一度書いておきたいと思っていた「大学設置」の問題。読書科の話を書いた流れで、大学の問題も書いておきたい。もともと田中真紀子文科相が、3つの大学の認可を認めなかったという問題から起こった話である。その話を聞いた時には、乱暴な話だなあと思い、早く認可されればいいと思ったけれども、田中真紀子という人のことだから自己正当化に努めて問題はこじれ、野田首相の任命責任が問われる展開になるのではないかと思っていた。案外早く文科相が翻意して早々に認可されたので、ゴタゴタせずに解散に踏み切れたということになる。(田中文科相におかれては、残り少ない任期の中で「朝鮮学校への授業料無償化適用」を決断して欲しいと思う。)
なんで乱暴な話だと思ったかというと、「教育政策は学年進行でなければならない」からである。「行政の継続性」という観点から問題だと言った人もいるが、そういうことを言いだしたら政権交代しても何も政策を変えられなくなる。できるかできないかは別にしても、普天間基地を国外に移転させたり、八ッ場ダム建設を凍結したりすることは、それ自体がやってはいけないということではない。だから「大学設置基準が問題だ」と言うのは構わない。(内容が適切かどうかは別。)だけど、今の高校3年生の中には、その大学が設置されると思い進学しようと考えていた生徒がいるわけである。教育の政策というのは、ある日突然全部変えてしまうということはできない。学習指導要領なんかでも、今の生徒が卒業し、新しい生徒が入って来たら、その新しい生徒から新要領が適用になるというように順々に変わっていく。これを「学年進行」というが、そういう風に変えていかないと、教育の問題では子供が困ることになるのだ。
ところで、案外田中文科相の問題提起は受けているらしい。岡田副首相なんかも「認可されたときには、建物が全部作られているというのはおかしいと思う」などと発言していた。アレレ、岡田さんでもそんなこと言うんだ。もちろん認可の時期をもっと早くすることはすぐにできるだろう。しかしそうなると、「文科省が正式に認可して、学生を募集してしまった」というのに、4月になっても校舎が出来上がらず、教員も決まってないということが起きるに決まっている。そんな不条理に比べれば、事前に協議しながら進めて、全部出来上がったかどうか確認して「正式認可」にする方がいいに決まってる。もちろん「2段階認可」というやり方もあるだろうが、現在だって事実上はそうなってるに違いない。一番の問題は、いつ学生の募集開始を正式に認めるかで、秋には推薦入試が始まるんだから、その頃までに校舎も作り終って、それを確認して正式に認可するというスケジュールになるしかない。誰がやっても、そういう時期の設定になってくるに違いないと思う。
そういう問題もあるが、「大学が多すぎる」という根本の問題はどう考えるべきか。僕もそれはじっくり考えるべき問題だと思う。印象論で、昔の大学生=エリートというような感覚で、エリート育成論にしてはいけないと思う。大学が多く、大学生の質が低下しているというなら、大学を減らして大学生を減らせばいいわけである。高校は9割以上が行っているわけだから、大学が減れば「高卒」が最終学歴になる若者が増える。高卒が増えると何かいいことがあるのか。今だって高卒の求人が厳しいんだから、就職口が急に増えるはずがない。大部分が「フリーター」になって、将来の見通しもなくなるに決まっている。というか、実際に大学を減らしたりすれば「専門学校」がその分増えることになるだろう。「質の低い大学生」であっても、高卒よりは勉強しているはずで、フリーターでいるよりも社会にとっては益になるだろうと誰でも判ると思うんだが。
もう一つ、別の問題がある。今年になって群馬県高崎市の創造学園大学というところが認可を取り消されるという事態が起こった。それを見ても大学は多すぎるという人がいるが、その議論を進めていくと、地方の大学からつぶさないといけなくなる。子どもの学力と親の経済力さえあれば、多くの人は東京や大阪、京都の大学に行きたいと思ってるだろう。医学部なんかは地方大学をねらう人もあるが、東大医学部に入れるんならそっちを選ぶだろう。東京の大学だっていっぱい出来過ぎて、不況で仕送りが大変な地方の学生が集まっていないという。しかし、それでも地方の大学より、大都市にあるというだけで恵まれている。その地域に一つしかないというような大学は、単なる高等教育機関ではない。若者の存在自体が町の活性化になり、文化活動の中心となる。そういう地方の大学を減らすのはおかしい。大学が多すぎる、減らせとなると、確実に地方にしわ寄せがいくのではないか。
