尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・津島恵子

2012年08月06日 21時48分52秒 | 追悼
 女優の津島恵子さんが、8月1日に死去。86歳
 自分でも「大女優ではない」「代表作がない」と川本三郎「君美わしく」で語っているけど、僕は戦後初期の日本映画の傑作に数々出演した津島恵子さんが昔から好きだった。松竹の清純派でデビューしたけど、マジメでしっかり者、顔だちも好きなタイプで、憧れる感じで見ていた。(ちなみに川本さんの本は、17人の女優にインタビューした本だが、今年だけで淡島千景、山田五十鈴、津島恵子と3人も亡くなっている。)

 新聞の訃報では「ひめゆりの塔」の教師役、「七人の侍」の村娘役を取り上げている。言われてみれば、それも津島恵子の忘れがたい作品ではあるだろうけれど、それらの映画を思い浮かべるときに最初に津島恵子を思い出す人は少ないだろう。小津安二郎監督「お茶漬けの味」も妻小暮実千代の姪役で、主演ではない。主演ではない作品ばかりで語られてしまう人。僕が何の映画を見ていいなと思ったのかも、実はよく覚えていない。大佛次郎原作の「帰郷」(大庭秀雄監督)や田宮虎彦原作の「足摺岬」(吉村公三郎監督)などではないかと思う。

 1926年生まれなので、10代がほぼ戦争にかぶさった世代。今は男子高校のみ残る自由ヶ丘学園(小学校と幼稚園が黒柳徹子が通ったトモエ学園となった)の卒業。ちなみにその学校があったため、自由ヶ丘という駅名になったという。そこでモダンダンスを学んだという。東京大空襲のあと飛騨高山に疎開していたが、戦後ダンスを見込まれて松竹大船撮影所に教えに行った。21歳の時で、そこで吉村監督にスカウトされ映画界入り。その後、いろいろ松竹を退社、頑張って他社作品にたくさん出て、戦後の名作を彩った。

 去年見た内田吐夢監督「たそがれ酒場」では不思議な空間の酒場で踊るストリッパー役。ストリップと言っても、裸にはならないおとなしいストリップだが、踊りはたっぷり見られる。千葉泰樹監督「鬼火」という中編映画でも、病気の夫を抱える妻の悲しい愛情の行く末がよく描かれている。デビューした時に21歳だから、少しすると当時の感覚で言えば清純派から、妻や年上の女役が多くなってしまう。その結果、名作の助演がたくさん残ったけれど、確かに「代表作」というと難しいかもしれない。でも、戦後映画に忘れがたい気品をもたらした女優として忘れられない。その後、60年代からはテレビ作品のたくさん出て、元気な中年、老年女性を演じ続けた。
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追悼・三木睦子さん

2012年08月04日 02時02分33秒 | 追悼
 もう午前1時を過ぎている。こんな時間に起きているのは、LIVEで女子サッカー、日本対ブラジル戦を見ているのである。日本選手団は女子の方が多い。体操みたいに男子の方が強い競技もあるけれど、バレーボール、ホッケーなどは女子しか出場権が取れなかったし、卓球、バドミントン、柔道など女子の話題ばかりである。最新の芥川賞、直木賞はどちらも女性だった。政界、財界を除き、文化・スポーツなどでは世界的に女性が活躍するのがむしろ普通のことになっていて、驚く人も今はいないだろう。

 そういう女性の活躍する時代を作ってきた人が何人もいる。そういう女性の先達者の一人が三木睦子さんである。三木武夫元首相夫人といつも紹介されるが、晩年になって平和運動家として多くの人に灯りをともす人となった。

 7月31日、大腸腫瘍(しゅよう)のため東京都内の病院で死去した。95歳だった。
 1940年に武夫氏と結婚。74年12月に三木政権が発足すると、首相夫人として政治活動を支えた。88年に元首相が死去してからも、従軍慰安婦の補償問題、護憲にかかわる運動などに積極的にかかわった。04年には作家の大江健三郎さんらとともに、憲法9条を守ろうと訴える「九条の会」を結成。アジア婦人友好会会長、国連婦人会会長なども務めた。 (朝日新聞)

