大晦日の夜に、見るともなく紅白歌合戦を見ていた。テレビは大体BGMとしてつけてることが多いが、この時も映画「希望のかなた」の感想を書いていた。終わりの方になって、安室奈美恵が特別出演で「HERO」を歌ってた。これはNHKのリオ五輪テーマ曲だった。そして、トリでゆずが「栄光の架橋」を歌った。こっちはアテネ五輪のテーマ曲だった。NHKはもう完全に「ロード・トゥ・ピョンチャン」なんだなあと思った。多分それは「TOKYO」まで続くんだろう。
そして、それだけではない。スポーツの祭典としては、2018年はロシアでサッカーのワールドカップがある。2019年には日本でラグビーのワールドカップがある。そして今年は「明治150年」という官製祭典があるらしい。(100年ならともかく、150年をやるというのは「長州藩閥政権」だからだろう。)そして2019年には天皇の交代があることに決まった。まあ「象徴」が変わったとしても時代構造に関わりないはずだが、それでも「祝賀ムード」を高める人々がいっぱい出てくることは予想できる。
このように国家的な祭典が連続することはかつてあっただろうか。国家的なお祭りムードの中、日本はスゴイ、いい国だと自画自賛するようなテレビ番組がますます増えるだろう。日本選手がオリンピックでメダルを取る。それで大騒ぎする。五輪は世界最高レベルのスポーツ大会だから、そこで高い成績を残すのは立派なことだ。でも選手がすごいのであって、五輪メダルで国力を測れるわけじゃない。メダル数で考えるなら、中国やアメリカが一番素晴らしい国だということになっちゃう。
それでもやっぱり、「ニッポンはスゴイ」というムードが作られる。明治150年、アジアで初めて近代化に「成功」した「幸せな国家」であり、そういう国に住める国民も幸せだ。そういうムードが最高に高められるのは、おそらく天皇の代替わりの時ではないか。この人工的なユーフォリア(多幸感)の社会をどうやって正気で生き延びていけばいいんだろうか。
これらの祭りの連続の中に、順番がどこに入るかはまだ判らないけれど、安倍首相は「2020年を新しい憲法で迎えよう」という「憲法改正祭り」を入れようとしている。「ていねいに」とか言ってるけど、今までそういう時は必ず「途中で打ち切る」ことを意味していた。自民党内や公明党との協議を延々とやってたら、いつまでかかっても終わらない。ましてや、改憲反対野党は無視して進むに決まっている。どこかで押し切って無理押ししてくるのである。憲法改正だけは違うはずだ、無理して国民投票で否決されたらオシマイなんだから、ムチャはしないだろうなんて甘く考えることはできない。
例えば、憲法9条に自衛隊を明記するという。現にあるものを書き込むだけだなどと言えば、そうだそうだ、問題なんてないと言い始める人が必ず出てくる。現にあるものを書くだけなら、書かなくても同じはずだ。書くことで「現状以上」にできるからやるに決まってるんだけど、今までそんなことは言いそうにないと思ってた思わぬ人までが、いつの間にか「あっち側」に行っちゃってるのを今後たくさん見ることになる。幻滅して口をつぐむ人は、むしろそういう衝撃が大きいんだろうと思う。
国家的多幸感の影で、他の重要なニュースが隠されてしまう。「見たくないものは見えないメガネ」を掛けてる人が増えてくる。今もNHKのニュースなんか、相当おかしい。年末に死刑執行が伝えられ、その中には再審請求中の死刑囚が含まれていた。(前回の執行もそうだった。)新聞の夕刊は一面で伝えているが、7時のNHKニュースは一言も報じなかった。子どもも見ている食事中には知らせない方がいいニュースだと判断されたのだろうか。
選挙が終われば、さっそく「生活保護費削減」という方針になった。これは普通に考えて、ちょっとあり得ないほどの大幅削減である。生活保護世帯の状況によってさまざまなケースがあるようだが、当初は10%削減と言い、反発を受けて5%としたらしい。(多分最初に大きな数字を打ち出して、反対にも配慮しましたという数字が当初の1割減なんだと思う。)このニュースもテレビやネットのニュースじゃほとんど取り上げられない。一応新聞にはまだそれなりに出ているんだけど。
「複眼」で社会を見る。世の中にいいことばかりはない。表があれば裏もある。割りきれないものが多い。それをただ一方向からのみ見ていると気が付かないことが出てくる。そういう努力を皆がしていかないと、お祭りムードの中で気づいてみれば、戦時下だったということになりかねない。そう言えば、こういう国家的祝賀ムードの年として、1940年もあった。「紀元は2600年」で、東京五輪が開かれるはずだった。札幌冬季五輪も。それが1939年の第二次世界大戦勃発で中止になったのである。