ところで、日本の大学は今およそ5割の進学率になっている。子どもの半分が大学へ行くのか。そう言えば多いという感覚も判らなくはない。しかし、高卒の就職者を求めるような産業構造はもう変わってしまったので、二度と戻って来ない。研究者をめざす大学ではなく、英語やIT技術を使いこなす「新しい国際感覚」を持った人材育成は、高校までではなかなか出来上がらない。昔の大学生を求める人は、それを大学院卒に求めるべきだ。僕の基本認識はそういうものである。
そこから考えて行くと、世界の先進諸国を見ても、日本の大学進学率はもっと高くするべきだ。23日付朝日新聞で鈴木寛参院議員が挙げているデータを見れば、米国70%、韓国71%、オーストラリア91%、フィンランド69%、スウェーデン69%などとなっている。韓国にこれだけ差がついているのは何故か、誰か解説して欲しい。しかし、今すぐ日本でこれだけの大学進学を進めるのは無理だ。高校までで「勉強はもういい」と思う生徒がかなりいる。高校までの勉強を変えていく必要がある。と同時に、「勉強したことが生きる社会」「不勉強で発言することが認められない社会」にしないといけない。石原前都知事を初め、あれだけ基本資料集も出ているのに「南京大虐殺はなかった」などと不勉強な発言をしても社会的に生き残ってしまう社会では、誰もマジメに勉強する気にならないだろう。
それと経済の問題。経済力の問題で大学へ行かない選択をした人がたくさんいる。今の日本の大学教育の最大の問題は学費が高すぎるということだ。これも諸外国と比べて欲しい。国が前面に出て、すべての奨学金は無利子にするべきだ。まずやるべきことは、大学減らしではなく、高校に続いて、大学生の学びへの支援を厚くすること。
ということで、僕の考え方は正反対。大学が多すぎる、大学生の質が低いなどという経済人は、まず自社で高卒の求人を大胆に大量採用するべきだ。そういうことをしないで、大学生の質などという「他人に責任転嫁」をするような経済人がいるところでは、企業も停滞するはずである。
なんで乱暴な話だと思ったかというと、「教育政策は学年進行でなければならない」からである。「行政の継続性」という観点から問題だと言った人もいるが、そういうことを言いだしたら政権交代しても何も政策を変えられなくなる。できるかできないかは別にしても、普天間基地を国外に移転させたり、八ッ場ダム建設を凍結したりすることは、それ自体がやってはいけないということではない。だから「大学設置基準が問題だ」と言うのは構わない。(内容が適切かどうかは別。)だけど、今の高校3年生の中には、その大学が設置されると思い進学しようと考えていた生徒がいるわけである。教育の政策というのは、ある日突然全部変えてしまうということはできない。学習指導要領なんかでも、今の生徒が卒業し、新しい生徒が入って来たら、その新しい生徒から新要領が適用になるというように順々に変わっていく。これを「学年進行」というが、そういう風に変えていかないと、教育の問題では子供が困ることになるのだ。
ところで、案外田中文科相の問題提起は受けているらしい。岡田副首相なんかも「認可されたときには、建物が全部作られているというのはおかしいと思う」などと発言していた。アレレ、岡田さんでもそんなこと言うんだ。もちろん認可の時期をもっと早くすることはすぐにできるだろう。しかしそうなると、「文科省が正式に認可して、学生を募集してしまった」というのに、4月になっても校舎が出来上がらず、教員も決まってないということが起きるに決まっている。そんな不条理に比べれば、事前に協議しながら進めて、全部出来上がったかどうか確認して「正式認可」にする方がいいに決まってる。もちろん「2段階認可」というやり方もあるだろうが、現在だって事実上はそうなってるに違いない。一番の問題は、いつ学生の募集開始を正式に認めるかで、秋には推薦入試が始まるんだから、その頃までに校舎も作り終って、それを確認して正式に認可するというスケジュールになるしかない。誰がやっても、そういう時期の設定になってくるに違いないと思う。