 三木武夫氏が首相になる前から、睦子さんの名前は知っていた。三木睦子さん、旧姓森睦子さんは東京府立第一高等女学校の出身である。「府立第一高女」と言えば、日本の女子中等教育の始まりと言ってもいい学校である。ここが戦後の学制改革で男女共学の都立白鴎高校となった。僕の母校である。もっともこれもよく書くことだが、僕の時代は「学校群制度」で上野高校と白鴎高校に自動的に抽選で振り分けられるという制度だったので、今も昔もあんまり「母校意識」がないんだけど。

 その大先輩、三木睦子さんの連絡先に思い切って電話するという時が来るとは、僕は思ってもみなかった。2004年のこと、都教委がよりにもよって白鴎高校を中高一貫校にして、附属中を作るという。この中高一貫と言うのも納得できないのだが、それはともかく附属中の教科書は都教委が決めるという。都教委はその前の中学教科書採択で、「右翼的」と批判の強い扶桑社(「新しい歴史教科書をつくる会」が編集したもの)を養護学校(現・特別支援学校)に採用していた。このままでは、白鴎附属中に扶桑社が採択される可能性がきわめて強い

 どうしようかといろいろな集会に参加したりしたのだが、結局「卒業生が反対の声をあげる」という運動をするしかないと思い、それを不肖ながら自分が呼びかけるしかないと思うに至った。杉並区議の小松久子さんと協力して、そういう呼びかけを始めた時に、是非とも「第一高女時代の大先輩」として三木睦子さんの協力を得られれば大きな力になると思い、思い切って電話したわけである。そして、もう高齢なので直接の運動はできないながら、協力者として名前を連ねて頂けることになったのである。結局、都驚異は扶桑社を採択するのだが、そういう運動の協力者として三木さんは大きな意味を持つようになった。

 新しく中学教科書を採択するのは4年に一度だが、教科書の切り替え年は2006年からになっていて、2005年夏にはもう一回採択があった。その時は扶桑社の新しい教科書についてパンフレットを作ろうということになった。そして巻頭に三木さんの文章をお願いできないかと頼んだところ、寄せられたのが「息子たちが武器をかついで 海外にいくことのないように!」という文章である。以下に画像で掲載する。


 来たるべき総選挙では、「憲法9条を変える」と主張する勢力が3分の2を超える可能性があるだろう。今こそ三木睦子さんがもう少しお元気でいてくれて欲しかった。そんな感じもする。(女子サッカーは前半日本が1点を入れて後半戦に入ったところ)
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フェアプレイと戦略的思考

2012年08月04日 00時20分37秒 | 自分の話&日記
 相変わらずオリンピックを見ている。政局も風雲の兆しがあり、そろそろ政治や選挙の話も書きたいところなんだけど。今の状況を見てる限り、民主党政権がもう一回予算編成を行うのは難しそうな感じがする。今の国会で解散になるかは別にして。ところで、もう真夏の選挙はやめようよ。みんな大変だから。

 さて、いろんな競技があるものだと思う。日本では自転車やカヌー、フェンシングなんかは中継もほとんどないけど、ヨーロッパでは大人気競技なんでしょ。日本では毎回、柔道、体操、水泳から五輪が始まる。金メダルは10個以上取れると言っていたけど、これらの競技でもっと取ってるはずだったんだろう。まだレスリング男女があるけど、今2個では5個も厳しいのか。まあ銅メダルでもいいんだろうけど。現在参議院議員である谷亮子(略称「生活」に所属)は5回五輪に出場し、銀2回のあとシドニー、アテネを連覇し、前回北京では選考大会で負けながら実績で五輪に選ばれた。結局初めて決勝に進めず銅メダルだった。しかし、野球の代表で出場していた谷佳知は「僕の目には金色に見える」と言った。これは名言だなあと思った。長男出産後に出場して、5回連続メダル獲得という日本スポーツ史上の偉業を成し遂げたんだから。銅にも大健闘の銅もあれば本人には残念な銅もあるわけだろう。

 バドミントン女子で4組8人が失格になった問題が起こった。中国、韓国2、インドネシアのペアで、「無気力試合」という相撲みたいな話。リーグ戦突破は決めていたから、トーナメントの対戦を有利にするためわざと負ける試合をしたということらしい。中国ペアが勝つと決勝前に中国どうしで当たるから、それを避けたいというのが主な理由だと思う。韓国は試合中にも抗議し、審判が注意を与えたというが変わらなかったという。試合後に正式に抗議したところ、韓国2ペアも含めて失格になってしまった。韓国は再審を請求するという話である。

