もう午前1時なんだけど、レイトショーで映画を見て帰って来て一段落したところ。そのレイトで見たイランのモフセン・マフバルバフ監督久しぶりの作品「庭師」(The Gardener、2012)を東京フィルメックス映画祭でやっている。もう一回上映があって、12月1日(土)10時40分、有楽町朝日ホール(マリオンの上)。
この映画を見たかったのは、これが「バハイ教」についての映画だからである。数年前に評判になったアーザル・ナフィーシー「テヘランでロリータを読む」(Azar Nafisi、READING LOLITA IN TEHERAN、2003)という自伝を読むと、あまりにも非道なバハイ教徒への弾圧の様子が記されていて、一読すると忘れることはできない。イスラーム体制下のイランで、思想、宗教の自由がないことはもちろんよく知っているが、バハイ教徒の場合、親が死んでも墓をつくることさえできない。宗教弾圧という域を超えて、ちょっと日本の感覚では信じがたい。
この「庭師」という映画は、イランの有名な監督であるモフセン・マフバルバフが長男とともに、イスラエルのハイファにあるバハイ教の世界本部を訪問したドキュメンタリー・タッチの映画である。しかし、作為と見られる場面もあり、親子で撮りあい議論が決裂し長男はエルサレムを撮りに行ってしまう。しかし、そういう彼らを撮っているカメラもあるのだから、演出的な部分だろうと思う。二人の違いは、親がバハイ教の平和の考えを評価するのに対し、子どもの方は宗教はすべて争いのもとになると主張することである。そんなこと言っていいのかな。冒頭で監督は信仰心がないことを告白しているし、イランで絶対認められないバハイ教を撮っている。しかも、仇敵のイスラエルに入国してハイファに行っている。勇気ある行為というのを超えて、イランに戻ることができるのか心配になる。
アッバス・キアロスタミやアミール・ナデリが日本で映画を作り、バフマン・ゴバディも今回上映されているトルコ・イラク映画を作っているように、もうイラン国内で映画を撮ることができないのかもしれない。それにしても大胆で、「反イスラム」行為と言われても弁明できないのではないかと心配してしまう。日本で見ている人はそこまでの危険な映画だと思わないかもしれない、穏やかな映画になっているけれど。
映画の内容は、映画祭の解説のサイトを見るのが早い。「19世紀半ばにイランで創始された宗教、バハイ教。世界平和を教義とし、他宗教への寛容といった特色を持つバハイ教は、イランでは布教を禁じられ、創始者バハオラがその生涯を終えたイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を構えている。モフセン・マフマルバフとその長男メイサムは、それぞれカメラを手にバハイ教の本部を訪れる。二人は世界各地から集まったバハイ教の信者たちにインタビューするのみならず、互いをカメラで撮りつつ、宗教について、また映画について、対話を重ねる。会話の中で次第に二人の世代的格差があらわになり、父に不満をぶつけたメイサムはひとりエルサレムへと向かう...。」
(ハイファのバハイ教本部)
とまあ、そういう映画だけど、なんで「庭師」というかと言えば、この本部は美しい庭園になっていて世界中から庭園の庭師が来ている。パプア・ニューギニア、ルワンダ、アメリカから(白人と台湾人の間に生まれた青年である)。そしてモフセンは庭師に、さっきの親子喧嘩を聞いたよと言われ、でも息子さんは善人だと言われる。なんで判るのかと聞くと、「花が歓迎してる」と言われる。花が人間を見分けて、歓迎するんだそうで、彼にはそれがわかる。モフセンはビックリして庭師につき従い、カメラを植物のように植えて水をやったりする。それで「庭師」なんだけど、その美しい平和な庭園は素晴らしい感じではあるが、人間が手を入れて作った庭園を世界のモデルみたいに言われるのもどうかなあ。花はそれぞれ平和に個々で咲きそろう、これが理想らしいけれど。
バハイ教はやはり一神教ではあって、イスラームにキリスト、ユダヤと言うだけではなく、諸宗教皆同じという考えで、シャカやゾロアスターも預言者として認めてるらしい。各宗教いいとこどりで、平和や平等、教育の普及、偏見の除去、科学と宗教の調和、貧富の格差の緩和、アルコールや麻薬の禁止などを教義としているということだ。この教義はまあいい感じなんだけど、それは近代の目で見て人権の考え方に反していない部分が多いということだ。それを理性で納得できるわけだけど、それなら「理性信仰」があればよく、バハイ教信者になる意味はあるのかという気もする。つまり、自分で考えた結果として平和や平等は大事だなと思うからいいわけで、神様に言われて信仰として守っていくというのは何か違うのではないか。
ここまでいいことをいっぱい言ってるんだったら、バハイ教だけあればいいような感じだけど、そこまで思ってしまえるんならバハイ教さえいらないということになるはずではないのか。神様は人間という不完全な生き物に、そんな合理的な信仰をのみ伝えたのだろうか。断食せよとか、死後に復活したとか、ムチャクチャを言うのが宗教というものだというところが大事なんではないか、などと思ったわけである。だからきっと全世界がバハイ教になったら、バハイ教が抑圧の道具にされるんではないか。そういう長男の考えに僕は近いかもしれない。
さすがにイラン国内の弾圧は出てこないけれど、バハイ教の世界本部という不思議な場所を見ることができるという意味で、とても興味深い映画。イラン映画というより、宗教、思想、倫理などに関心がある人向けだと思うけど、見た価値は十分あった。マフバルバフ監督は娘二人と妻も映画を作る映画一家だけど、大統領選以後映画がなかった。このバハイ教の平和の教えが広まっていれば、イランも核兵器を作らないなどとずいぶん「危険な発言」をいっぱいしてて、日本で見てる分には大賛成の中身なんだけど、ホント監督一家が心配。