そういう問題もあるが、「大学が多すぎる」という根本の問題はどう考えるべきか。僕もそれはじっくり考えるべき問題だと思う。印象論で、昔の大学生=エリートというような感覚で、エリート育成論にしてはいけないと思う。大学が多く、大学生の質が低下しているというなら、大学を減らして大学生を減らせばいいわけである。高校は9割以上が行っているわけだから、大学が減れば「高卒」が最終学歴になる若者が増える。高卒が増えると何かいいことがあるのか。今だって高卒の求人が厳しいんだから、就職口が急に増えるはずがない。大部分が「フリーター」になって、将来の見通しもなくなるに決まっている。というか、実際に大学を減らしたりすれば「専門学校」がその分増えることになるだろう。「質の低い大学生」であっても、高卒よりは勉強しているはずで、フリーターでいるよりも社会にとっては益になるだろうと誰でも判ると思うんだが。
もう一つ、別の問題がある。今年になって群馬県高崎市の創造学園大学というところが認可を取り消されるという事態が起こった。それを見ても大学は多すぎるという人がいるが、その議論を進めていくと、地方の大学からつぶさないといけなくなる。子どもの学力と親の経済力さえあれば、多くの人は東京や大阪、京都の大学に行きたいと思ってるだろう。医学部なんかは地方大学をねらう人もあるが、東大医学部に入れるんならそっちを選ぶだろう。東京の大学だっていっぱい出来過ぎて、不況で仕送りが大変な地方の学生が集まっていないという。しかし、それでも地方の大学より、大都市にあるというだけで恵まれている。その地域に一つしかないというような大学は、単なる高等教育機関ではない。若者の存在自体が町の活性化になり、文化活動の中心となる。そういう地方の大学を減らすのはおかしい。大学が多すぎる、減らせとなると、確実に地方にしわ寄せがいくのではないか。
ところで、日本の大学は今およそ5割の進学率になっている。子どもの半分が大学へ行くのか。そう言えば多いという感覚も判らなくはない。しかし、高卒の就職者を求めるような産業構造はもう変わってしまったので、二度と戻って来ない。研究者をめざす大学ではなく、英語やIT技術を使いこなす「新しい国際感覚」を持った人材育成は、高校までではなかなか出来上がらない。昔の大学生を求める人は、それを大学院卒に求めるべきだ。僕の基本認識はそういうものである。
そこから考えて行くと、世界の先進諸国を見ても、日本の大学進学率はもっと高くするべきだ。23日付朝日新聞で鈴木寛参院議員が挙げているデータを見れば、米国70%、韓国71%、オーストラリア91%、フィンランド69%、スウェーデン69%などとなっている。韓国にこれだけ差がついているのは何故か、誰か解説して欲しい。しかし、今すぐ日本でこれだけの大学進学を進めるのは無理だ。高校までで「勉強はもういい」と思う生徒がかなりいる。高校までの勉強を変えていく必要がある。と同時に、「勉強したことが生きる社会」「不勉強で発言することが認められない社会」にしないといけない。石原前都知事を初め、あれだけ基本資料集も出ているのに「南京大虐殺はなかった」などと不勉強な発言をしても社会的に生き残ってしまう社会では、誰もマジメに勉強する気にならないだろう。
それと経済の問題。経済力の問題で大学へ行かない選択をした人がたくさんいる。今の日本の大学教育の最大の問題は学費が高すぎるということだ。これも諸外国と比べて欲しい。国が前面に出て、すべての奨学金は無利子にするべきだ。まずやるべきことは、大学減らしではなく、高校に続いて、大学生の学びへの支援を厚くすること。
ということで、僕の考え方は正反対。大学が多すぎる、大学生の質が低いなどという経済人は、まず自社で高卒の求人を大胆に大量採用するべきだ。そういうことをしないで、大学生の質などという「他人に責任転嫁」をするような経済人がいるところでは、企業も停滞するはずである。