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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

世界史の中の三一運動-三一運動を考える②

2019年02月04日 22時00分25秒 |  〃 (歴史・地理)
 1919年3月1日、日本支配下の朝鮮で大規模な独立運動が起きた。その日、「民族代表」の33人(天道教15人、キリスト教16人、仏教2人)がパゴダ公園(現タプコル公園)に集まり、独立宣言を読み上げることを計画した。実際は違う場所だったというが、宣言に署名した33人は直ちに逮捕された。公園には学生ら数千人が集まって、デモが行われた。宣言文は印刷されて天道教やキリスト教の組織により各地に配布されたという。(天道教は「東学」の後身の宗教団体。)
 (パゴダ公園にある三一運動のレリーフ)
 今は「タプコル公園」というが、ソウル市中心部にある旧「パゴダ公園」には何回か行っている。民族服を着た老人が集まっていて、独特なムードがある。名前の由来は国宝指定の仏塔で、それも興味深い。ここに三一独立運動の様々な場面を描くレリーフが作られている。ずいぶんたくさんあって、昔訪ねた時にわざわざリバーサルフィルムを持ってって、スライドを撮ってきた思い出がある。教材にしようと思ったんだけど、スライド映写機なんて学校からなくなってしまった。 

 三一独立運動(または三一運動)と呼ばれる民衆運動の推移、運動の広がりや弾圧を書き始めると長くなる。5年前なら頑張って書いたと思うけど、今はやめる。今書きたいのは、「世界史の中の三一運動」という観点である。1919年はアジア各地で独立運動が燃え盛るが、その最初が「三一運動」(その前の「2・8独立宣言」を含む)だった。

 最初に朝鮮で起きたきっかけは、朝鮮王朝最後の国王高宗(コジョン、1852~1919.1.21)の死だった。日本の王公族とされていたが、毒殺のうわさが流れる。インドや清国でも支配者が「抵抗のシンボル」になったことがある。民衆が旧時代を求めたわけではないだろう。新支配者に対する抵抗意識を、旧支配者に心寄せることで表現したということだ。1989年の天安門事件が胡耀邦の急死から始まったように、支配者の中に起きた偶然の死が民衆の心に火をつけた。

 1918年に第一次大戦が終わり、パリ講和会議が始まる。当時のアメリカ大統領ウィルソンは、「14か条の平和原則」を唱えた。その中に「民族自決」の原則が含まれていた。第一次大戦ではヨーロッパ東部にあったロシア帝国(ロマノフ朝)、オーストリア=ハンガリー二重帝国(ハプスブルク帝国)、オスマン帝国の三大帝国が崩壊し、その後に数多くの新独立国が生まれた。欧州では確かに「民族自決」が実現したように見えた。(しかし、20世紀末のソ連崩壊、ユーゴスラヴィア内戦でさらなる独立国が生まれることになる。)

 アジア諸民族の中でも、パリ講和会議をきっかけに民族自決を求める動きが高まる。特に中華民国ではヴェルサイユ条約で日本が山東半島の権益を認められることへの反発が強かった。(日本は第一次大戦でドイツに宣戦布告し、ドイツ権益の中心、チンタオ(青島)を攻撃した。その後、「21か条要求」を突き付けて、多くの利権を獲得した。)1919年5月4日、北京の学生たち数千人が天安門広場からデモ行進した。これは朝鮮で起きた三一運動が直接影響を与えている。中国で起きた民族運動は「五四運動」と呼ばれ、中国現代史の起点とされている。

 東アジアにおいては「日本帝国主義への抵抗」が中心となった。しかしアジア全体を見渡してみると、イギリス帝国主義への抵抗運動も同時に起こっている。まずインドではガンディーによる非暴力抵抗運動サティヤーグラハ)は1919年4月に始まった。1919年4月13日に、有名なアムリットサル虐殺事件が起きた。この事件を機にガンディーの指導する不服従運動が進展した。

 ガジャール朝ペルシア(イラン)は、第一次大戦時にロシア(北部)とイギリス(南部)の保護下に置かれた。ロシア革命後、イギリスは全イランの保護国化を図り、1919年8月9日に「イギリス・イラン協定」が結ばれた。それに対して各地で反英運動が起こり革命的な情勢となった。ガジャール朝は1921年に崩壊し、パフレヴィー朝につながる。またエジプトでも名目上の宗主国だったオスマン帝国の崩壊後、事実上エジプトを保護国にしていたイギリスに対する抵抗運動が起こり「1919年エジプト革命」が起きた。

 インドネシア独立の父スカルノやヴェトナムのホー・チ・ミンらが歴史の前面に登場するのは、もう少し後になる。まず朝鮮、中国、インド、イラン、エジプトなどで反帝国主義抵抗運動が起こったのはもちろん理由がある。これらの国々では前近代の段階で、事実上の「国民国家」に近いものが成立していた。インドネシア、マレーシア、フィリピンのように、前近代には現在のような領域国家が成立していない地域、欧米列強の支配により領域が規定された地域では、独立に向けた抵抗運動が遅くなるわけだ。
 
 この時代には、日本でも多くの民衆運動が起きていた。1919年に新婦人協会、1921年に日本労働組合総同盟、1922年に全国日本農民組合などである。これらも続々と100周年を迎える。その歴史的意義を正しく継承していくためにも、まずは三一独立運動の歴史的意義を正当に評価する必要がある。すぐには独立を達成できなかったとはいえ、歴史を「百年の計」で考えたとき正義がどちらにあったか、自明だろう。ガンディーに先がけた非暴力抵抗運動という意味でも、三一運動の世界史的意義は大きい。
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