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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

梅原猛、市原悦子、橋本治、ミシェル・ルグラン等ー2019年1月の訃報

2019年02月06日 22時48分07秒 | 追悼
 2019年1月の追悼特集だが、かなり有名な人の訃報も多かったが僕にはあまり縁がない。小さな報じられ方の訃報から。まず松本昌次(まつもと・まさつぐ)、15日没、91歳。未來社で伝説的な編集者だったが、1983年に退社して影書房を設立した。ここは山田昭次先生の『金子文子』や尹東柱の詩集を刊行した出版社なのである。本人の著書もあるが、僕は読んでない。

・元全患協(全国ハンセン病患者協議会)事務局長の鈴木禎一。16日没、103歳。鈴木禎一という人はずいぶん前のハンセン病活動家で、いろいろと伝説的な人だった。非常に早くから強制隔離政策に反対していた人で、僕はもう名前しか知らない。100歳を超えて存命だったことに驚く。
米沢富美子、17日没、80歳。物理学者、慶応大学名誉教授。女性科学者の代表的存在として知られ、一般向けの著書も多かった。女性で理系のキャリアを切り開いた先駆者である。
 六角鬼丈(ろっかく・きじょう)、12日没、77歳。建築家。東京武道館を設計した人。

 アメリカの映像作家、ジョナス・メカスも長命だった。23日没、96歳。60年代のアメリカ前衛アート運動の中心人物の一人。独立国だった時代のリトアニア生まれで、1949年に渡米した。1972年に発表された「リトアニアへの旅の追憶」はソ連時代のリトアニアへ旅行して個人でカメラを回した日記映画。ソローの「ウォールデン」の映画も有名。アメリカのみならず、個人映画の最高峰と言える。「メカスの映画日記」など著書も多く、日本でも影響を与えた。

 フランスの映画音楽作曲家、ミシェル・ルグランが26日没、86歳。ちょっと前にフランシス・レイが亡くなった。フランシス・レイの方が大きく報じられ感じだが、僕はミシェル・ルグランの方が思い出深い。アメリカ映画「華麗なる賭け」や「思いでの夏」で素晴らしく抒情的なスコアを書いた。しかし、やっぱり60年代のフランス映画が最高だろう。特にジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」。最近見られるようになった「天使の入り江」も素晴らしい。ゴダールやヴァルダの映画も多い。ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」はフランシス・レイと共作。
 (ミシェル・ルグラン)
 俳優の市原悦子が12日没、82歳。俳優座出身で、舞台はもちろん映画にもずいぶん出ていた。でも、何だかほとんど記憶はテレビになってしまう。ナレーションのうまさで、ずいぶん前から名前だけは知っていたと思う。「家政婦が見た」(1983~2008)は名前は知ってるけど、時期的に全然見てない。「君の名は。」でも祖母の声をやってたと言われると、そうだったっけとなる。今村昌平監督の「黒い雨」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受けたと言われると、そうだったっけと思う。実は声しか思い出せないという人なのである。
 (市原悦子)
 歌手で女優、声優の天地総子(あまち・ふさこ)が6日没、78歳。かつては誰でも知っている有名人だったけれど、もう覚えてる人も少ないだろう。コマーシャル・ソングを2000曲以上も歌ったということで知られる。「ライオネス・コーヒー・キャンディ」って、時々無意識に口ずさんでしまうぐらいだ。NHKの「連想ゲーム」の女性陣キャプテンで、70年代ごろには大活躍していた。最近は福祉活動に力を入れていて、「あゆみの箱」代表として東京都の精神障害者スポーツ大会であいさつをしていた。今月の訃報の中で、ナマで見たことのあるただ一人である
 (天地総子)
 テレビと言えば、兼高かおるが5日に死去した。90歳。訃報が非常に大きかったので驚いた。「兼高かおる世界の旅」という旅行番組を日曜日の午前中にやっていた。それが1960年から1990年まで30年も続いたのである。だから当時は誰でも知っていた。その頃のことを覚えている人がまだマスコミの中にいるのだろう。今のように海外旅行が自由じゃない時代に始まり、世界中を飛び回る姿がまぶしかった。今じゃ内外を旅する番組は山のようにあるけど、すべてはここから始まる。テーマ曲がいいなと思ったら、アメリカ映画「80日間世界一周」のテーマ曲だと後で知った。
 (兼高かおる) 
 作家の橋本治が20日没、70歳。いまの感覚ではまだまだ若いので、ビックリした。東大駒場祭のポスターで知られたけど、僕にとっては「桃尻娘」の人。映画にもなったし、後に「桃尻語訳枕草子」で知られた。この時代の「現代口語文」は画期的だった。だから僕は一時はずいぶん買っていて、「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」「革命的半ズボン主義宣言」なんて不思議な名前の評論も持ってる。90年代に「窯変源氏物語」が順次刊行され、僕もあるときまで読んでいた。光源氏一人がたりの源氏物語で、素晴らしく面白い気がしたけど多忙な時代で途中で飽きた。同じころ「江戸にフランス革命を!」という素晴らしい題名の評論も読んだけど、つまらんと思った。その後もものすごくたくさん書いてるけど、全然読んでない。21世紀に書いてたものの評価は全然できない。
 (橋本治)
 梅原猛が12日に死去、93歳。今月の一番大きな訃報だった。肩書は「哲学者」で、決して歴史学者ではない。国際日本文化研究センターを中曽根に直訴して作ったし、一般向けの本も売れた。そういう人には文化勲章が付いてくる。確かに素晴らしく面白い本もあったと思う。(「水底の歌」など。)でもどう考えても、単なる思い付きとしか思えないものも多かったと思うけど。僕のベースは実証歴史学だから、梅原古代史には否定的なのである。ましてや「ヤマトタケル」なるスーパー歌舞伎など、なんで作るのか。ヤマトタケルに征服された側を描くなら判るけど。晩年に9条護憲を唱えたけれど、今まで何度も書いてきたように「象徴天皇制」と「憲法9条」は相補う関係にあるから、これはリベラルとかいう問題じゃない。「現代の国学者」というべき人だったんじゃないかと思ってる。
 (梅原猛)
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2919年サッカー・アジアカップを振り返る