そして、それだけではない。スポーツの祭典としては、2018年はロシアでサッカーのワールドカップがある。2019年には日本でラグビーのワールドカップがある。そして今年は「明治150年」という官製祭典があるらしい。(100年ならともかく、150年をやるというのは「長州藩閥政権」だからだろう。)そして2019年には天皇の交代があることに決まった。まあ「象徴」が変わったとしても時代構造に関わりないはずだが、それでも「祝賀ムード」を高める人々がいっぱい出てくることは予想できる。
このように国家的な祭典が連続することはかつてあっただろうか。国家的なお祭りムードの中、日本はスゴイ、いい国だと自画自賛するようなテレビ番組がますます増えるだろう。日本選手がオリンピックでメダルを取る。それで大騒ぎする。五輪は世界最高レベルのスポーツ大会だから、そこで高い成績を残すのは立派なことだ。でも選手がすごいのであって、五輪メダルで国力を測れるわけじゃない。メダル数で考えるなら、中国やアメリカが一番素晴らしい国だということになっちゃう。
それでもやっぱり、「ニッポンはスゴイ」というムードが作られる。明治150年、アジアで初めて近代化に「成功」した「幸せな国家」であり、そういう国に住める国民も幸せだ。そういうムードが最高に高められるのは、おそらく天皇の代替わりの時ではないか。この人工的なユーフォリア(多幸感)の社会をどうやって正気で生き延びていけばいいんだろうか。
これらの祭りの連続の中に、順番がどこに入るかはまだ判らないけれど、安倍首相は「2020年を新しい憲法で迎えよう」という「憲法改正祭り」を入れようとしている。「ていねいに」とか言ってるけど、今までそういう時は必ず「途中で打ち切る」ことを意味していた。自民党内や公明党との協議を延々とやってたら、いつまでかかっても終わらない。ましてや、改憲反対野党は無視して進むに決まっている。どこかで押し切って無理押ししてくるのである。憲法改正だけは違うはずだ、無理して国民投票で否決されたらオシマイなんだから、ムチャはしないだろうなんて甘く考えることはできない。
例えば、憲法9条に自衛隊を明記するという。現にあるものを書き込むだけだなどと言えば、そうだそうだ、問題なんてないと言い始める人が必ず出てくる。現にあるものを書くだけなら、書かなくても同じはずだ。書くことで「現状以上」にできるからやるに決まってるんだけど、今までそんなことは言いそうにないと思ってた思わぬ人までが、いつの間にか「あっち側」に行っちゃってるのを今後たくさん見ることになる。幻滅して口をつぐむ人は、むしろそういう衝撃が大きいんだろうと思う。
国家的多幸感の影で、他の重要なニュースが隠されてしまう。「見たくないものは見えないメガネ」を掛けてる人が増えてくる。今もNHKのニュースなんか、相当おかしい。年末に死刑執行が伝えられ、その中には再審請求中の死刑囚が含まれていた。(前回の執行もそうだった。)新聞の夕刊は一面で伝えているが、7時のNHKニュースは一言も報じなかった。子どもも見ている食事中には知らせない方がいいニュースだと判断されたのだろうか。
選挙が終われば、さっそく「生活保護費削減」という方針になった。これは普通に考えて、ちょっとあり得ないほどの大幅削減である。生活保護世帯の状況によってさまざまなケースがあるようだが、当初は10%削減と言い、反発を受けて5%としたらしい。(多分最初に大きな数字を打ち出して、反対にも配慮しましたという数字が当初の1割減なんだと思う。)このニュースもテレビやネットのニュースじゃほとんど取り上げられない。一応新聞にはまだそれなりに出ているんだけど。
「複眼」で社会を見る。世の中にいいことばかりはない。表があれば裏もある。割りきれないものが多い。それをただ一方向からのみ見ていると気が付かないことが出てくる。そういう努力を皆がしていかないと、お祭りムードの中で気づいてみれば、戦時下だったということになりかねない。そう言えば、こういう国家的祝賀ムードの年として、1940年もあった。「紀元は2600年」で、東京五輪が開かれるはずだった。札幌冬季五輪も。それが1939年の第二次世界大戦勃発で中止になったのである。