尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

文学座「タネも仕掛けも」

2012年11月09日 23時30分40秒 | 演劇
 文学座の新作、「タネも仕掛けも」という芝居を見た。新宿の紀伊國屋サザンシアター。これが滅法面白いんだけど、もう土日の午後2時の回しかない。僕も招待で見たんだけど、まだ席はあるようでもったいない面白さ。
 

 緑川という地方の小さな町。そこの観光案内所、になったはずの今は物置に使われている建物のロビー。その2階にマジックショーで前座を務めるシロウトの高齢女性グループ(4人)が泊っている。冬で雪が降り続く中、そこにかつて「脱出王」と言われた元有名老マジシャンが現れる。マジックショーの主役はかつての弟子だったが、栄光の地位は奪われてしまった。また何か関係のありそうな謎の女性も。そうして、いよいよ主役を務めるマジシャンの登場。老マジシャンは奪われた栄光を取り戻そうと、かつてない大ネタで昔の弟子に勝負を挑む…。

 もう少し人間関係は込み入っているのだが、ベースとなるのはこの新旧人気マジシャンの対決である。もっとも老マジシャンの正体は誰なのか、女の弟子との関係は、シロウト女性グループのそれぞれの事情など、いろいろと関わってくるのだが。そして実際に舞台でマジックを行う。シロウト老女性と言っても、文学座の俳優であるわけだが、きちんとマジックを行うが、まあご愛嬌。楽しいムードを盛り上げる。一方、「胴体斬り」などもちゃんとやって見せる。最後の大ネタは「人間の縦斬り」(胴体切りではなく)で、これはどういう仕掛けなのか。多分演劇ならではのタネがあるのではないかと思うのだが、だまされるのも観客の楽しみではないか

 人間関係のもつれた事情などいかにも演劇的な設定で、一室ですべてが展開されるという劇なんだけど、実際にマジックショー的な見世物で作っているところが面白い。すごい人気俳優が何人も出ているというような劇ではないので、興行的には大変かもしれないが、見て損はない。誰かと見れば、帰りにタネをめぐって議論になること必至である。そういう楽しさがある劇。

 2005年に「ぬけがら」で岸田國士賞を受賞した佃典彦という若手の劇作家の作品。僕は初めて見たが、満足して帰ってきた。もっとも演劇と言うよりマジックの満足なのかもしれない。
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和田春樹「領土問題をどう解決するか」-領土問題としての沖縄

2012年11月09日 00時27分07秒 |  〃 (歴史・地理)
 和田春樹氏の「領土問題をどう解決するか」(平凡社新書、2012.10)を読んで、前に書いた領土問題についての記事を大幅に考え直す必要があると思った。全面的に展開するには時間がかかるので、とりあえず自分が気付かずにいたことを書いておきたい。

 和田春樹氏はロシア(ソ連)現代史の研究者(東大教授)として有名だったけど、70年代に韓国民主化運動の連帯運動の責任者をしていた。そこから朝鮮・韓国現代史の研究に踏み込み、朝鮮戦争や金日成の研究も行ってきた。北方領土問題も古くから研究課題としている。90年代には、いわゆる「従軍慰安婦」問題に深く関わり、「アジア女性基金」の活動を担う一人となった。研究者を超える社会運動家として、左右を問わず論議を呼ぶことも多い。しかし著書や論文は「実証的歴史学」に基づくもので、主張の賛否とは別にして、反論するには実証的な批判でなければならない。

 和田氏の立場は、ソ連や韓国、北朝鮮、そして日本に対しても、その暗部を指摘する立場がはっきりしている。政治性もあるが、勇気ある言論活動を続けてきた。現代史家として、また韓国政治犯の救援運動家として、僕は70年代以来いつも気にかかる存在だった和田氏の北方領土論も前に読んだと思うが、細かい論点は忘れてしまった。改めて読んで思ったことがいくつかある。和田氏の主張は、かつて「日面ソ心」とまで某教授に悪罵を言われた。「昔なら決闘を挑むところ」と思ったとまで書いている。しかし決闘はできないから反論に全力を注いだという。
(和田春樹氏)
 そこで見えてきたのは、日本が放棄したクリル(千島)列島に、国後、択捉の2島が含まれていることは、敗戦直後の政府には了解されていたという事実である。この事実は同書を読む限り疑いようがない。しかし、だんだん日本政府の見解が変わっていく。吉田茂首相の答弁が変わるのである。アメリカの意向がその背景にある。つまり日本が2島を放棄することを認めるなら、ソ連も「平和条約締結時に、色丹、歯舞は返還する」と言ってるわけだから、鳩山一郎内閣時代に「2島返還」で平和条約が結ばれていた可能性があったのである。