2019年02月05日 23時02分25秒 | 社会(世の中の出来事)
 男子サッカーのアジアカップの話。2月1日の日本時間午後11時にアラブ首長国連邦(UAE)で決勝が行われ、カタールが3対1で日本に勝って初優勝した。僕はけっこうスポーツ中継を見ている。大坂なおみの「全豪オープン」(オーストラリア・オープン)優勝も見てた。大相撲ももう見なくていいかなと思いつつ、最近は具合が悪かったので家でのんびりしてた日が多く、稀勢の里の最後の相撲も見てた。まあ書くこともないと思ってたけど、ちょっとアジア情勢を考えてみたい。

 サッカーの国際大会は比較的よく見る。アジアカップは準決勝、決勝が11時からだからちょっと遅いけど、まあ見れない時間じゃない。他の試合はもっと早かったから、日本代表の試合はほぼ見ていた。日本代表を熱狂的に支えているわけじゃないけど、基本的には日本チームを応援して見ている。日本ナショナリズムの高揚に反対だから、早く負けてしまった方がいいという人もいる。でも、そこまで言ったら身近に接している「庶民」と共通の言葉がなくなっちゃうと思う。自分の中にも「国民国家イデオロギー」が皆無ではないから、せめてスポーツ程度で発散しておきたい。

 まあその程度の気持ちで見ている。書こうかと思ったのは、次の2022年ワールドカップ・カタール大会に向けて、カタールの強化ぶりに驚いたからだ。サウジアラビアやUAEは、カタールと断交している。カタールの政策に関わらず、いきなり断交はムチャだろう。カタール国民は決勝の応援のためUAEに入国できなかった。それでも、一度もワールドカップに出場していないカタールが、アジアの頂点に立った。開始12分、アリのオーバーヘッドシュート、れは想定してなかった。
 (アリのシュート)
 僕はやはり一番強いのはイランだろうと思っていた。準決勝でイランと対戦して、負けても不思議はないと思っていたけど、完全に押さえ込んだ。非常に緊迫した試合で、前半は双方無得点。後半10分過ぎに、南野がボールに追いつきゴール前に蹴り込んだボールを大迫がヘディングでゴール。大迫も見事だが、なんといっても諦めなかった南野の執念だろう。献身を続けるとご褒美がある。直後にイランには不運なハンドの反則によるPKで日本にもう一点が入った。決勝では吉田のハンドでカタールにPKが与えられたが、やむを得ないだろう。それにしてもフォワードのアズムンを完全に抑えた富安の守備は素晴らしかった。
 (イラン戦の富安)
 このイラン戦を経験して、カタールにも勝てると油断したのかもしれない。そのぐらいイラン戦の日本は素晴らしく、一方のカタール戦は守備の穴が大きかった。長友が次のワールドカップ出場も厳しいと言ってるらしい。まったくその通りで、これでアジアチャンピオンのカタールには開催国枠が文句なく与えられるだろう。ロシア大会でアジアは「4・5枠」だった。最終予選グループAからイラン韓国、グループBから日本サウジアラビアが出場権を獲得。その後5位決定戦でオーストラリアがシリアに勝ち、さらに大陸間プレーオフでホンジュラスに勝って5か国目の出場権を得た。

