた当時の心を尊重することを忘れてはいけない。
僕が橋下市長に違和感を持つのもそこである。大坂町人の心意気が表現された文学をどうして粗末にするのか。文学も演劇も歴史の流れの中で「制度化」されていくが、もとは能も歌舞伎も被差別民衆の生み出した芸能である。そのエネルギーをどう現代に生かすか。問題提起は大事だが、金を掛けずには何事も成し遂げられない。日本は自国の市場がそれなりに大きいから、平気で市場にまかせろなどという。自国のマーケットが小さい韓国で韓流ドラマが世界に売れるのは何故か。関西圏は韓国と同じ程度の経済規模がある。世界をリードする文化が出ないはずがない。その時に歴史的な文化の記憶が一番大事になる。「世界無形文化遺産」の文楽は、その時に一番大切なものではないか。「文化的戦略」がない日本を象徴するような出来事は残念だ。
「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)は、近松門左衛門が1720年に書いた人形浄瑠璃の傑作である。それを篠田正浩監督がATG1000万円映画として1969年に映画化した。実験的な作風、鋭い社会風刺、岩下志麻、中村吉右衛門の名演で傑作となった。1969年キネマ旬報ベストワン。岩下志麻が主演女優賞など、この年の映画賞で高く評価された。ATGは1960年代末に、当時でも低額の1000万円で映画製作に乗り出し、お金はないが自由を求める映画人が結集した。「心中天網島」はATG製作で初のベストワン作品となった。
画面からは、まず篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子が電話でしゃべる声が聞こえてくる。クレジットタイトルにかぶさっている。ここで早くも「実験的方法の作品」であることが示される。単なる過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。セットは簡素な遊郭の一室で、いとこの前衛書家篠田桃紅が書いた書が装飾に使われている。美術は粟津潔、音楽だけでなく脚本にも武満徹がクレジットされている。武満徹は篠田作品の多くで音楽を担当したが、この映画は中でも素晴らしい。この名前を見るだけで、60年代日本のすぐれた若い才能が結集して作られた作品の熱気が伝わる。篠田監督の最高傑作である。
紙屋の治兵衛が女房のおさんがありながら、紀伊國屋の遊女小春と馴染みになる。小春は治兵衛と心中約束をしているが、おさんから手紙を貰い身を引く決心をする。一方、小春をねらう恋敵・太兵衛は金の力にまかせて小春を我がものにしようとするが…。浮世の義理と金の重みに雁字がらめの人々の、意地と誤解がもつれにもつれ、世間体を考える人々の悪意に囲まれ、二人は悲劇に追い込まれていく。映画ならではの工夫として、小春とおさんを岩下志麻が一人二役で演じた。岩下志麻は実生活で篠田監督と夫婦であり、篠田映画のミューズを数多く演じたが、中でもこの二役は素晴らしい。治兵衛にとって小春とおさんが持つ意味、引き裂かれた心をまざまざと示す。小春が客として以上に持つ愛情、おさんの小春への義理立てがともに観客にストレートに伝わってくる。
この映画では画面に「黒子」が出てくる。文楽(人形浄瑠璃)では、人形を操る人形遣いが「黒子」として観客に見える。一方、顔を出して人形を操る人形遣いもいる。ここが世界の人形劇の中でも独特な点である。人間が顔を出すと物語に入り込めないという橋下市長の感想があった。映画は俳優が演じているし、場の転換の時間もいらないから、本来「黒子」がいる必要はない。しかし、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出す。
この演出にはどういう意味があるのだろうか。一つは文楽という古典劇のムードを出す演出があるだろう。人間が演じる「人形浄瑠璃」である。しかし、それだけではない。登場人物の周りには、もっと大きな「世界」があり、ひとりの人間はその世界で割り振られた「運命という名の物語」を誰かに操られて演じている。つまり「黒子」は「運命」や「歴史」の具象化として、象徴的に存在していると感じられる。
