平凡社ライブラリーでカレル・チャペックが何冊か出ている。「いろいろな人たち」と「未来からの手紙」というのを持っていたので読んでみた。買ってたのも忘れてたけど、チャペックには昔から関心があったのだ。この2冊は「チャペック・エッセイ集」と題されているけど、新聞の連載されたコラムを集めたものだった。中身も身辺雑記というよりも、社会的・政治的な感想が多い。
チャペックを知ってる人は趣味の本や童話を読んだ場合が日本では多いだろう。僕も最初に読んだのは児童文学全集かなんかに入っていた童話だった。その後も「園芸家十二か月」や愛犬飼育記の「ダーシェンカ」などを知った。SF戯曲の「ロボット」もあったが、それも含めて現実の政治や社会を語った人ではない印象がある。でも、それは大間違いだった。チャペックは新生国家チェコスロヴァキアを代表する新聞人であり、小国の文化を守ろうと新聞に健筆をふるい続けた。
その一環として国際ペンクラブ活動もあり、イギリス大会に招かれた旅行記が「イギリスだより」となった。旅行記もまた自ら関わる新聞にイラスト入りで連載したものだ。自分の家で「金曜会」を主宰し、そこには哲人大統領と言われたマサリクも参加することがあった。国際的に高い知名度があったが、だんだん国内的には複雑な立場に追いやられる。あくまでも「平和」を希求し、国際連帯に希望を賭けるチャペックは、ナチスが台頭する時代に左右から攻撃されるようになって行った。
そんなチャペックの立場は今読んでも示唆に富む発言が多い。日本も出てくる。1923年の関東大震災に際しては「ゆれ動く世界」と題するコラムを書き、同情と連帯を表明している。「トーキョウを破壊し、ヨコハマを水浸しにし、フカガワとセンジュとヨコスカを火の海にし、アサクサを粉砕し、カンダとゴテンバとシタヤをめちゃくちゃにし、ハコネを崩して平らにし、エノシマを呑み込んでしまったこの震動…」と書かれている。遠く離れたチェコのプラハでも、浅草だの箱根だのの地名が語られていたのだ。
だが一番最後にある「世界の頭上の爆弾」(1938年)では、「朝新聞を読む時には、もうほとんど、次のような記事がまた載っているだろうと期待している。-どこそこの町(それはファシスト政権に抵抗するスペインのどこかの町か、日本軍に抵抗する中国のどこかの町である)は敵軍機の爆撃を受けた。その攻撃で八十人または三百人または一千人に民間人が死んだ。空襲はわずか数分続いただけである-。」北欧旅行の途中でスペイン内戦を知ったチャペックは、ヨーロッパの終わりを予感した。そしてナチスの攻勢は続き、チェコスロヴァキアという国家はまさに解体の危機に直面する。
そんな中でナチスドイツと日独防共協定を結んだ日本は、ドイツとともにチャペックが警戒する国となったことが判る。もともとチャペックは日本にも関心を抱き、浮世絵をいくつか買って飾っていたという。14の浮世絵が確認できると平凡社新書「カレル・チャペック」に出ている。国際連盟による平和維持に期待を寄せたチャペックとしては、日本にも関心があったのだろう。またチャペック兄弟はもともと美術に関心が深く、そんなことからも浮世絵をどこかで買い求めたのだと思う。
「未来からの手紙」(1930)は、SF風政治コラムで大変興味深い。国際連盟50年(1970年)を期して、チャペックが世界を旅行して近況を報告するという「未来からの手紙」なのである。当然1930年の現実を反映して語られている。第二次大戦があり、チャペックが予言した原子爆弾が実際に使われ、チェコスロヴァキアはソ連陣営に組み込まれているなどとは想像も出来なかっただろう。
イタリアではムッソリーニ総統一族が権力を相続し、アメリカではギャングが国政を握っている。そして日本では「相当にがっかりさせられた」。古いものもなく、真に新しいものもない。「ただ、すべてがちょっぴり新しく見えただけである。」実際には日本に来たことはないのだが、この辛らつな批評はずいぶん的を射ているような気がする。そして天皇制のあり方も書かれている。一種の象徴天皇制が予言されているように読めるが、同時に「微笑のうちに」有色人種の盟主として行動すると書かれている。しかし、日本と中国、それにトルコしかアジアの国は出てこない。