 カタールに開催国枠が与えられれば、以上の5か国から必ず出場できない国が出る。それが日本かもしれないし、出場できるとしても大陸間プレーオフまでもつれるかもしれない。もちろん韓国やサウジアラビア、オーストラリアも危ない。カタール開催で中東、特にカタールと友好関係にあるイランは士気が上がるだろうし、他の中東諸国も地の利がある。こうなると、次のワールドカップ・アジア予選は戦国時代の様相になる。今回判ることは、アジア各国のサッカーの実力が近づいていることである。今回も1次リーグでヨルダンがオーストラリアを破って1位通過した。ベトナムは1次リーグを突破し、準々決勝でヨルダンに勝ってベスト8に進出した。

 日本もワールドカップロシア大会で格上のコロンビアに勝った。ワールドカップには出られないけど、アジアカップには出られた国は、今度は自分たちが同じように日本(や韓国やオーストラリアなど)に一泡吹かせようと狙ってくる。1次リーグの初戦、出場国でランキング最下位のトルクメニスタンに、3対2で辛勝した。前半26分に1点を入れられ、負けた状態で前半が終わったのである。まあ見ていて点差ほどの接戦ではなかったと思うけど、よもやの点差だった。オマーン戦も1対0。ウズベキスタン戦も先に失点し、同点に追いついて、後半に勝ち越した。いずれも接戦。

 女子スポーツ選手の収入ランキングを見ると、上の方はテニス選手が並んでいる。一方男子選手の収入ランキングでは1位はボクシングのメイフェザーだが、続いてメッシ、ロナウド、ネイマールなどサッカー選手が続いている。それを見れば、小国の子どもたちも頑張ればヨーロッパに行けて大金を稼げると思うだろう。ヨーロッパは遠いとしても、日本や中国でプレーするのはできるかもしれない。現にJリーグでプレーする東南アジア選手も増えている。団体競技には個性だけでなく規律も必要だから、学校スポーツで団体競技に触れれば産業発展にもつながる。東アジア、中東諸国に続き、東南アジア、中央アジア諸国が台頭しつつある流れは、やがてスポーツを超えて政治、経済、文化全般に及んでくるだろう。
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世界史の中の三一運動-三一運動を考える②

2019年02月04日 22時00分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 1919年3月1日、日本支配下の朝鮮で大規模な独立運動が起きた。その日、「民族代表」の33人(天道教15人、キリスト教16人、仏教2人)がパゴダ公園(現タプコル公園)に集まり、独立宣言を読み上げることを計画した。実際は違う場所だったというが、宣言に署名した33人は直ちに逮捕された。公園には学生ら数千人が集まって、デモが行われた。宣言文は印刷されて天道教やキリスト教の組織により各地に配布されたという。(天道教は「東学」の後身の宗教団体。)
 (パゴダ公園にある三一運動のレリーフ)
 今は「タプコル公園」というが、ソウル市中心部にある旧「パゴダ公園」には何回か行っている。民族服を着た老人が集まっていて、独特なムードがある。名前の由来は国宝指定の仏塔で、それも興味深い。ここに三一独立運動の様々な場面を描くレリーフが作られている。ずいぶんたくさんあって、昔訪ねた時にわざわざリバーサルフィルムを持ってって、スライドを撮ってきた思い出がある。教材にしようと思ったんだけど、スライド映写機なんて学校からなくなってしまった。 

 三一独立運動(または三一運動)と呼ばれる民衆運動の推移、運動の広がりや弾圧を書き始めると長くなる。5年前なら頑張って書いたと思うけど、今はやめる。今書きたいのは、「世界史の中の三一運動」という観点である。1919年はアジア各地で独立運動が燃え盛るが、その最初が「三一運動」(その前の「2・8独立宣言」を含む)だった。

 最初に朝鮮で起きたきっかけは、朝鮮王朝最後の国王高宗(コジョン、1852~1919.1.21)の死だった。日本の王公族とされていたが、毒殺のうわさが流れる。インドや清国でも支配者が「抵抗のシンボル」になったことがある。民衆が旧時代を求めたわけではないだろう。新支配者に対する抵抗意識を、旧支配者に心寄せることで表現したということだ。1989年の天安門事件が胡耀邦の急死から始まったように、支配者の中に起きた偶然の死が民衆の心に火をつけた。