 最終的にはやむを得ないと思うけど、後味が悪い話である。個人競技(ダブルスも個人戦の一種)でリーグ戦をやれば、こういう問題も起こってくる。こういう仕組みを作った方が悪い。試合中に審判が失格処分にすることはできなかったのか。柔道で言う「指導」みたいなのが何回かあれば、その場で失格と言うルールなら、もっと納得できると思う。と同時にもっと本質的な問題もある。オリンピックで勝つというのは何なのだろうかという問題である。「参加することに意義がある」と言いつつ、現実は国家間のメダル数争いである。五輪に出る以上、メダリストになりたいし、それも金メダルが欲しい。それが当たり前だろう。今回の決定は「勝つために最善の努力をすること」というバドミントン連盟のルール違反ということらしいけど、ある意味では「彼女たちは勝つため(メダルを取るため)に最善の努力をした」とも言える。それを失格と言える人がいるんだろうか?

 でも最初に書いたように、録画を見る限り少なくとも中国ペアの失格は「やむを得ない」と思う。明らかにわざとサーブを失敗したりを繰り返している。「わざと負けている」のは明らかで、理由を付けるまでもなく、スポーツの試合ではあってはならないことだと見てれば思う。去年大相撲の八百長問題が明るみに出たが、個人競技では八百長がやりやすい。団体競技になる方が不正は難しいが、野球は投手の役割が大きいから、野球の八百長は投手を抱き込む場合がほとんどである。リーグ戦にする意味は個人競技ではほとんどないと思う。それよりトーナメントの「敗者復活」のルールを整備する方がいい。柔道の敗者復活もある程度勝ち進んだ場合に絞られてしまって、金メダリストと1回戦で当たった日本の中村美里は1回戦敗退のままになってしまった。決勝戦で当たってもおかしくない取り組みが、1回戦であっていいのか。

 一方、じゃあ日本女子サッカーの3試合目はどうなんだという人もいる。そういう意見はサッカーという競技への無理解だと思う。団体競技の場合、リーグ戦突破を決めていれば、最後の試合は主力を休ませて控え選手を起用することにして、引き分け狙いで行くのは「戦術として認められたこと」ではないかと思う。引き分けは「勝点1」を与えられるので、「勝ちの一種」である。「なでしこ」に佐々木監督が与えた指示は、「負けること」ではなく、「(引き分けと言う形の)勝ちに行くこと」である。「負けた場合は2位」という条件で、「わざとオウンゴールをする」というんだったら、これは間違いでペナルティが当然だろう。

 僕は、一生懸命、誠実にやりさえすれば、結果は二の次で「頑張りました」賞をあげるみたいな日本に強い考え方が嫌いである。日本人ももっと「戦略的思考」ができるようになって欲しいと思っている。誠実が嫌なのではなく、一生懸命しか売り物がないようなあり方が嫌いなのである。「誠実」は自分の思いに対して、自分で納得できるような形であればいいんだと思う。「マジメ主義」で感傷的な言葉を並べていると、やがて相手が納得しないのは相手が不誠実な人間だからだという決めつけにおちいりやすい。そういう押しつけ的な世界観がうっとうしいと思う。五輪で勝つことが目的なんだったら、そのために許されることは何でもやろうというのが正しい。「美しい体操」「美しい柔道」なんて言える人は、美しい方がいいに決まってるから、美しくやればいい。横綱は横綱相撲が求められるが、軽量力士は立ち合いで変化したり、足を飛ばしたりする方がいい

 これは僕はむしろ今の政治状況を思い浮かべて書いている。正しいことを主張してマジメにやればいいというあり方を通すと、分裂して選挙にのぞみ、大失敗をする。もうそれが目に見えるような気がする。まあ、そのことはまた。北島はメダルを取れず(個人競技の話で、メドレーリレーで取れそうな気がするが)、イチローはトレードされ8番を打ち、松井秀喜は自由契約である。時代はこうして回っていく。森義朗元首相は次の選挙に出ず引退するらしいが、政界でも国民が「自由契約」にしたい政治家はもっといるだろう。
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発達障害への無理解-この判決はおかしい