 しかし、そうなってはアメリカが沖縄を支配していることの不当性が日本人に大きく見えてしまう。ソ連は返した、アメリカも返せ、ソ連とは仲良く出来る、アメリカはひどい、になる。60年代のベトナム戦争に沖縄の基地が果たした役割を考えると、アメリカは少なくとも60年代には沖縄を手放したくなかったということだ。だから、日本に対し、2島返還でまとまらないよう様々な工作をする。そのため、だんだん「4島返還論」が常識化していって、ソ連はひどいという世論が形成されていくという。そういう成り行きが書かれている。そして、北方領土や竹島に関して独自の主張を行う。その中身は賛成できない部分もあるのだが、とにかく読んでおくべき本だ。外務省のサイトを見ているだけでは、出てない(か、もしくは判りにくい)論点があるということである。

 この本を読んで一番思ったのは、「領土問題としての沖縄問題」という観点である。戦後長らく、日本人にとって、最大の領土問題は沖縄問題だった。1972年5月15日の「復帰」までは。ところが、アメリカが奄美、小笠原、沖縄と「返還」して行ったから、「アメリカとの間に領土問題はない」という気持ちになる。ソ連(ロシア)との間には「解決できない領土問題がある」という見方が常識になった。しかし、領土問題とは、大日本帝国が戦争に敗北したあとの領土の範囲を確定するということでだ。日本人のほとんどは、朝鮮独立、台湾や「満州」の利権(遼東半島の租借や満鉄線など)の中国返還に異存はない。本州、北海道、九州、四国と周辺の諸島で納得している。ただ、個別の具体論で、どこまでの島なのかで問題になっているだけである。

 沖縄、北方領土、竹島などは皆アメリカの戦後戦略と密接に関連していたし、今も関連している。(尖閣は沖縄の一部で、米国支配中は中国も台湾も領有権を主張していなかった。)我々は、「北方領土は領土問題」、沖縄の基地は「国内の問題」というカテゴリーだと思っている。国内には本土にも米軍基地があり騒音問題などがある。沖縄は「本土並み」になるはずだったし、「日本国憲法」の下に入ったのだから、日本国民としての基本的人権が認められなくてはならない。そういう主張を行うことによって、そもそも沖縄が領土問題だった記憶が薄れてしまった。しかし最近の米軍人の行動を見ても、米軍は「沖縄は自国民の血で獲得した実質的な領土」と考えているのではないか。そうでないとこれほど事件が頻発し続けるわけがない。

 今日本人に突きつけられているのは、領土問題というより、実は日本の戦後処理の問題と言うべきだ。その中には「慰安婦」問題や朝鮮人「BC級戦犯」問題、中国の遺棄毒ガス問題など未解決の様々な問題がある。一方、沖縄の基地問題も日本の「未完の戦後処理」の問題なのである。そう見れば、日本人の住民がいない竹島や尖閣(旧島民はいる)、北方領土(旧島民はかなりいる)と比べても、「今でも苦しんでいる国民が多数いる」という意味で、今なお「沖縄が最大の領土問題」と言えるのではないか。「未完の沖縄返還」という事態こそ、日本の最大の領土問題だという観点の重要性。僕が和田氏の本を読んで学んだ最大の点はそのことだった。
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映画「心中天網島」と文楽問題

2012年11月08日 01時06分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の篠田正浩監督(1931~)特集上映で、篠田監督の初期作品をかなり見た。新しく篠田監督について思ったこともあるが、ここでは再見した傑作「心中天網島」について、大阪市の橋下徹市長の提起した文楽協会への補助金問題とも関連して書いておきたい。

 「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)は、近松門左衛門が1720年に書いた人形浄瑠璃の傑作である。それを篠田正浩監督がATG1000万円映画として1969年に映画化した。実験的な作風、鋭い社会風刺、岩下志麻中村吉右衛門の名演で傑作となった。1969年キネマ旬報ベストワン岩下志麻が主演女優賞など、この年の映画賞で高く評価された。ATGは1960年代末に、当時でも低額の1000万円で映画製作に乗り出し、お金はないが自由を求める映画人が結集した。「心中天網島」はATG製作で初のベストワン作品となった。
 
 画面からは、まず篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子が電話でしゃべる声が聞こえてくる。クレジットタイトルにかぶさっている。ここで早くも「実験的方法の作品」であることが示される。単なる過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。セットは簡素な遊郭の一室で、いとこの前衛書家篠田桃紅が書いた書が装飾に使われている。美術は粟津潔、音楽だけでなく脚本にも武満徹がクレジットされている。武満徹は篠田作品の多くで音楽を担当したが、この映画は中でも素晴らしい。この名前を見るだけで、60年代日本のすぐれた若い才能が結集して作られた作品の熱気が伝わる。篠田監督の最高傑作である。

