尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大林宣彦監督の映画「花筐」

2018年01月05日 23時38分07秒 | 映画 (新作日本映画)
 大林宣彦監督の新作「花筐/HANAGATAMI」を見た。寒い一日だったけど、今日を逃すと見れないかもしれないと思った。一日に3回しか上映がなくて、なんと168分もある。近年の「この世の花 長岡花火物語」や「野のなななのか」も同じぐらい長い映画だった。合わせて戦争三部作とも位置付けられる。大林監督は1938年1月9日生まれだから、もうすぐちょうど80歳である。「花筐」は劇場映画第一作の「HOUSE」より前に脚本が出来ていたという。ガンにより余命宣告されながらも、執念で作り上げたような大林映画の集大成である。この映画をどう見るか。

 そもそも「花筐」とは作家檀一雄の1937年の短編小説である。「夕張胡亭塾景観」という小説が芥川賞候補になって、「花筐」も評判を呼んだ。しかし、1937年の日中戦争勃発で召集され、1940年まで軍役を務めた。最近文庫で再刊されたので読んでみたが、これだけじゃ短くて映画にならない。他の短編をいくつか合わせてシナリオにしている。小説では架空の町になってるが、生前に作家本人から佐賀県の唐津と言われていた。今回唐津市民の全面的協力を得て映画になった。

 この映画をどう見るかはけっこう難しいと思う。「尾道三部作」のような青春映画で有名になった大林監督だが、最近の2作品は各地の人々の協力を得ながら、シネマエッセイとも言えるような自由奔放な映像だった。それも戦争で亡くなった人々への鎮魂を目的とするような映像だった。大林監督の映画をずっとロードショーで見ていたのは20世紀のこと。もう最近は「なごり雪」も「22才の別れ」も見なかった。直近の2作品も最初は見なかったけど、評判を呼んでから見たのである。

 今回の「花筐」もその続きと言えるけど、青春映画の趣も戻っている。華麗なる映像美も懐かしい。魔術的な特撮や編集を思いっきり堪能できる。その映像にひたすら浸っていればいいとも言えるが、去りゆく青春への惜別若くして亡くなる人々への愛別離苦の思いが胸を撃つ。宣伝では反戦映画のようにうたっているが、それよりも青春映画であり、青春を圧殺するものへの満身の抗議という意味で時代の悲劇に向き合っている。痛ましいほどに心の傷を見つめている。

 ある大学予備校で三人の少年が知り合う。語り手である榊山俊彦(窪塚俊介)、鵜飼(満島真之介)、病弱の吉良(長塚圭史)である。これに道化役の阿蘇(柄本時生)もいる。映画の最初の出会いなどは原作通り。榊山の近くに親戚がいて、そこには従妹の江馬美那(矢作穂香=やはぎほのか)と義姉の圭子(常盤貴子)が住んでいる。美那は肺病を病み、義姉の圭子は夫が戦死したばかり。美那の友人であるあきね(山崎紘奈)は鵜飼の恋人、千歳(門脇麦)は吉良の親戚だった。彼らは屋外でピクニックをしたり、江間の家でパーティを開いたりして交友を深める。

 と言っても伝わらないだろう。原作にもある複雑な関係が、映画だと実際の俳優が演じて判りやすいとも言えるが、青春の移ろいゆく愛情と友情のもつれでけっこう複雑。結核と戦争による死の影が全編を覆い、愛と性のめざめを彩る。1937年の原作だと戦争体制を描くには不十分だが、映画では日米戦争開始頃までを描くので、時代の危機も深まっている。(ちょっと時間的な処理が判りにくい。)この後も男は戦地で、女は結核や空襲で何人も死んでゆく運命にあるのだろうなと感じさせる。

 そんな死へ向かう戦時下の青春を特撮など映像技術を駆使して描きたいというのが、この映画だろう。映像美や特撮の華麗なるテクニックに魅せられるだけで済まない、この映画の怖さがそこにある。バッハの無伴奏チェロ組曲第一番が流れ続けるのも、運命的な感動をもたらしている。俊彦と鵜飼が裸で馬に乗って海辺をゆくシーン、鵜飼が年上の圭子(赤いドレスが素晴らしい)と踊るシーン。千歳が病身の美那のヌード写真を撮るシーンなど、ずっと忘れられないような鮮烈なシーンが随所にある。唐津おくんち祭りが描かれるシーンも印象的。

 だけど、この映画を見て、これは何だろうとも思う。人はすべて去りゆくが、だからこそ若い人の人生を狂わせる戦争というものへの恐怖。単に平和を訴えるというに止まらない、戦争の足音が近づいているという恐怖の思いを感じるのである。と同時に、この映画はかつて作った福永武彦原作の「廃市」のような滅びゆくものへの憧れのようなものも感じる。「滅びの美」といったようなもの。濃厚な滅びへの指向もまた、映画の中の人々に流れている。その双方があって、複雑な映像世界になっている。
 (大林宣彦監督)
 なお、「花筐」の「」とは「かご」のことで、つまり花籠。だけど、世阿弥の能の題名でもある。ウィキペディアを見ると、皇位を継ぐ皇子が越前から都へ行くときに、最愛の女性に花筐を贈る。女は愛するあまり都まで皇子を追ってきて、紅葉狩りの時に近づこうとするが狂女とされ花筐を打ち落とされるといったストーリイだという。映画では常盤貴子がこの舞いを踊るシーンがあるが、狂女のイメージが背後に隠されていたのかと思い至る。