2012年08月02日 23時56分43秒 | 社会(世の中の出来事)
 7月30日に大阪地裁であった、ある殺人事件への判決。新聞の見出しでは、「求刑超す懲役20年 『発達障害 再犯の恐れ』」と報道されている。新聞では、「判決理由」が引用されているので、報道機関に配布された判決要旨に基づくものだと思うが、そこに書かれている論理はどう考えても納得できない感じである

 判決理由による事件のようすは以下の通り。(引用は東京新聞)
 被告(42)は約30年間引きこもりで、引きこもり生活から抜け出したいという願いが実現しないのは姉のせいだと勝手に思い込み、2011年7月25日、生活用品を届けに来た姉(当時46)の腹や腕を包丁で何度も刺し殺害した。姉に逆恨みを募らせた動機の形成に、先天的な広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響があったと認定した。

 ところが、量刑の判断にあたって、
 ①十分に反省していない
 ②親族が被告との同居を断り、社会内でアスペルガー症候群に対応できる受け皿が用意されていない
 の2点から、再犯の恐れがあると指摘し、
許される限り長く刑務所に収容し内省を深めさせることが社会秩序の維持にも資する」と量刑理由を説明した、とある。

 これはびっくり、驚くべき無理解と偏見に満ちた判決である。大体「アスペルガー」という言葉は最近は使われなくなっているようなのに、そういう表現をしていること自体がおかしい。(最近は「高機能広汎性発達障害」と言うことが多いのではないか。発達障害の専門家の証言などはなされているのだろうか。)発達障害は、精神障害や知的障害と違って認識力、判断力の不能、不足はないので、刑事責任能力は認められるし「減刑の要因」にもならない(ことが多いと思う。)でも、再犯可能性が高いということもないし、「増刑」になるいわれもないはずである

 社会の中に受け皿がないということは被告人の刑を長くする理由になるのか。これでは差別であり、いじめである。親族が同居を断るのは当然だろう。家族関係のようすはわからないけど、被告は今までも「やっかい者」扱いをされていたはずで、面倒を見てくれていた(らしい)姉を逆恨みして殺してしまった。姉に夫や子どもがいたとしたら、絶対に許す気持ちにはならないだろう。日本では殺人事件のほとんどが家族内で起こるわけだが、社会の無理解、福祉の不足は家族が一身に負わされてしまう。家族でケアできる限界を超えている場合、それを「家族が拒否」→「出来るだけ長く刑務所に入れる」という対応でいいのだろうか

 この判決が「発達障害への無理解」と思う一番の理由は「十分に反省していない」と断じていることである。「アスペルガー症候群」という障害は、まさに「うまく反省することができない」という点にある。少しでも発達障害の知識があれば、こういう判断はしないだろう。「反省」するためには、「自分」と「他人」で構成される社会を認識していることが前提になる。しかし、いわゆる「空気を読む」「行間を読む」ということができないのが、この発達障害である。だから姉の援助を逆恨みして捉えることも起こるし、その後自分の行為を「反省」してみせると「自分の刑が軽くなる」ということも判らない。そのことをもって、「再犯の可能性が高い」という判断はおかしい。

 僕はこういう判決が出る社会の無理解と偏見はおかしいと思うので、この判決への疑問を書いた。刑務所に入れて「内省を深めさせる」というのも疑問である。ただし、被告人自身にとっては、刑務所にいる方が暮らしやすいということも十分考えられる。刑務所は、世の中にある組織の中で、たぶん一番くらいに「空気を読む必要がないところ」と言っていいだろう。決められた秩序を守り、刑務官の指示通りに生活を送ればいい。知的能力が低いわけではないから、対人関係が少なくて済む刑務所は生きやすい場所になるのかもしれないと思う。

 しかし、それはそれとして、「世の中で生きにくさを抱えている人」を「再犯の恐れがあるから、刑務所に長く入れる」というのでは、この社会のキャパシティの狭さに唖然とする。ではどうすればいいのかはうまく書けないが、まずは「発達障害への理解を深める」試みが必要なのではないか。学校の教員なんかでも、きちんと研修を受けたことはあまりない人が多いと思う。学校ではLD(学習障害)やADHD(多動性障害)は判りやすいし知られているけど、「軽い自閉症」である「アスペルガー症候群」は「変な子」「言ってることが伝わらない子」というマイナス評価を付けられたまま、先天性の障害を持つ子としてのケアを受けてないことが多いと思う。

