尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

検察の特別抗告は禁止せよ-再審法の改正を①

2018年01月11日 22時20分56秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 「部活動論」も書きたいんだけど、その前に数回「冤罪・死刑問題」を書いておきたい。関心はずっとあるけど、自分が直接かかわっている個別支援事件が今はない。だから、何か動きがあった時もつい書かなくなる。でも今回は制度の改正を強く訴えたいと思ったのである。

 2017年夏に長く無実を訴えてきた東住吉事件で再審無罪判決が出た。12月18日に放送されたNHKのドキュメンタリ-番組「時間が止まった私 えん罪が奪った7352日」は、この事件の青木恵子さんの日々を描いている。番組を見て改めて「権力犯罪の恐ろしさ」を痛感した。東住吉事件は2012年3月7日に大阪地裁が再審を決定し、請求人二人の刑の執行停止を命じた。ところが執行停止は上級審で覆り、その後も拘束が続いた。検察側は大阪高裁に即時抗告し、再び再審開始の決定が出たのは2015年10月23日。この間、約3年半、1200日以上が経っている。「えん罪が奪った7352日」のうち、1200日以上が地裁の再審開始決定以後ではないか。執行停止を覆した責任は大きい。
 (無罪判決時の青木さん)
 無罪が決定した事件に関しては、不当に拘束した期間に対して「刑事補償金」が支払われる。(刑事補償法)無実の人間を逮捕・起訴するのは、もちろんそれ自体が不当極まりない国家犯罪だが、そのような不当な行為を行った警察官、検察官や間違った判決を下した裁判官の個人責任は問われない。それにしても、この東住吉事件などを見ると、地裁の再審開始決定以後の拘束分の刑事補償金ぐらいは、抗告して再審を引き延ばした検察の責任者に請求したくならないか。なんで税金で全国民が支払わなくてはいけないのだろうかと思ってしまうのである。

 昨年は「針の穴より小さい」と言われる再審請求がようやく認められるケースが何件か続いた。でも、それらの事件も東住吉事件と同じように、検察側が上級審に持ち込んで決着しないのである。これはおかしいだろう。鹿児島の大崎事件は、6月17日に鹿児島地裁が再審開始を決定し、それに対し検察側が福岡高裁に即時抗告。熊本で起こった松橋(まつばせ)事件は、11月29日に福岡高裁が再審を認める決定を行い、12月4日に検察側が最高裁に特別抗告。滋賀県で起こった湖東病院事件は、12月20日に大阪高裁が再審開始を決定、検察側は12月25日に最高裁に特別抗告。(ここでは事件内容は書かないが、いろいろなサイトですぐに調べられる。)
  (前=松橋事件、後=湖東病院事件)
 今挙げた大崎事件や松橋事件は、請求人が高齢のため一刻も早い再審開始が望まれる。松橋事件では捜査側の不正が明らかで、これ以上争うのはおかしい。本来「憲法違反」と「判例違反」の場合しか最高裁に訴えることはできない。それを検察側が最高裁に訴えてまで再審を妨害する。それは明らかにおかしいと思う。請求人の側からは、人権の問題だから最高裁に訴えることを否定できない。(最高裁は幅広い職権を持っていて、請求人の事実認定を見直す権限を持っている。)

 諸外国の中には、刑事裁判で無罪判決が出ても、検察側は上訴できないという国もあるという。刑事事件というのは、国家が税金を使って捜査し、起訴し、裁判を行うものである。それに対して、被告・弁護側は(場合によっては国選弁護人制度もあるが)、大方は当初は私費で弁護活動を行うしかない。裁判は検察側と弁護側の主張を聞いて、どちらがより妥当かを判断するものだと言っても、両者の力関係には大きな違いがある。お金の問題もあるが、一番大きいのは弁護士には「強制捜査権」がないことである。そんな中で無罪判決が出たのに、さらに国家の側が争い続けるというのはアンフェアだという考え方から検察側の上訴を禁止しているんだろう。

 そのように普通の刑事裁判であっても、検察側の上訴は一定の制限が必要だと思う。そして、その制限の必要性が再審の場合、もっと大きいと思う。いや、いったん確定した裁判の判決を揺るがしてはならない。そんなことをしては国家の危機を招くという人もいるかもしれない。しかし、無実の人間が罰せられるということの方が、もっと大きな「国家の危機」ではないか。確定するまでは一応「推定無罪」の考え方があるが、有罪判決が確定してしまったら、もう国家から犯罪者と決めつけられたことになる。すでに人権が簡単に回復しがたいぐらい侵害されている。だから、もし再審が必要だと判断された場合、国家の側がそれ以上争って再審を引き延ばしてはならない。
 
 再審とは、つまり裁判のやり直しだが、そのやり方には大きな問題がいくつかある。まずは再審請求の二重性である。いったん決着した裁判がそう簡単にやり直しになるのはおかしいと言えば、それはその通りだろう。だから、まず「再審請求」がある。やり直しをするべきか否か。それを厳しく問うわけである。そこで「明らかに前の裁判はおかしい」となった後で、ようやくやり直し裁判が始まる。つまり、再審請求が認められただけでは無罪にならない。再審開始が正式に決まってから、あらためてやり直し裁判が始まる。ところが、その再審裁判で検察側は再び有罪の論告をおこなったりする。

 検察側が最高裁まで争って、その結果「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」があると最高裁で判断された事件でも、もう一回再審裁判で検察が立証活動をできるのである。それも本来おかしい。再審を開くべきだと裁判所が判断して、その結果の再審なんだから。もう検察は有罪論告をしてはならないだろう。(検察側の鑑定でも、今までの有罪判決が維持できないとなった事件、足利事件、東電社員殺害事件、東住吉事件などでは、さすがに検察側も立証活動は放棄した。)

 このように、検察側は再審開始に徹底抵抗するのが普通である。それは「確定判決の権威を守る」ということかもしれないけど、「もし無実だったら」と考えた時、その一刻も早い人権の回復が必要だ。大崎、松橋、湖東病院事件などは、再審請求人は刑期を終えて出所していた。だが足利事件、東電社員殺害事件、東住吉事件などは無期懲役が確定して服役中だった。無実の罪で服役しているんだから、一刻も早い解決が必要だった。その意味でも、最低限、検察側が高裁の再審開始決定に対して最高裁に特別抗告することは禁止されるべきだ。ホントはもっと変えたいところだけど、とにかく最低限「事実誤認」を検察が最高裁に上訴するのはおかしい。
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