 1918年に第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まる。当時のアメリカ大統領ウィルソンは、「14か条の平和原則」を唱えた。その中に「民族自決」の原則が含まれていた。第一次大戦ではヨーロッパ東部にあったロシア帝国(ロマノフ朝)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国)、オスマン帝国の三大帝国が崩壊し、その後に数多くの新独立国が生まれた。欧州では確かに「民族自決」が実現したように見えた。(しかし、20世紀末のソ連崩壊、ユーゴスラヴィア内戦でさらなる独立国が生まれることになる。)

 アジア諸民族の中でも、パリ講和会議をきっかけに民族自決を求める動きが高まる。特に中華民国ではヴェルサイユ条約で日本が山東半島の権益を認められることへの反発が強かった。(日本は第一次大戦でドイツに宣戦布告し、ドイツ権益の中心、チンタオ(青島)を攻撃した。その後、「21か条要求」を突き付けて、多くの利権を獲得した。)1919年5月4日、北京の学生たち数千人が天安門広場からデモ行進した。これは朝鮮で起きた三一運動が直接影響を与えている。中国で起きた民族運動は「五四運動」と呼ばれ、中国現代史の起点とされている。

 東アジアにおいては「日本帝国主義への抵抗」が中心となった。しかしアジア全体を見渡してみると、イギリス帝国主義への抵抗運動も同時に起こっている。まずインドではガンディーによる非暴力抵抗運動サティヤーグラハ)は1919年4月に始まった。1919年4月13日に、有名なアムリットサル虐殺事件が起きた。この事件を機にガンディーの指導する不服従運動が進展した。

 ガジャール朝ペルシア(イラン)は、第一次大戦時にロシア(北部)とイギリス(南部)の保護下に置かれた。ロシア革命後、イギリスは全イランの保護国化を図り、1919年8月9日に「イギリス・イラン協定」が結ばれた。それに対して各地で反英運動が起こり革命的な情勢となった。ガジャール朝は1921年に崩壊し、パフレヴィー朝につながる。またエジプトでも名目上の宗主国だったオスマン帝国の崩壊後、事実上エジプトを保護国にしていたイギリスに対する抵抗運動が起こり「1919年エジプト革命」が起きた。

 インドネシア独立の父スカルノやヴェトナムのホー・チ・ミンらが歴史の前面に登場するのは、もう少し後になる。まず朝鮮、中国、インド、イラン、エジプトなどで反帝国主義抵抗運動が起こったのはもちろん理由がある。これらの国々では前近代の段階で、事実上の「国民国家」に近いものが成立していた。インドネシア、マレーシア、フィリピンのように、前近代には現在のような領域国家が成立していない地域、欧米列強の支配により領域が規定された地域では、独立に向けた抵抗運動が遅くなるわけだ。
 
 この時代には、日本でも多くの民衆運動が起きていた。1919年に新婦人協会、1921年に日本労働組合総同盟、1922年に全国日本農民組合などである。これらも続々と100周年を迎える。その歴史的意義を正しく継承していくためにも、まずは三一独立運動の歴史的意義を正当に評価する必要がある。すぐには独立を達成できなかったとはいえ、歴史を「百年の計」で考えたとき正義がどちらにあったか、自明だろう。ガンディーに先がけた非暴力抵抗運動という意味でも、三一運動の世界史的意義は大きい。
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「2・8独立宣言」100年ー三一運動を考える①

2019年02月02日 22時39分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 1919年3月1日。日本支配下の朝鮮で、「三一独立運動」が始まった日である。もうすぐ100周年になる。この「三一独立運動」を歴史の中でどう考えるべきか。2回に分けて書いてみたい。まずは三一運動の火種になったと言われる「2・8独立宣言」のこと。3月1日のちょうど3週間前、東京の「在日本東京朝鮮YMCA」(現在の名称は「在日本韓国YMCA」に朝鮮からの留学生たちが集まり、「独立宣言」を発した。「YMCA」は「キリスト教青年会」のことである。
 (独立宣言記念碑)
 在日本韓国YMCAは、千代田区神田猿楽町にある。明治大学から水道橋方面へ行ったところで、アテネフランセの真下あたり。ちょうどアテネフランセ文化センターに映画を見に行ったので、その前に寄ってみた。2008年に「2・8独立宣言記念資料室」ができたということだが、事前予約が必要だというので、今回は見なかった。玄関前に「独立宣言記念碑」が建っている。上の写真がそれだが、東京のど真ん中にこういう碑があることを知らない人も多いんじゃないか。