文楽を学生時代に見たときに「これほど人形が生きているように見えるのか」と思った記憶がある。人形遣いが見えるということも、むしろ自然な感じがした。(人形は誰かが操っているに決まってるんだから)。人形の演じる物語とその人形を操る人形遣いを同時に見るという構造は、自分の専門である日本近現代史を見ると、全く違和感がなかった。黒子は民衆の隠喩か、あるいは運命の悪意なのか。さて、ある時非常に疲れていた時に文楽を見に行った。その時は語りが眠気を誘い、ほとんど全部寝てしまった。だから忙しいときに見ると、また寝そうだと思ってその後長く見なかった。僕は橋下市長が見に行く必要はないと思う。忙しい市長が見ても、物語に入り込めないこともあるのは仕方ない。それは文楽の問題でも市長の問題でもない。
僕はそれより近松門左衛門原作の映画化作品を見たらどうかと思う。映画なら家で好きな時に見られるし、途中で中断してもいい。生身の人間が演じるから、現代的なテーマ性がはっきりする。名作の映画化だから、文楽や歌舞伎に負けない魅力がある。脚本がしっかりしているから、監督も演出に集中しやすい。幾つか有名な作品を挙げると、
1954 近松物語(溝口健二)
1957 女殺油地獄(堀川弘通) 1992(五社英雄) 2009(坂上忍)
1957 暴れん坊街道(内田吐夢)
1959 浪花の恋の物語(内田吐夢)
1958 夜の鼓(今井正)
1978 曽根崎心中(増村保造)
1986 鑓の権左(篠田正浩)
まだあるが、特に溝口「近松物語」、増村「曽根崎心中」などは、この篠田監督の「心中天網島」に勝るとも劣らない名作であり、心打たれる傑作だ。
これらの映画を見ると、近松門左衛門の偉大さがよく伝わる。人形で見ると、なんだか古風な物語で、義理人情に縛られた遊郭のお話に感じられるときもある。しかし、近松の神髄は、「愛と自由」であり、虐げられた女の解放である。痛烈な身分社会批判であり、金がすべての世の中への痛打である。身分と金と世間体に縛られ、自由に愛を貫き通せない人間の悲しみが全身に伝わってくる。「天下の台所」と言われた大坂の町人の自由を求める叫びである。
表面的には身分社会への批判はあまり出ていない。それを書いたら幕政批判になってしまう。だから「ぜいたくな町人が金に飽かせて女を我が物にしようと画策することへの批判」といった「ぜいたく町人批判」という当時でも許される範囲の物語になっている。しかし、金で縛られた女の苦悩、金さえあれば解決できるのに工面できない苦悩、そこには「貨幣」という形で表現された人間の苦しみが描かれている。金力という権力批判であり、それがまかり通る不自由な身分社会への批判である。全く他人ごとではない。カネで苦悩する今の世の中に通じる、今も滅びないテーマではないか。
近松門左衛門(1653~1725)は、シェークスピア(1564~1616)、モリエール(1622~1673)などより遅い生まれだが、やはり市民階級の勃興の中で国民的な劇作家として活躍した。このような劇作家を生み出したことは大阪の誇りである。しかし、時代とともに「古典」として大成してしまうと、「通しかわからない」ものになっていく。それは避けられないし、それを革新していくことも大切だが、もともとのできた当時の心を尊重することを忘れてはいけない。
僕が橋下市長に違和感を持つのもそこである。大坂町人の心意気が表現された文学をどうして粗末にするのか。文学も演劇も歴史の流れの中で「制度化」されていくが、もとは能も歌舞伎も被差別民衆の生み出した芸能である。そのエネルギーをどう現代に生かすか。問題提起は大事だが、金を掛けずには何事も成し遂げられない。日本は自国の市場がそれなりに大きいから、平気で市場にまかせろなどという。自国のマーケットが小さい韓国で韓流ドラマが世界に売れるのは何故か。関西圏は韓国と同じ程度の経済規模がある。世界をリードする文化が出ないはずがない。その時に歴史的な文化の記憶が一番大事になる。「世界無形文化遺産」の文楽は、その時に一番大切なものではないか。「文化的戦略」がない日本を象徴するような出来事は残念だ。