 ところで、この判決や報道は「発達障害への偏見」を生むおそれがある。発達障害の場合、ルールを認識していないからルール無視に見えることが多いが、「犯罪が多い」ということはない。この事件の場合、小学校から引きこもりと思われるし、家族間の犯罪なので、もう少し丁寧に事実を検証しないと、はっきりしたことを言えない部分もあるのではないか。
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いじめが根絶できない理由②

2012年08月01日 20時44分52秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 ちょっと間が空いてしまったけれど、「根絶できない理由」の続き。僕が書きたいのは「学校とはどういう場所か」という問題。「所詮、いじめはなくせない」なんていう「あきらめ論」を書きたいわけではない。もちろん人間の集まるところ、問題が全く起こらない場所を作れるわけがない。だからと言って、全ての問題で「根絶をめざす」と言ってはいけないわけではない。汚職やインサイダー取引なんかは、根絶をめざすべき問題だ。大人が、自分の利害で行う行為なんだから、根絶できないはずがない。(それでも人間は誘惑に弱いから、事件は起こり続けるが…。)

 社会には、教育に関する意見の相違を超えて、「学校は本来いじめがあってはならない場所」という発想が根強いと思う。僕はその発想が根本から間違ってると考える。「学校は本来いじめが多くなるはずの場所」であり、だからそれを前提に対策を立て実施し続けていく必要がある。
 
 大体、学校は未成熟な子どもをいっぱい集める場所なんだから、問題がいろいろ起こっても不思議ではない。子どもは経験が少なく、失うものも少ないのに、若さというエネルギーだけはあったりする。だから、過去の失敗体験を生かして自分を修正できずに、思い込みで暴走したり、ちょっとしたことで強い挫折感を覚えたりする。でも未熟だということは、反面では「変わる可能性を持っている」ということで、だから「反いじめ文化」を育てる教育が重要なのである。(実際、世の中で一番やっかいな「いじめ」は、権力をふるうことに慣れたまま年とって、もう凝り固まってしまった老人による嫌がらせではないか。)

 その「子どもの未熟性」という問題もあるが、僕が一番強調したいのは以下の二つの点である。一つは「学校は子どもを全員集める」という点である。義務教育の小中はもちろん、高校もほぼすべてに近い子どもが所属する。私立に行ったり特別支援学校に行く場合もあるが、数としては地域に住む子どもの多くは地元の学校に通う。義務制の小中は辞められない。転校はできるし、不登校という選択もあるけれど、それでもどこかの小中学校に所属していなければならない。会社を初め大人の集団は、その気になれば辞められる。(ブラック企業ややくざ組織なんかは抜けられないかもしれないが。)「全員所属」に近い場所ほど、問題が起こりやすいのは当然である。徴兵制の軍隊がない現在、そういう場所は「家庭」と「学校」である。続いて「会社」。ほとんどの事件は、家庭か学校か会社で起きる

 子どもが学校にいるのは長くても10時間くらいで、それ以外の時間は家庭や地域で生きている。世界中どこの地域でも何かの問題がある。地域の経済格差や家庭の文化の違い、地域にある差別感情や歴史的に作られた対立感情などは、子どもの中にもインプットされている。生徒は無色の存在として学校に入学するのではなく、地域や家庭の負の歴史を引きずっているのである。学校側が放っておくと、深刻な弱いものいじめにならなくても、弱者をからかう言動が教室に飛びかうことになりやすい。一端そういう言説空間が確立されてしまうと、担任教師が一人で対応することは難しい。(もちろん、生徒が負っているのは「負の歴史」だけでなく、「正の歴史」もある。今はボランティア活動や様々な文化体験を持っている生徒もいっぱいいて、経験を生かして学校で生き生きと活動していることも多い。地域の様々な文化・スポーツ活動が学校と協力して効果をあげている例も多い。)