 後の中国首相、周恩来がこの時近くにいた。1917年に来日、現在の明大で勉強して1919年4月に帰国した。神保町の公園に「周恩来ここに学ぶ」の碑が建っている。まさに「2・8独立宣言」の時点で、すぐ近くにいたのである。今も続く漢陽楼という中華料理店は、周恩来ゆかりの店として知られている。アジアで最初に近代化に「成功」した日本には、多くのアジア留学生が集まっていた。歴史のなかで一瞬、東京がアジアの革命都市だったのだ。

 「東京朝鮮YMCA」は併合前の1906年に開設され、ずっと留学生たちが集う場所になってきたという。この独立宣言後、日本官憲はYMCAを独立運動の策動地とみなして、日本のキリスト教会の管轄下に置こうとしたという。しかし、日本人も含む関係者の抗議で阻止されたとYMCAのウェブサイトに書かれている。独立宣言に署名した11人のうち9名が逮捕されたが、布施辰治らの弁護活動で内乱罪ではなく出版法違反という微罪になった。
 (2・8独立宣言を発したメンバー)
 2名が逮捕されなかったわけだが、それは検束を予想してメンバーのうち2人は集会に参加せず朝鮮に向かったからだ。そこで「2・8独立宣言」が三一運動に影響を与えることになった。1919年は次回に書くように、アジアの被圧迫民族の抵抗の狼煙が上がった歴史的な年である。その中で、「2月8日」という日付は最も早い。東京の一角で世界史が動いた。
 
 「独立宣言」そのものはかなり長いので、ここでは省略する。在日本韓国YMCAのサイトにある「2・8独立宣言記念資料室」に日本語と韓国語で掲載されている。
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中国映画「迫り来る嵐」

2019年02月01日 23時32分50秒 |  〃  (新作外国映画)
 2017年の中国映画「迫り来る嵐」が1月上旬に公開された。こんな題名の映画をやるから、嵐が解散しちゃうじゃないかなんて言われてるとかいないとか(ウソ)。習近平政権の影響か、最近の中国映画は元気がない。エンタメ系作品はともかく、シリアスな中国映画が少なくなった。(代わって韓国映画がまた面白くなったけど。)でも、中国映画にも注目はしている。2017年の東京国際映画祭で、主演男優賞と芸術貢献賞を受賞したこの作品は見逃せない。風邪で寝てた間に見やすい時間の上映が終わっちゃって、もうロードショーも最終盤だけど、これは見ておきたい。

 数年前に「薄氷の殺人」という映画があったが、「迫り来る嵐」も似た感じがある。あるいは中国版「殺人の追憶」(ポン・ジュノ監督の韓国映画)という宣伝も当たっている。とにかく画面が暗い。内容も暗い。暗くて重いから、忘れがたく心の奥に届くのである。冒頭で男が出所してくる。ユィ・グオウェイ(ドアン・イーホン)という名前である。身分証明書を作るため漢字を問われる。「余国偉」と書くらしい。そんな男が何をしたというのか。

 この映画が今までにないのは、殺人事件を追うミステリーでりながら、「刑事もの」じゃないことだ。1997年、香港返還の年。20年前の中国のある地方都市は、まだ国営企業が中心で現代化が進んでいない。町を支配するのは大きな製鋼所で、ユィはその会社の警備員である。備品を窃盗する者は絶対に許さず犯人を捕まえる。だから「余名探偵」と会社で呼ばれている。そんな町で連続女性殺人が起きて、ユィはわがことのように事件にのめり込んでゆく。

 警官でもないのに自主的に捜査を始めたユィは、遺体発見場所を見に行ったり、犯人が女性と知り合ったかもしれない場所(街頭のダンスホールみたいなところ)に行く。そして謎の男に遭遇したり、被害者に共通性を見出したりする。そして次第にユィは暴走してゆく…。こんなに画面も展開も暗い映画も珍しい。寒そうに雨が降り続くから北の方かと思うと、ラストにこの年は南の方も寒波が来たと字幕が出る。香港に行けるようになるのかというセリフもあるから、案外南の方らしい。しかし明るいシーンは全くなく、人物の暗い情念を映し出すような画面になっている。

 1976年生まれのドン・ユエ(董越)の初めての監督・脚本作品。犯罪映画というジャンルから新しい才能が出てくることがある。共同体の崩れゆく中国社会の揺らぎを犯罪という視角で切り取っている。ドン・ユエは作家性の高さを感じさせる妥協のない映画を作った。一体何が現実なのか幻想なのか、それすら判らないラストも素晴らしい。まだ粗削りながら、要注目だと思う。
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