冤罪や死刑の問題を書いていて、そろそろ他の問題を書きたい気もするけれど、逆にまだまだ書き足りない気もする。延々と書き続けられるテーマだけど、今は本質的な問題には深入りしないことにする。だが、どうしても簡単に書いておきたいことがある。それは「冤罪の最大の責任者は裁判官だ」ということである。これをちゃんと判ってない人が多いように思う。
森友学園の前理事長、籠池氏夫妻が逮捕されたまま接見禁止になって長い。その不当性を年末に訴えている人がかなりいた。もちろん不当だけど、何もそういうことは籠池氏のケースばかりの問題ではない。日本では「微罪」でも逮捕されて、長いこと勾留される。事実上の「自白強要」で、裁判開始まで「証拠隠滅の恐れ」を理由に拘束され続けることがほとんどである。(本来は「逮捕」され「勾留」されるのは、「逃亡」または「証拠隠滅」のそれがある場合に限られる。)
社会運動に関心がある人なら大体知っていると思うけど、これを「人質司法」と呼んで批判されているが一向に改善されない。この状態を招いているのは、検察官にも大きな責任があるが、裁判官の責任が大きい。なぜなら、逮捕状の請求を認めるのも、勾留を認めるのも、保釈を認める(認めない)のもすべて裁判官だからだ。裁判官の人権意識が高ければ、今のような事態はない。
冤罪事件は警察の誤った見込み捜査から起ることが多い。だけど、最初に逮捕状を発行するのは裁判官である。検察官が起訴しなければ裁判にはならないけど、裁判官が有罪判決を下さなければ懲役刑や時には死刑などにはならない。警察も検察も大きな責任があるが、裁判官がしっかりしていれば冤罪は起きない。裁判官が「自白」(とされる警察官や検察官が作文した供述調書)にとらわれ事件の真相を見抜けないから、無実の人間を長年にわたって苦しめる。
僕が特に裁判官の責任を言うのは、裁判官は憲法で特別な身分保障をされているからである。特別な身分保障が憲法で定められているのは、国会議員と裁判官だけだ。主権者である国民に選ばれた国会議員はやはり一番上になるけど、裁判官はその国会議員による「弾劾」以外では辞めさせられない。そして「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされる。裁判官が良心に従って裁判を行うことは憲法上の義務である。
ところが現在の日本では「官僚裁判官」のようになってしまった。最高裁の意向に沿った判決を出さないと「出世」できない。社会のあらゆる問題が裁判所に持ち込まれる。しかし、行政権に遠慮するのか、内閣に都合の悪い判決をなかなか出さない。そういう風に長いこと指摘されている。これをどうすればいいのか、ここで全面的に書くのは荷が重い。憲法改正も必要になってくる。今は問題点だけ書いておくが、最高裁裁判官の任命方法、憲法裁判所の設置などは検討しないといけない。
ところで憲法では「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」(38条の3)と明確に書かれている。それなのになぜ「自白」をもとにした冤罪事件が絶えないのか。ここでごく最近「今市事件」(栃木女児殺害事件)の控訴審で起こった驚くべき新展開について書いておきたい。今市事件については、一審の有罪判決が出た時に「『今市事件』有罪判決への疑問」を書いている。
控訴審では弁護側からDNA型判定など新証拠が多数提出され、検察側との攻防が続いていた。裁判所も自白以外に殺害場所や日時の立証がされていないとして追加証拠の提出を求めていた。それに対して、検察側は殺害場所を従来の「遺体の発見現場の林道」から「栃木県か茨城県内とその周辺」に「訴因変更」するのだという。殺害時刻もこれまでの主張から13時間以上も拡大したという。ほとんど「自白」しかないような事件である。しかし、「栃木県か茨城県のどこかで殺した」と言って有罪にすることはできないだろう。「自白」は完全に崩れたと言える。検察側の主張がこれほど崩壊した事件も珍しいのではないか。この裁判の様子はもっと注目されるべきだ。
森友学園の前理事長、籠池氏夫妻が逮捕されたまま接見禁止になって長い。その不当性を年末に訴えている人がかなりいた。もちろん不当だけど、何もそういうことは籠池氏のケースばかりの問題ではない。日本では「微罪」でも逮捕されて、長いこと勾留される。事実上の「自白強要」で、裁判開始まで「証拠隠滅の恐れ」を理由に拘束され続けることがほとんどである。(本来は「逮捕」され「勾留」されるのは、「逃亡」または「証拠隠滅」のそれがある場合に限られる。)
社会運動に関心がある人なら大体知っていると思うけど、これを「人質司法」と呼んで批判されているが一向に改善されない。この状態を招いているのは、検察官にも大きな責任があるが、裁判官の責任が大きい。なぜなら、逮捕状の請求を認めるのも、勾留を認めるのも、保釈を認める(認めない)のもすべて裁判官だからだ。裁判官の人権意識が高ければ、今のような事態はない。
冤罪事件は警察の誤った見込み捜査から起ることが多い。だけど、最初に逮捕状を発行するのは裁判官である。検察官が起訴しなければ裁判にはならないけど、裁判官が有罪判決を下さなければ懲役刑や時には死刑などにはならない。警察も検察も大きな責任があるが、裁判官がしっかりしていれば冤罪は起きない。裁判官が「自白」(とされる警察官や検察官が作文した供述調書)にとらわれ事件の真相を見抜けないから、無実の人間を長年にわたって苦しめる。
僕が特に裁判官の責任を言うのは、裁判官は憲法で特別な身分保障をされているからである。特別な身分保障が憲法で定められているのは、国会議員と裁判官だけだ。主権者である国民に選ばれた国会議員はやはり一番上になるけど、裁判官はその国会議員による「弾劾」以外では辞めさせられない。そして「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされる。裁判官が良心に従って裁判を行うことは憲法上の義務である。
ところが現在の日本では「官僚裁判官」のようになってしまった。最高裁の意向に沿った判決を出さないと「出世」できない。社会のあらゆる問題が裁判所に持ち込まれる。しかし、行政権に遠慮するのか、内閣に都合の悪い判決をなかなか出さない。そういう風に長いこと指摘されている。これをどうすればいいのか、ここで全面的に書くのは荷が重い。憲法改正も必要になってくる。今は問題点だけ書いておくが、最高裁裁判官の任命方法、憲法裁判所の設置などは検討しないといけない。
ところで憲法では「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」(38条の3)と明確に書かれている。それなのになぜ「自白」をもとにした冤罪事件が絶えないのか。ここでごく最近「今市事件」(栃木女児殺害事件)の控訴審で起こった驚くべき新展開について書いておきたい。今市事件については、一審の有罪判決が出た時に「『今市事件』有罪判決への疑問」を書いている。
控訴審では弁護側からDNA型判定など新証拠が多数提出され、検察側との攻防が続いていた。裁判所も自白以外に殺害場所や日時の立証がされていないとして追加証拠の提出を求めていた。それに対して、検察側は殺害場所を従来の「遺体の発見現場の林道」から「栃木県か茨城県内とその周辺」に「訴因変更」するのだという。殺害時刻もこれまでの主張から13時間以上も拡大したという。ほとんど「自白」しかないような事件である。しかし、「栃木県か茨城県のどこかで殺した」と言って有罪にすることはできないだろう。「自白」は完全に崩れたと言える。検察側の主張がこれほど崩壊した事件も珍しいのではないか。この裁判の様子はもっと注目されるべきだ。