 ところで今まで書いたのは、学校は地域の生徒が全員来る(問題児もいるだろうし、人間が多ければ衝突も起きる)、その生徒は地域や家庭の問題から自由でないということで、学校と言うところは「外部のマイナスが持ち込まれる場所」だということである。しかし、僕はそれだけでは不十分な理解なのではないかと思っている。学校であるというそのものの中に、いじめが起きやすい構造があるのではないか。いろんな人がよく言うのは、「学校は勉強する場所」という言葉で、勉強やスポーツをしっかりやっていれば、いじめや暴力なんかはおきないらしい。勉強やスポーツそのものが「人格を陶冶(とうや)する」とでも考えているんじゃないか。確かに一流の学者やスポーツマンは人格者が多いかもしれないが、僕らが人生で見聞きするのは、むしろ中途半端に成績が良かったり、部活で上の学校に進んだりする生徒が、上の学校で挫折してしまう場合の方が多い。

 教師はタテマエを言うしかない場合があり、「勉強は本当は楽しい」とか「体を動かすことは楽しい」とかいつも言ってる。僕もまあそう言ってた。いや、僕は社会科教員だから歴史を語っていれば確かに自分では楽しいのである。でも、勉強には評価がつきまとう。評価なしの学校はない。学校での評価は、それより上の学校への進学や会社への就職を考えている生徒には、絶対的な影響がある。学校と言うところは、楽しいメニューもそれなりに用意されてるし、勉強も本来は楽しいんだろうけど、基本的には「生徒が教師による評価を競う場所」である。それも嫌なことをけっこうたくさんしないと評価の対象になってこない。クラスにはいじめっ子タイプもいれば、好きな生徒がいることもあるって言うのに、よりによって人前で英語の教科書を読み上げたり、跳び箱を跳んで見せたりしないといけない。あるいは黒板に出て二次方程式を解かせられたり、リコーダーを演奏して聞かせたりしないといけない。それが嫌じゃないって人には判らないだろうけど、不得意な人にはトラウマになるような出来事が一杯あるのである。だけど、「できる子」だった学校教師、あるいは政治家も官僚も学者もマスコミ人も、そこらへんをあまり感じることができないんじゃないか。

 評価する場所という学校本来の特性からして、悪い評価を受ける生徒はカラカイの対象になるし、スポーツが不得意な生徒は団体競技なんかでは排斥される。それでも人間は生きていく能力を発揮して、強い者と弱いものがうまく交じりあってグループを形成して、リーダーを中心にまとまって生活していく。僕はこの、評価する場所という特性を悪いことだとは思っていない。むしろ試験の成績や目に見える運動能力はまあ評価が納得しやすいし、努力で変えていける。人生の中ではこんな判りやすい評価はあまりない。コミュニケーション能力が問われたり、容姿で落とされたりする就職なんかの方がよほど辛い。評価される側として「評価対策力」を養うのは、学校の授業しかないだろう。でも、その評価するという学校の特性そのものが、生徒集団の中に優劣を生み出し、優越感や挫折感を生む。それが生徒の属するグループの中に、さまざまな葛藤を生み出すから、学校という場所は放っておくと「仲間割れ」「仲間はずれ」が常に起こる。避けられないし、人はそこから学ぶものだと思うけど、同時に注視していないと深刻な疎外感を持つ生徒が出てくる。学校という場所はそのことを判ったうえで対応して行かないといけない場所なんだと思う。

(ではどうすればいいのか、今のいじめ対策には何が欠けているのかなどは次以降。)
追伸。僕の授業に対して「歴史の面白さを感じた」と書いてくれた生徒がいてうれしかった思い出があるが、でもビデオを見せながら面白エピソードを語るようなことばかりしているわけにはいかない。高校段階までは「教科書の知識を注入する」学習も必須である。「生徒が考える授業実践」みたいなことができる学校の方が少ないだろう。「1582年、天下統一目前のAがBに襲われたCの変が起きた」と試験問題を出すと、「識田信長が明知秀光に本熊寺で襲われた」とか書く生徒はけっこういるのだ。僕が忘れられないのは、「ヒラヤマ山脈」(生徒に平山がいたとき)と「水たま病」という答えである。知識の習得方法を学校で学ばせておかないと、自動車免許の学科試験を落ち続ける。
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