 紙屋の治兵衛が女房のおさんがありながら、紀伊國屋の遊女小春と馴染みになる。小春は治兵衛と心中約束をしているが、おさんから手紙を貰い身を引く決心をする。一方、小春をねらう恋敵・太兵衛は金の力にまかせて小春を我がものにしようとするが…。浮世の義理と金の重みに雁字がらめの人々の、意地と誤解がもつれにもつれ、世間体を考える人々の悪意に囲まれ、二人は悲劇に追い込まれていく。映画ならではの工夫として、小春とおさんを岩下志麻が一人二役で演じた。岩下志麻は実生活で篠田監督と夫婦であり、篠田映画のミューズを数多く演じたが、中でもこの二役は素晴らしい。治兵衛にとって小春とおさんが持つ意味、引き裂かれた心をまざまざと示す。小春が客として以上に持つ愛情、おさんの小春への義理立てがともに観客にストレートに伝わってくる。

 この映画では画面に「黒子」が出てくる。文楽(人形浄瑠璃)では、人形を操る人形遣いが「黒子」として観客に見える。一方、顔を出して人形を操る人形遣いもいる。ここが世界の人形劇の中でも独特な点である。人間が顔を出すと物語に入り込めないという橋下市長の感想があった。映画は俳優が演じているし、場の転換の時間もいらないから、本来「黒子」がいる必要はない。しかし、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出す。

 この演出にはどういう意味があるのだろうか。一つは文楽という古典劇のムードを出す演出があるだろう。人間が演じる「人形浄瑠璃」である。しかし、それだけではない。登場人物の周りには、もっと大きな「世界」があり、ひとりの人間はその世界で割り振られた「運命という名の物語」を誰かに操られて演じている。つまり「黒子」は「運命」や「歴史」の具象化として、象徴的に存在していると感じられる。

 文楽を学生時代に見たときに「これほど人形が生きているように見えるのか」と思った記憶がある。人形遣いが見えるということも、むしろ自然な感じがした。(人形は誰かが操っているに決まってるんだから)。人形の演じる物語とその人形を操る人形遣いを同時に見るという構造は、自分の専門である日本近現代史を見ると、全く違和感がなかった。黒子は民衆の隠喩か、あるいは運命の悪意なのか。さて、ある時非常に疲れていた時に文楽を見に行った。その時は語りが眠気を誘い、ほとんど全部寝てしまった。だから忙しいときに見ると、また寝そうだと思ってその後長く見なかった。僕は橋下市長が見に行く必要はないと思う。忙しい市長が見ても、物語に入り込めないこともあるのは仕方ない。それは文楽の問題でも市長の問題でもない。

 僕はそれより近松門左衛門原作の映画化作品を見たらどうかと思う。映画なら家で好きな時に見られるし、途中で中断してもいい。生身の人間が演じるから、現代的なテーマ性がはっきりする。名作の映画化だから、文楽や歌舞伎に負けない魅力がある。脚本がしっかりしているから、監督も演出に集中しやすい。幾つか有名な作品を挙げると、
 1954 近松物語(溝口健二)
 1957 女殺油地獄(堀川弘通) 1992(五社英雄) 2009(坂上忍)
 1957 暴れん坊街道(内田吐夢)
 1959 浪花の恋の物語(内田吐夢)
 1958 夜の鼓(今井正)
 1978 曽根崎心中(増村保造)
 1986 鑓の権左(篠田正浩)
 まだあるが、特に溝口「近松物語」、増村「曽根崎心中」などは、この篠田監督の「心中天網島」に勝るとも劣らない名作であり、心打たれる傑作だ。

 これらの映画を見ると、近松門左衛門の偉大さがよく伝わる。人形で見ると、なんだか古風な物語で、義理人情に縛られた遊郭のお話に感じられるときもある。しかし、近松の神髄は、「愛と自由」であり、虐げられた女の解放である。痛烈な身分社会批判であり、金がすべての世の中への痛打である。身分と金と世間体に縛られ、自由に愛を貫き通せない人間の悲しみが全身に伝わってくる。「天下の台所」と言われた大坂の町人の自由を求める叫びである。

 表面的には身分社会への批判はあまり出ていない。それを書いたら幕政批判になってしまう。だから「ぜいたくな町人が金に飽かせて女を我が物にしようと画策することへの批判」といった「ぜいたく町人批判」という当時でも許される範囲の物語になっている。しかし、金で縛られた女の苦悩、金さえあれば解決できるのに工面できない苦悩、そこには「貨幣」という形で表現された人間の苦しみが描かれている。金力という権力批判であり、それがまかり通る不自由な身分社会への批判である。全く他人ごとではない。カネで苦悩する今の世の中に通じる、今も滅びないテーマではないか。

 近松門左衛門(1653~1725)は、シェークスピア(1564~1616)、モリエール(1622~1673)などより遅い生まれだが、やはり市民階級の勃興の中で国民的な劇作家として活躍した。このような劇作家を生み出したことは大阪の誇りである。しかし、時代とともに「古典」として大成してしまうと、「通しかわからない」ものになっていく。それは避けられないし、それを革新していくことも大切だが、もともとのできた当時の心を尊重することを忘れてはいけない。