 ところで東京では現在は有楽町スバル座でのみ上映されている。日本初のロードショー映画館で、僕は1970年に「イージーライダー」が大ヒットして半年ぐらいやっていた時から行っている。今どきロードショー映画館で、全自由席、ネット販売無しという珍しい劇場である。椅子はよくなってるけど、映画館そのものは昔通りなんじゃないか。それはいいんだけど、前の方左右にある避難誘導灯がついたままなのは何とかならないだろうか。天井の照明が少しついてるのは我慢できるけど、避難誘導灯は普通消すと思うけど。
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「冒涜」の映画作家、ルイス・ブニュエル再見

2018年01月05日 21時12分18秒 |  〃 (世界の映画監督)
 渋谷のシアター・イメージフォーラムで、ルイス・ブニュエル監督の作品を特集上映している。数年前に四方田犬彦の大著「ルイス・ブニュエル」が出て(未読)、そういえばブニュエルの映画をしばらく見てないなあと思ったものだ。ベルイマンやブレッソンの映画だっていくつか見られることを思えば、ブニュエルが見られないのは映画史的な抜け落ちというべきだ。
 (ルイス・ブニュエル監督)
 今回は1962年の「皆殺しの天使」(カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞)を中心に、1961年の「ビリディアナ」(カンヌ映画祭パルムドール)、1965年の「砂漠のシモン」(ヴェネツィア映画祭審査員特別賞)と60年代前半の傑作群を上映している。(「砂漠のシモン」は48分の中編なので、ダリと共同監督した伝説の短編「アンダルシアの犬」を併映している。)「ビリディアナ」は珍しく64年に日本公開されているが、「皆殺しの天使」は1981年になって公開された。「砂漠のシモン」はDVDは出てたが、初めての劇場公開だと思う。「砂漠のシモン」は初めてだが、他は前に見ている。
  (皆殺しの天使)
 連続で見るのは疲れそうだが、一番効率的だから頑張ることにした。「皆殺しの天使」はオペラにもなったということだけど、究極の不条理劇である。メキシコで製作されている。あるお屋敷でパーティが開かれるが、夜も更ければ皆帰るはずが何故か誰も帰らない。帰らないで朝まで飲んだりしているのは勝手だが、朝になっても帰らない。気が付いてみれば、帰れなくなっている。何か物理的に閉じ込められたわけでもないのに、誰も部屋を出て行けない。そんなバカなという映画である。

 そんな環境に置かれると、果たして人間はどうなってしまうのか。これは何かの寓意か。皆が自分たちで思い込んだ迷路に迷い込んでいて、脱出できない。「核兵器」とか「原子力発電所」などは、みんなで一緒にエイヤっと止めてしまえば良さそうなもんだけど、抜け出せない部屋に入り込んだような状態と言えるかも。それにしても、ここでブニュエルが描く「人間性への悪意」はどうだろう。こんな設定の映画を作ったこと自体が、いかにブニュエルがトンデモ爺さんだったかを示している。

 ルイス・ブニュエル(1900~1983)は、スペインに生まれて「アンダルシアの犬」「黄金時代」「糧なき土地」など常に物議を呼ぶ映画を作って、独裁下のスペインでは映画を撮れなくなる。のちにメキシコ国籍を取り、多くの映画を監督した。1950年製作で、日本でも高く評価された「忘れられた人々」以外は低予算の不思議映画が多い。初期作品から、ブニュエルはシュールレアリスムと言われるが、リアリズム映画もあれば、B級テイストの娯楽作も多い。80年代にメキシコ時代の映画がたくさん上映されたが「幻影は市電に乗って旅をする」や「昇天峠」などメチャクチャ面白かった。

 「ビリディアナ」はそんなブニュエルがスペインに帰って作ってカンヌで大賞を取った。これは反フランコ側からは非難されたが、結局この映画は反カトリックと言われて教会の圧力でスペインでは上映禁止になった。もうすぐ修道女になるビリディアナは、院長に言われて疎遠な叔父に最後に会いに行く。そこで思いがけぬ叔父の行動、運命の変転に見舞われ、彼女の人生は変わってしまうのだが…。その内容は書かないことにするが、この背徳、この悪意は今も色あせない。
 (ビリディアナ)
 もっとも現在のスペインには、ペドロ・アルモドバルという超ド級の冒涜監督がいるから、冒涜度は多少失せた気がする。でも、完成度の高さは並ではない。聖女が堕ちていく様を見つめるブニュエルの目は冷徹である。その後、彼はフランスでジャンヌ・モロー主演の「小間使いの日記」、カトリーヌ・ドヌーヴの「昼顔」「哀しみのトリスターナ」など冒涜映画の名作を作っていく。カトリーヌ・ドヌーヴのような美女を相手に、よくもここまで悪意ある映画を作れたものだ。でも、それが面白い。

 「砂漠のシモン」は製作が中途で中断したともいうが、聖人とあがめられ荒野で修行を続けるシモンに悪魔が試練を仕掛ける。このように、ブニュエルにはキリスト教(の教会組織)に対する反感や批判がよく描かれる。それもスペインの特徴かもしれないが、僕にはこの映画はあまり判らなかった。70年代に作って評価も高い「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」や「自由の幻想」などが素晴らしかった。映画は何でも描けるということを知った気がする。今回見直してみると、映画手法そのものは案外普通で、細かいカット割りなど昔風のきちんとした映画に見えてくる。テーマは飛んでいたけど、方法は案外異端と言えないのかもしれない。僕は昔から「ビリディアナ」が最大傑作レベルだと思っている。
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