そういう意味ではヨーロッパ中心だし、その他端々にも女性への書き方など現在では問題があるようなことも見られる。完全に時代を超越することは誰にも不可能だけど、やはりチャペックも80年前に亡くなった人だからやむを得ない。そんなチャペックの言論活動の中心をなすのは、ナチスドイツへの批判とコミュニズムへの警戒である。当時のソ連のスターリン体制がやがてチェコを支配するとは思ってなかったようだが、「わたしはなぜコミュニストではないのか」(1924)を書いて、その「陰気くさい非人間性」を指摘している。チャペックは社会改良家で人道主義者だったけど、ドイツとロシアにはさまれたチェコスロヴァキアの文化と民族を守るという意味でのナショナリストだった。
そんなチャペックが書いた「言葉の批評」というコラム集が「未来からの手紙」の後半に入っている。政治や文化の批評でよく使われる言葉を取り上げて、辛らつかつユーモラスに批評していく。「われわれ」対「わたし」、「あまりにも」、「原則」など、言葉を大げさに扱ってごまかす手法を解き明かしている。例えば「視点」という言葉。もとは「光学上の発明」だけど、「視点の特殊な魅力は、そこに立って見るなら、はるかに容易にすべてのものを非難できるという点にある。」
「人類という視点に立てばナショナリズムを非難できるし、ナショナリズムの視点からは、社会主義を、社会主義の視点からは資産を、資産の視点からは理想を、理想の視点からは現実を等々、そしてまた順々に逆にして非難できる。」なんていうのは思わず笑ってしまう。「相対的」という言葉も取り上げられるが、チャペックは相対主義の意義も語っている。チャペックの現代性は、この相対主義に現れている。そこにイギリス文化やアメリカのプラグマティズムの影響を見ることもできる。
チャペックがその病弱な身体をおして文筆活動を続けたのは、まさに平和なくしてチェコという国家はありえないという「現実」があったからだろう。その文筆活動の苦労を癒すために、庭を作って花を育て、犬や猫を飼って心を慰めたんだろうが、それを面白おかしく書き残したから、チャペックは一見趣味の人のようにも見える。だけど、チャペックの本質は「平和の闘士」である。知人だったトーマス・マンは彼に亡命を勧めたが、チャペックはチェコを離れないと言った。ナチスの暴虐の前に、もう未来への希望がなくなってしまっていた。1938年のクリスマスに肺炎になった彼には、もう生きる気力がなかった。チャペックを読めば、ものを言える時代に国際連帯と平和を語ることの大切さを実感する。
チャペックを知ってる人は趣味の本や童話を読んだ場合が日本では多いだろう。僕も最初に読んだのは児童文学全集かなんかに入っていた童話だった。その後も「園芸家十二か月」や愛犬飼育記の「ダーシェンカ」などを知った。SF戯曲の「ロボット」もあったが、それも含めて現実の政治や社会を語った人ではない印象がある。でも、それは大間違いだった。チャペックは新生国家チェコスロヴァキアを代表する新聞人であり、小国の文化を守ろうと新聞に健筆をふるい続けた。
その一環として国際ペンクラブ活動もあり、イギリス大会に招かれた旅行記が「イギリスだより」となった。旅行記もまた自ら関わる新聞にイラスト入りで連載したものだ。自分の家で「金曜会」を主宰し、そこには哲人大統領と言われたマサリクも参加することがあった。国際的に高い知名度があったが、だんだん国内的には複雑な立場に追いやられる。あくまでも「平和」を希求し、国際連帯に希望を賭けるチャペックは、ナチスが台頭する時代に左右から攻撃されるようになって行った。
そんなチャペックの立場は今読んでも示唆に富む発言が多い。日本も出てくる。1923年の関東大震災に際しては「ゆれ動く世界」と題するコラムを書き、同情と連帯を表明している。「トーキョウを破壊し、ヨコハマを水浸しにし、フカガワとセンジュとヨコスカを火の海にし、アサクサを粉砕し、カンダとゴテンバとシタヤをめちゃくちゃにし、ハコネを崩して平らにし、エノシマを呑み込んでしまったこの震動…」と書かれている。遠く離れたチェコのプラハでも、浅草だの箱根だのの地名が語られていたのだ。
だが一番最後にある「世界の頭上の爆弾」(1938年)では、「朝新聞を読む時には、もうほとんど、次のような記事がまた載っているだろうと期待している。-どこそこの町(それはファシスト政権に抵抗するスペインのどこかの町か、日本軍に抵抗する中国のどこかの町である)は敵軍機の爆撃を受けた。その攻撃で八十人または三百人または一千人に民間人が死んだ。空襲はわずか数分続いただけである-。」北欧旅行の途中でスペイン内戦を知ったチャペックは、ヨーロッパの終わりを予感した。そしてナチスの攻勢は続き、チェコスロヴァキアという国家はまさに解体の危機に直面する。