 僕が橋下市長に違和感を持つのもそこである。大坂町人の心意気が表現された文学をどうして粗末にするのか。文学も演劇も歴史の流れの中で「制度化」されていくが、もとは能も歌舞伎も被差別民衆の生み出した芸能である。そのエネルギーをどう現代に生かすか。問題提起は大事だが、金を掛けずには何事も成し遂げられない。日本は自国の市場がそれなりに大きいから、平気で市場にまかせろなどという。自国のマーケットが小さい韓国で韓流ドラマが世界に売れるのは何故か。関西圏は韓国と同じ程度の経済規模がある。世界をリードする文化が出ないはずがない。その時に歴史的な文化の記憶が一番大事になる。「世界無形文化遺産」の文楽は、その時に一番大切なものではないか。「文化的戦略」がない日本を象徴するような出来事は残念だ。 
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父ちゃんのポーが聞こえる

2012年11月07日 00時27分00秒 |  〃  (旧作日本映画)
 昨日見た映画の話。ものすごく傑作ということでもなく、スルーしてもいいんだけど、まあ書いておこうかなという点がある。今や「追悼映画専門館」とでも言うべき、池袋の新文芸坐だが、山田五十鈴を追悼し、堀川弘通監督を追悼し、今は三回忌特集で「小林桂樹と池部良」。その後に大滝秀治、生誕80年のフランソワ・トリュフォーと続いていく。その小林桂樹特集で、1971年東宝作品石田勝心監督作品「父ちゃんのポーが聞こえる」。公開当時に佳作と評価され、僕もいつか見てみたいけど、難病ものだしなあと思っていた。その「いつか」が41年ぶりに訪れた。

 一言でいえば「難病映画」になるが、同時に「鉄道映画」でもある。難病映画としてはかなり知られているが、案外鉄道映画として知られていないので、そのことをまず書きたい。父ちゃんである小林桂樹は、北陸の蒸気機関車の運転手である。コンビを組む釜焚き(石炭をくべる仕事)は藤岡琢也で、両者とも名演。富山県高岡の話とされているが、撮影は七尾線の七尾駅と言うことだ。そのことは「映画:「父ちゃんのポーが聞える」と、 昭和48年9月の頃の七尾線」という「ぼんやりした放浪者」というブログに学んだ。映画に出てくる機関車などの情報が詳しい。日本国有鉄道の協力で出来ていて、蒸気機関車だけでなく、鉄道員の暮らしがリアルに描かれている。

 小林桂樹の父は、妻を亡くして男手で2人の娘を育てている。上の娘が嫁ぐことになり、親子三人の旅を計画する。娘が太平洋が見たいということで、千葉に行って、今はつぶれた「行川(なめかわ)アイランド」のフラミンゴショーを見る。2001年に閉園した施設の貴重な映像記録である。千葉の観光施設として、後に鴨川シーワールド、さらに東京ディズニーランドが開園し、だんだん斜陽化していった。
(行川アイランドのフラミンゴショー)
 姉が嫁ぎ、父は再婚し、新しい家庭になった頃から、次女則子(吉沢京子が懐かしい)の身体に異変が現れる。立っていられずよく転ぶのである。不注意ではなく、明らかに片足にマヒがあるらしい。やがて中学で授業を受けるのも大変になり、病院内の学級(こまどり学級)に移る。そこの先生が吉行和子で、僕は彼女のファンだからうれしい。病院でも長くなるが、なかなか診断もはっきりしないまま病状は重くなってくる。その間、絵を教えに来てくれるボランティアの青年(佐々木勝彦)と親しくなり、初潮も迎え、恋のような感情を持つ。青年たちの絵画展が大和高岡店で開かれ、車いすで見に行った後で、一緒に山の公園にドライブする。しかし、パン屋の彼は東京に修行に行き、面会にも来られなくなる。

 その頃、則子の診断がはっきりする。現在の医学では治らない「ハンチントン病」(当時はハンチントン舞踏病と言われた)である。これはネットで検索すると、今も治らないが、遺伝子が特定されたという。遺伝病で治療法が今もない。極めて珍しい難病である。則子は山の中の療養所に移らざるをえず、父ちゃんもなかなか見舞いにも行けない。しかし、近くを汽車の運転で通るので、その時に汽笛をポーと鳴らすと約束する。このあたりの機関車と汽笛と病床の則子の描写が泣かせるわけである。そのあと、汽車が踏切に停まったトラックと衝突、父ちゃんは大怪我を追う。「ポー」は同僚に引き継がれ、鳴らされるのだが、そのあと則子は…。

 則子は実在の人物で、松本則子が映画では杉本に変えられている。病床でつづった詩集が刊行され、その映画化。感動的で、特に小林桂樹が名演。こういう映画もあっていんだけど、僕は難病ものが苦手だ。大ヒットした「愛と死をみつめて」(1964)や「世界の中心で、愛を叫ぶ」(2001)、アメリカの「ある愛の詩」(1970、原題Love Story)などが有名。白血病が多いが、大体の病気は映画に出てくる。

