尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「2・8独立宣言」100年ー三一運動を考える①

2019年02月02日 22時39分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 1919年3月1日。日本支配下の朝鮮で、「三一独立運動」が始まった日である。もうすぐ100周年になる。この「三一独立運動」を歴史の中でどう考えるべきか。2回に分けて書いてみたい。まずは三一運動の火種になったと言われる「2・8独立宣言」のこと。3月1日のちょうど3週間前、東京の「在日本東京朝鮮YMCA」(現在の名称は「在日本韓国YMCA」に朝鮮からの留学生たちが集まり、「独立宣言」を発した。「YMCA」は「キリスト教青年会」のことである。
 (独立宣言記念碑)
 在日本韓国YMCAは、千代田区神田猿楽町にある。明治大学から水道橋方面へ行ったところで、アテネフランセの真下あたり。ちょうどアテネフランセ文化センターに映画を見に行ったので、その前に寄ってみた。2008年に「2・8独立宣言記念資料室」ができたということだが、事前予約が必要だというので、今回は見なかった。玄関前に「独立宣言記念碑」が建っている。上の写真がそれだが、東京のど真ん中にこういう碑があることを知らない人も多いんじゃないか。

 後の中国首相、周恩来がこの時近くにいた。1917年に来日、現在の明大で勉強して1919年4月に帰国した。神保町の公園に「周恩来ここに学ぶ」の碑が建っている。まさに「2・8独立宣言」の時点で、すぐ近くにいたのである。今も続く漢陽楼という中華料理店は、周恩来ゆかりの店として知られている。アジアで最初に近代化に「成功」した日本には、多くのアジア留学生が集まっていた。歴史のなかで一瞬、東京がアジアの革命都市だったのだ。

 「東京朝鮮YMCA」は併合前の1906年に開設され、ずっと留学生たちが集う場所になってきたという。この独立宣言後、日本官憲はYMCAを独立運動の策動地とみなして、日本のキリスト教会の管轄下に置こうとしたという。しかし、日本人も含む関係者の抗議で阻止されたとYMCAのウェブサイトに書かれている。独立宣言に署名した11人のうち9名が逮捕されたが、布施辰治らの弁護活動で内乱罪ではなく出版法違反という微罪になった。
 (2・8独立宣言を発したメンバー)
 2名が逮捕されなかったわけだが、それは検束を予想してメンバーのうち2人は集会に参加せず朝鮮に向かったからだ。そこで「2・8独立宣言」が三一運動に影響を与えることになった。1919年は次回に書くように、アジアの被圧迫民族の抵抗の狼煙が上がった歴史的な年である。その中で、「2月8日」という日付は最も早い。東京の一角で世界史が動いた。
 
 「独立宣言」そのものはかなり長いので、ここでは省略する。在日本韓国YMCAのサイトにある「2・8独立宣言記念資料室」に日本語と韓国語で掲載されている。
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