この映画を見たかったのは、これが「バハイ教」についての映画だからである。数年前に評判になったアーザル・ナフィーシー「テヘランでロリータを読む」(Azar Nafisi、READING LOLITA IN TEHERAN、2003)という自伝を読むと、あまりにも非道なバハイ教徒への弾圧の様子が記されていて、一読すると忘れることはできない。イスラーム体制下のイランで、思想、宗教の自由がないことはもちろんよく知っているが、バハイ教徒の場合、親が死んでも墓をつくることさえできない。宗教弾圧という域を超えて、ちょっと日本の感覚では信じがたい。
この「庭師」という映画は、イランの有名な監督であるモフセン・マフバルバフが長男とともに、イスラエルのハイファにあるバハイ教の世界本部を訪問したドキュメンタリー・タッチの映画である。しかし、作為と見られる場面もあり、親子で撮りあい議論が決裂し長男はエルサレムを撮りに行ってしまう。しかし、そういう彼らを撮っているカメラもあるのだから、演出的な部分だろうと思う。二人の違いは、親がバハイ教の平和の考えを評価するのに対し、子どもの方は宗教はすべて争いのもとになると主張することである。そんなこと言っていいのかな。冒頭で監督は信仰心がないことを告白しているし、イランで絶対認められないバハイ教を撮っている。しかも、仇敵のイスラエルに入国してハイファに行っている。勇気ある行為というのを超えて、イランに戻ることができるのか心配になる。
アッバス・キアロスタミやアミール・ナデリが日本で映画を作り、バフマン・ゴバディも今回上映されているトルコ・イラク映画を作っているように、もうイラン国内で映画を撮ることができないのかもしれない。それにしても大胆で、「反イスラム」行為と言われても弁明できないのではないかと心配してしまう。日本で見ている人はそこまでの危険な映画だと思わないかもしれない、穏やかな映画になっているけれど。
映画の内容は、映画祭の解説のサイトを見るのが早い。「19世紀半ばにイランで創始された宗教、バハイ教。世界平和を教義とし、他宗教への寛容といった特色を持つバハイ教は、イランでは布教を禁じられ、創始者バハオラがその生涯を終えたイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を構えている。モフセン・マフマルバフとその長男メイサムは、それぞれカメラを手にバハイ教の本部を訪れる。二人は世界各地から集まったバハイ教の信者たちにインタビューするのみならず、互いをカメラで撮りつつ、宗教について、また映画について、対話を重ねる。会話の中で次第に二人の世代的格差があらわになり、父に不満をぶつけたメイサムはひとりエルサレムへと向かう...。」

とまあ、そういう映画だけど、なんで「庭師」というかと言えば、この本部は美しい庭園になっていて世界中から庭園の庭師が来ている。パプア・ニューギニア、ルワンダ、アメリカから(白人と台湾人の間に生まれた青年である)。そしてモフセンは庭師に、さっきの親子喧嘩を聞いたよと言われ、でも息子さんは善人だと言われる。なんで判るのかと聞くと、「花が歓迎してる」と言われる。花が人間を見分けて、歓迎するんだそうで、彼にはそれがわかる。モフセンはビックリして庭師につき従い、カメラを植物のように植えて水をやったりする。それで「庭師」なんだけど、その美しい平和な庭園は素晴らしい感じではあるが、人間が手を入れて作った庭園を世界のモデルみたいに言われるのもどうかなあ。花はそれぞれ平和に個々で咲きそろう、これが理想らしいけれど。
バハイ教はやはり一神教ではあって、イスラームにキリスト、ユダヤと言うだけではなく、諸宗教皆同じという考えで、シャカやゾロアスターも預言者として認めてるらしい。各宗教いいとこどりで、平和や平等、教育の普及、偏見の除去、科学と宗教の調和、貧富の格差の緩和、アルコールや麻薬の禁止などを教義としているということだ。この教義はまあいい感じなんだけど、それは近代の目で見て人権の考え方に反していない部分が多いということだ。それを理性で納得できるわけだけど、それなら「理性信仰」があればよく、バハイ教信者になる意味はあるのかという気もする。つまり、自分で考えた結果として平和や平等は大事だなと思うからいいわけで、神様に言われて信仰として守っていくというのは何か違うのではないか。
ここまでいいことをいっぱい言ってるんだったら、バハイ教だけあればいいような感じだけど、そこまで思ってしまえるんならバハイ教さえいらないということになるはずではないのか。神様は人間という不完全な生き物に、そんな合理的な信仰をのみ伝えたのだろうか。断食せよとか、死後に復活したとか、ムチャクチャを言うのが宗教というものだというところが大事なんではないか、などと思ったわけである。だからきっと全世界がバハイ教になったら、バハイ教が抑圧の道具にされるんではないか。そういう長男の考えに僕は近いかもしれない。
さすがにイラン国内の弾圧は出てこないけれど、バハイ教の世界本部という不思議な場所を見ることができるという意味で、とても興味深い映画。イラン映画というより、宗教、思想、倫理などに関心がある人向けだと思うけど、見た価値は十分あった。マフバルバフ監督は娘二人と妻も映画を作る映画一家だけど、大統領選以後映画がなかった。このバハイ教の平和の教えが広まっていれば、イランも核兵器を作らないなどとずいぶん「危険な発言」をいっぱいしてて、日本で見てる分には大賛成の中身なんだけど、ホント監督一家が心配。