 苦手と言うのは、難病を克服して今は元気という展開がないからだ。亡くなって追悼出版が評判になり映画化される。「お涙ちょうだい」的な描き方だからというよりも、展開が判っていることが問題なのだ。それでは難病ものは「忠臣蔵」になってしまう。筋を楽しむことができず、あれよあれよと上映時間内に悲劇になっていくのを見てるのは辛い。

 日本では戦争が終わって豊かになり、結核も治るようになり、いじめや犯罪はあるけれども、まあ生まれたら大体成人するのが当たり前になっている。戦前は乳幼児の死亡率が非常に高かったのが、今は子どもの死亡率が低い。だからこそ、若くして難病で不帰の人となる悲劇は、皆に大きな衝撃を与える。遺稿が残されていれば、けなげに治療に励み皆に感謝しながら、病気ゆえの感受性豊かな詩やエッセイを書いていることが多い。出版されると皆に感動を与える。自分の命も大切にして日々を一生懸命生きなければ…。平和な日本で最大のドラマは、家族の病気と死なのである。

 中国映画「サンザシの樹の下で」(チャン・イーモウ監督)も「文革もの」と思わせて最後は難病ものになる。それを見ると、難病映画が受ける経済段階があることがわかる。東京五輪の年に「愛と死を見つめて」がヒットしたように、北京五輪が終わった中国で難病映画がつくられたことは興味深い。

 もう一点、この「ポー」は、いくら田園地帯といえど全く人家がないわけでもないだろうから、「うるさいのではないか」。何しろ朝の5時50分である。危険を避ける意味ならともかく、このような「公私混同」で汽笛を鳴らしていいものなのか。今は何かにつけ「うるさい」という苦情を気にしないといけない時代だ。しかも労働者が勝手に行った行動で、今なら確実に「組合たたき」に使われるだろう。管理職の許可は取っていたのかと言う人が出てくるだろう。当時は誰もそう思わず、親の自然な情だから管理職を通さず同僚どうしで継いで行って、そのことを誰も疑わない。鉄道マンの美談と思われ、組合映画ではなく、国有鉄道協力の映画になるわけである。「いい時代だった」と改めて思う。(2019.11.20一部改稿)
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中津留章仁「欺瞞と戯言」という劇

2012年11月06日 01時28分58秒 | 演劇
 4日の日光ウォーク自体はそれほどハードではなかったんだけど、早朝から出て帰りは渋滞の日帰りドライブに完全にダウン。いつもは見てる「イ・サン」も見ないで寝てしまった。で、一日寝たら回復して、池袋新文芸坐で2本映画を見て、ハンセン病集会にちょっと資料を貰いに行って、その後下北沢の本多劇場へ。ここでやってる、トム・プロジェクト公演「欺瞞と戯言」(ぎまんとたわごと)を見る。(11日まで公演。)


 で、「行方不明の夫を探す妻。夫の友人たちの話から、その夫の知らない過去が次々と明らかになる。そして夫の行方は…」とチラシにあるけど、これは実際の舞台とだいぶ違った。作・演出の中津留章仁(1973~)はこの前「背水の孤島」を見た感想を記事に書いたけれど、原発事故に触発された作品を書いて大ブレークした若手。今回の「欺瞞と戯言」も、確かな構成力とセリフの凝集力、見事なセットと俳優の演技力を十分に味わえる作品になっている。しかし、話はかなり変で、それこそ「欺瞞と戯言」なので何が言いたいのかよく判らないとも言える。

 大体話が現代ではなく、昭和20年代頃と思われる設定。旧華族である滝川財閥の洋館、2階建てのセットが素晴らしい。登場人物は5人だけで、しかも皆外国人風の名前が付いてる。ある休日の午後、独身の社長(憲斗=真山章志)が組合長(檀安里=長谷川初範)と会う予定にしている。ところがそのあとで急にお見合い相手だった娘(西条可憐=岸田茜)が来るという。このお見合いを進めている叔父(譲二下條アトム)と兼斗の母親(麗羅竹下景子)がいろいろ口を出している。どうやら麗羅の夫で憲斗の父、前社長の先代はいないらしい。何でも3年前の滝川財閥恒例の正月の鹿狩りで行方不明になったらしい。そのため息子の憲斗が鉱山会社の社長になったが、経営はあまりうまく行ってないうえに、まだ大人になり切っていない部分があるようだ。華族出身者として「品格」が大事だが、旧華族でない可憐を嫁に迎えることは是か非か。そのような議論が進んでいる間に、妻を亡くしている叔父の譲二が、夫を事実上失っている麗羅と再婚したがっていること、一方組合長の檀は昔麗羅と愛し合った過去があり、社長と仲たがいして中東に飛ばされていたのが社長交代後、前社長夫人である麗羅の求めで帰国して、今は組合長であるということがわかってくる。そこへ、お見合い相手の娘が訪れる。皆自分の都合だけで、いろいろ主張する人物で、娘は「誰でもいいから好きだった男を忘れるための結婚」に踏みきろうとし、身分の差はなくしてみせると言う。憲斗は娘の義兄が銀行家なので、それを目当ての結婚をもくろむ。そのあとで、麗羅をめぐって、譲二と檀の争いが持ち上がり、あっと驚く展開で譲二がケガをする。そこまでが1場