そんな中でナチスドイツと日独防共協定を結んだ日本は、ドイツとともにチャペックが警戒する国となったことが判る。もともとチャペックは日本にも関心を抱き、浮世絵をいくつか買って飾っていたという。14の浮世絵が確認できると平凡社新書「カレル・チャペック」に出ている。国際連盟による平和維持に期待を寄せたチャペックとしては、日本にも関心があったのだろう。またチャペック兄弟はもともと美術に関心が深く、そんなことからも浮世絵をどこかで買い求めたのだと思う。
「未来からの手紙」(1930)は、SF風政治コラムで大変興味深い。国際連盟50年(1970年)を期して、チャペックが世界を旅行して近況を報告するという「未来からの手紙」なのである。当然1930年の現実を反映して語られている。第二次大戦があり、チャペックが予言した原子爆弾が実際に使われ、チェコスロヴァキアはソ連陣営に組み込まれているなどとは想像も出来なかっただろう。
イタリアではムッソリーニ総統一族が権力を相続し、アメリカではギャングが国政を握っている。そして日本では「相当にがっかりさせられた」。古いものもなく、真に新しいものもない。「ただ、すべてがちょっぴり新しく見えただけである。」実際には日本に来たことはないのだが、この辛らつな批評はずいぶん的を射ているような気がする。そして天皇制のあり方も書かれている。一種の象徴天皇制が予言されているように読めるが、同時に「微笑のうちに」有色人種の盟主として行動すると書かれている。しかし、日本と中国、それにトルコしかアジアの国は出てこない。
そういう意味ではヨーロッパ中心だし、その他端々にも女性への書き方など現在では問題があるようなことも見られる。完全に時代を超越することは誰にも不可能だけど、やはりチャペックも80年前に亡くなった人だからやむを得ない。そんなチャペックの言論活動の中心をなすのは、ナチスドイツへの批判とコミュニズムへの警戒である。当時のソ連のスターリン体制がやがてチェコを支配するとは思ってなかったようだが、「わたしはなぜコミュニストではないのか」(1924)を書いて、その「陰気くさい非人間性」を指摘している。チャペックは社会改良家で人道主義者だったけど、ドイツとロシアにはさまれたチェコスロヴァキアの文化と民族を守るという意味でのナショナリストだった。
そんなチャペックが書いた「言葉の批評」というコラム集が「未来からの手紙」の後半に入っている。政治や文化の批評でよく使われる言葉を取り上げて、辛らつかつユーモラスに批評していく。「われわれ」対「わたし」、「あまりにも」、「原則」など、言葉を大げさに扱ってごまかす手法を解き明かしている。例えば「視点」という言葉。もとは「光学上の発明」だけど、「視点の特殊な魅力は、そこに立って見るなら、はるかに容易にすべてのものを非難できるという点にある。」
「人類という視点に立てばナショナリズムを非難できるし、ナショナリズムの視点からは、社会主義を、社会主義の視点からは資産を、資産の視点からは理想を、理想の視点からは現実を等々、そしてまた順々に逆にして非難できる。」なんていうのは思わず笑ってしまう。「相対的」という言葉も取り上げられるが、チャペックは相対主義の意義も語っている。チャペックの現代性は、この相対主義に現れている。そこにイギリス文化やアメリカのプラグマティズムの影響を見ることもできる。
チャペックがその病弱な身体をおして文筆活動を続けたのは、まさに平和なくしてチェコという国家はありえないという「現実」があったからだろう。その文筆活動の苦労を癒すために、庭を作って花を育て、犬や猫を飼って心を慰めたんだろうが、それを面白おかしく書き残したから、チャペックは一見趣味の人のようにも見える。だけど、チャペックの本質は「平和の闘士」である。知人だったトーマス・マンは彼に亡命を勧めたが、チャペックはチェコを離れないと言った。ナチスの暴虐の前に、もう未来への希望がなくなってしまっていた。1938年のクリスマスに肺炎になった彼には、もう生きる気力がなかった。チャペックを読めば、ものを言える時代に国際連帯と平和を語ることの大切さを実感する。