 2場になると、麗羅と譲二が結婚し、可憐は妻になり妊娠中。憲斗社長は事業を拡大したが従業員の賃上げ要求には断固応じない。そんな中で可憐は事ごとに文句を言われ実家に帰ると宣言し、そこで急に産気づく。その夜交渉で組合長の檀が訪れ、怒った組合員は石を投げて洋館のガラスを割る。そんな中で人間の本質が露呈していく…。と言う筋立てで、これではよく判らないと思うが、階級と性をめぐる自由の議論が全体として展開されていくが、滝川一族は皆が自分を守るための「欺瞞と戯言」を言っている。嫁が産気づいても放っておいているトンデモナイ冷酷さで、結局「身分」が背景にある。労働者に対する蔑視もひどいものがある。そんな中で悩みながら暮らしてきた母親麗羅が、最後に驚くべき決断をする。これもよく判らないが、子どもを守るためには何でも母親はするものなのか。これはいずれ破たんすることが目に見えている。実際、譲二の人生は完全に破たんしてしまう。

 セリフも面白く、構成も大変に練られていて、とても面白い。だけど登場人物に感情移入できない。それはいいんだけど、なんだかどこで何が間違ったのか、よく判らない。明らかに最後は悲劇なんだけど、何だか見ている方が宙ぶらりんに放置されるような終わり方で、それが狙いと言えば狙いなんだろうけど。ではいったい何が問題だったのか。華族という昔の身分か資本家対労働者の問題か男と女という性差も大きい。新しい時代(トランジスタラジオと自動車の時代)と古い時代か。戦争を経験したものとそうでないものなのか。いろいろ触れられている。竹下景子演じる麗羅に至っては、湯川秀樹の親戚で原子力発電には反対だという主張まで入っている。あまりにもいろんな論点があるが、僕は「品格」ということを言う者ほど品格がないことがよく判った気がする。華族だったものとして、社長として、経営者として「品格」が大切という憲斗社長こそ「品格」に乏しいことが後半に暴露されていく。しかしそういう息子を育ててしまったのは母親が自由に生きなかった報いでもあると思えるが。階級的立場と恋愛が交錯し、複雑な人間関係を2階のセットで巧みに処理する手際は見応えがある。役者は皆うまいが、今やこういう劇のヒロインにピッタリの舞台女優となった竹下景子の存在感は抜群。下條アトムの嫌味な演技も素晴らしい。ただ、今の観客にただ「カゾク」と言って通じるだろうか。登場人物が皆名前が外国風なのは何なんだろうかと言う気もする。
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日光小倉山もみじウォーク

2012年11月06日 00時20分35秒 | 旅行(日光)
 3日に六本木高校の文化祭。去年は独立した一本の記事を書いて、来年も行くと書いている。だから今年も行かないと。でもだんだん知ってる生徒も教員も少なくなる。今年の出し物は教えてない生徒が多いので、まあ書くのはやめておきます。卒業生何人かと会う機会。去年は前日が新文芸坐落語会で立川談春らを聞いていた。今年は翌日4日が早起き。だから割合早く帰って、日が変わらないうちに寝ないと。

 4日は5時半ころに起きて、7時には車で出る。日光の自然観察会。日光湯元ビジターセンター主催の「小倉山もみじウォーク」。この時期日光は紅葉狩り客で大混雑。特にいろは坂は毎年大渋滞で、2時間くらいかかる。今回の企画はその大渋滞を避けて、日光市内の霧降方面の隠れたスポットとウォークしようという、スグレモノ企画。僕たち夫婦は日光が好きで、よくあちこち行ってるけど、この小倉山近辺はちゃんと歩いたことがない。いつもは節約のため浦和の東北道入口まで下を通っていくんだけど(というか、この前は宇都宮まで4号線で行ったけど)、今回は近くの首都高から高速に乗る。たった2つのインター区間しかないし、右合流だから嫌なんだけど。車はすいすい進み、9時10分頃には集合場所の「日光木彫りの里工芸センター」へ。ここ始めてなんだけど、日光彫などの実演販売がある無料施設で、入り口に「鳴龍」があった。面白い施設。空は朝から素晴らしい天気。

 午前中は小倉山に登り、午後は野鳥の森散策。小倉山は登り口が判りにくい。しかし簡単に登れて、展望はないけど面白い。少し急登気味のところもあるが、特に登りにくいことはない。途中に「熊剥ぎ」が何か所か見られた。駅から霧降大橋を渡ってそれほど遠い地区ではないが、熊がいるのである。最近奥日光の戦場ヶ原でハイカーが熊に襲われるという事故が起こったけど、こんな下にも熊がいるのか。熊は樹皮を足ではいで、甘皮を食べるのが大好きなのだという。登った小倉山と熊剥ぎの写真。
 

 紅葉は少し早い感じだったが、それでもところどころ素晴らしいものが見られた。
 

 今回のお昼は近くの食堂でと言うことだった。お蕎麦屋がいっぱいだったので、霧降の滝方面へ行く交差点から近い「る・みしぇる」で。スパゲッティもあるが、これが人気らしいフランスのブルターニュ地方の家庭料理、ガレット(蕎麦粉のクレープ)を食べてみた。写真は海老のクリーム煮とトマト、レタスのガレット。デザートのクレープとのセットもあり。それを頼んだが、どっちも美味しい。ガレット800円は量からするとちょっと物足りないが、味と珍しさは満足。


 午後は近くの小倉山野鳥の森。ただし鳥はあまり見られなかった。(少しは見た。ヤマドリが飛び立つのも見た。)出発前に「双眼鏡の使い方講座」。そんなもん知ってると思うと、初めて知ったことがある。双眼鏡は、両方のレンズの間に「焦点調節リング」がある。それで焦点を合わせてオシマイだと思っていたら、実は右のレンズが独立して動く。だからまず右目をつぶって、真ん中のリングで左目の焦点を合わせる。今度は左目をつぶって、右のレンズを回して右目の焦点を合わせる。そして最後に両目で見て、真ん中のリングで最終調整をする。これは知らなかったなあ。

 鳥がいない代わりにあたり一帯鹿糞だらけ。そして日光連山の山並みが素晴らしく見える。こんなに全部見えるのは珍しい。男体山なんか午後になると雲がかかることが多い。写真一番左が男体山、右が大真名子山、続いて女峰山の連峰。一応鹿の糞の写真も。
 

 最後に紙が配られ、今日を詠んで一句。まあ途中で言われていたが、ホントにやるのかよ。俳句を作るのは久しぶりだなあ。なんか急には思いつかず、あまり自己表現はしないで、月並みに。
 「蒼天に 紅葉の映える 小倉山」
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室謙二のリバイバル-新書⑤

2012年11月01日 00時23分11秒 | 〃 (さまざまな本)
 室謙二(むろ・けんじ、1946~)という人がいる。昔「思想の科学」という雑誌があって、その編集代表をしていた。60年代にはべ平連に参加し、米軍脱走兵を逃がす活動も行った。70年代にはあちこちで室さんの書いたものを読んだような気がする。「思想の科学」はわりとよく読んでいたし、読者会というのもあって時々参加していたから話も聞いたと思う。検索して見ると「旅行の仕方」、「アジア人の自画像」など、読んではないけど名前に記憶がある本を書いてた。85年には「踊る地平線」という本を出して評価された。これは丹下左膳の原作者として知られる林不忘、またの名を谷譲次、牧逸馬の三つのペンネームを使い分けた長谷川海太郎の評伝である。谷譲次はアメリカ放浪記を書いたときの名前だけど、それは実体験に基づいている。そして、室さんの実人生も、この海太郎みたいなことになっていた。

 そういえば、しばらく室謙二さんの名前を聞いていなかったなあと、去年新著「天皇とマッカーサーのどちらが偉い?」(岩波書店、2011)が出て思い出した。その本を読んだら、なんと室謙二はアメリカ人になっていた。住んでいるだけでなく、ユダヤ系アメリカ人女性と結婚して米国市民権を取って、日本国籍ではなくなっていた。そして今年の7月に岩波新書で「非アメリカを生きる-複数文化の国で」という本も出した。いやあ、長年日本の言論界を離れていた「室謙二」という人が急速にリバイバルしてきた。それも「アメリカ人」として。そういう生き方もあるのか。まあ頭では知ってるけど、外国に住んでも国籍は変えない人もいる。いずれ日本に帰ってくる人も多い。「こういう生き方もあるんだ」という感じ。
 
 でも「アメリカ人になりたい」というわけではなかったらしい。「ある人に会って、その人と暮らすためにここまで来てしてしまったのだよ」ということらしい。そして「アメリカで非アメリカ人として住む方が、日本で非日本人として住むより楽なように思えた。」と言う。うーん、そうなのかな。確かにそうかもしれない。前の著作は主に日本での人生を自伝的に、後の新書はアメリカの「非アメリカ人」を取り上げてエッセイ風にまとめている。とても自由な風が本の中を吹き抜けていて、読んで刺激された。内容を簡単に紹介しながら、いくつかの論点に触れてみたい。

 まず後者から。「最後のインディアンが見たアメリカ」として有名な「イシ」の生涯が最初。「ハンクとジャックはスペインに行く」はスペイン内戦で国際義勇軍に参加したアメリカ人。そして「マイルスはジャズを演奏しない」「ビートたちのブッダと鈴木老師」「ハムサンドを食べるユダヤ人」と続く。アメリカ国内のマイノリティを描きながら、「もう一つのアメリカ」を示していく。「北アメリカ最後の野生インディアン」と呼ばれて「イシ」と呼ばれた人は、「人類学者」クローバーに「発見」され、クローバー夫人の「イシ」と言う本で有名になった。その夫妻の娘がアーシュラ・K・ル=グウィンで、「そうやってイシは、ゲドとなっていまの若い世代に伝えられている。」

 スペイン内戦のときの国際義勇軍は、スターリンや他の多くの政治家にボロボロにされたけど、でも一身を犠牲にしてファシズムに立ち向かった「高貴な国際精神」は、僕にとって「永遠の英雄」だと思っている。アメリカの義勇軍はよく「リンカーン旅団」と言われたが、そういう名前の旅団は正式にはないらしい。理想主義なんて実現しない、純真な心だけではずるい連中に利用され犠牲にされるだけだ、という局面ばかり体験してきたけど、まだ1936年は理想を語れた。というか、選挙で選ばれた人民戦線を武力で倒そうとするフランコを公然と支援するヒトラーをここで止めなくては…という危機感と熱い想いは今も僕の心に共振するものがある。そうして、そう思った多くのアメリカ青年がスペインにおもむき、銃弾に倒れた。そこでアメリカ人が歌を作った。

 「ハラマの歌
 スペインにハラマと言う谷がある。
 人々はそこを忘れない。
 大勢の同志が山麓に倒れ、
 ハラマでは至るところに花が咲く。
 国際旅団はハラマに残り、
 自由のスペインを守る。
 彼らの山を守ろうと誓い、
 残忍非道なファシストを倒す。

 メロディは、「レッドリバー・バレー」(赤い河の谷間)。西部開拓時代の白人とインディアンの女性の恋を描いたアメリカのフォークソング。聞いてみれば誰でも思い当たる曲。何とも言えない懐かしく切ない想いがあふれてくるメロディである。そしてこの曲が、どういう経緯でか(本の中で追跡されている)中国で歌われているという。今も小学生の音楽で歌われているらしい。何でだろうと言うまでもない。これは「反ファシズム」の歌だ。中国は反ファシズム陣営で戦った国で、「抗日」「反日」というのはつまり「反ファシズム」のことなのだ。日本では「反日教育」は「拝外的ナショナリズムをあおる教育」としか思わない人が多いが、それは「本質においては違う」のだと思う。

 前著の方は9章まであるので全部は紹介しないが、戦後直後からの東京の様々が語られる。特に「レッド・ダイパー・ベイビーとして」「ここは江戸川アパート?」が面白かった。そして最後の「同世代の脱走」でベトナム戦争での脱走米兵救援活動が語られている。この問題は近年かなり語られているので、ここでは書かないことにする。簡単に一言言えば、戦争が嫌だと軍を逃げだした兵隊を日本の庶民が必死に匿って逃がし通した。「現代の英雄」ではないか。「日本民衆の誇り」である。これが判らない人がいる。ソ連大使館に接触しソ連経由でスウェーデンに逃亡させたことがある。ソ連崩壊後、そのソ連側記録を発掘し、「ソ連の手先だった」などと言う人がいるし、ネット上に書く人もいる。事態の本質はどうたったかは本書に詳しい。米ソとも、諜報機関と言えども官僚機関なのである。鵜呑みにしてはいけない。

 「レッド・ダイパー・ベイビー」(Red Diaper Baby)というのは、「赤いおむつの赤ちゃん」、親が共産党員、さらには左翼活動家の両親に育てられた子供のことを指す言葉らしい。普通に使う言葉ではなく、「隠語」というか「仲間内の言葉」に近いらしい。スパイ容疑で死刑を執行されたローゼンバーグ夫妻事件の子供たちの話で始めながら、室さんは自分の親のことを語っていく。自分も一種の「レッド・ダイパー・ベイビー」だったのだと。そういう人はけっこう多いのではないか。少し古くなったけど、10年ちょっと前には親が全共闘世代で子どもよりラディカル、ロックばっかり聞いて育ったような子どもが時々いた。日本で一番典型的なのは、父親が共産党代議士だった米原昶(いたる)の娘、米原万里(よねはら・まり 1950~2006)だろう。小学生のときに父の仕事でプラハに移り、共産党幹部の子ども専用のソ連政府が作ったソビエト学校でロシア語教育を受けた。この凄まじい体験を後に笑い飛ばすような痛快かつ痛切なノンフィクションにまとめた。そこまで行かなくても、小さな時代に「マイノリティ」として(例えば、戦争中に反戦的な言動をして監視されていた親とか、キリスト教の中でも少数グループの親とか)なんかに育てられた「誇りと傷」が、ある種のトラウマになっていると言う人もいるはずだ。親の主義や信仰を受け継いでくれる子どもばかりではないのだから。この問題を教えられたという意味は大きい。
コメント (2)
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