大阪市の吉村洋文市長が、学力テストの結果を教員の人事評価に反映させると2018年に言い出した。いろいろ検討を重ねた結果がまとまり、1月末に市教委が市総合教育会議に提示した。2019年度に試行し、2020年度から本格的に導入するという。全国の学力テストではなく、大阪独自テストを使用し、教員ではなく校長のみとする。大阪では小学3~6年生対象の「学力経年調査」と中学生対象の「チャレンジテスト」をやってるらしい。大阪の子どもたちはテスト漬けなんだ。
(大阪市吉村市長)
校長の人事評価や学校予算の配分に反映させるが、その方法は複雑で面倒だから省略する。すべてを学力テストだけで決めるというほど単純ではないけれど、大きな方向として「学校間の競争を促す」制度として設計しているつもりなんだろう。この制度はもちろん機能しないし、むしろ逆効果になるだろう。いろいろな批判もあがっているし、トンデモナイ制度だと思う。
「民間企業」が競争するのはいい。しかし「民間企業」はリストラや選別ができる。日産のゴーン前社長は大胆な工場閉鎖を断行した。ホンダもイギリスの工場を閉鎖するという。デパートやスーパーマーケットも地方に多い不採算店をどんどん閉鎖している。それらの方針は地方社会や従業員に大きな負担を強いるものだけど、経営方針上あるいは倫理上の問題はあるとしても企業には事業を選別する自由がある。そのうえで各企業間の自由競争がある。
教育においても、「私立学校」は小中でも受験生を選抜できる。だから進学やスポーツなどで、優れた生徒を集めて競争して実績を挙げることもできる。一方、公立の小中学校は(東京のように一部で「学校選択制度」を義務教育段階で取り入れたとしても)、地域の生徒はすべて受け入れなければならない。「選別」が自由にできないのに、競争だけ強いられる。それでは必ず不満がたまって、学校の雰囲気が悪くなるのは目に見えている。
今時「お前のような生徒は来なくてもいい」「テストの日だけでも休め」とか言ったら、いつ録画録音されているか判らない。表立ってはそういうことは言わないかもしれないが、テストによる競争政策が行われたら成績が悪い子どもは居心地が悪くなる。障害のボーダーにあるような子どもは、できるだけ特別支援学校に行って欲しいというムードが出てくる。そうなるに決まっていると思う。普通の感覚で見て、テストの成績で校長先生を評価するって「いじめ」じゃん。
それ以上に深刻だなあと思うのは、「トップを育てる」ことと「平均を上げる」ことの違いに鈍感なことだ。「走力」で考えてみる。例えば大阪の中学生が都道府県駅伝で活躍して欲しいと思う。その場合は、各学校のトップレベルの生徒を集めて、いろいろな方法で競わせることでタイムが向上するだろう。でも、「全国走力テスト」なんてものをやって、各学校の全生徒のタイムを平均して競うとしたら、どうだろう。走るのが速い生徒が頑張るだけじゃだめで、走力が中レベルの生徒の対策が必要だろう。また遅い生徒は家庭の生活環境などの問題も解決しないといけない。
「全国学力テスト」の結果というのも、もともとは生徒一人ひとりの成績の平均である。それを上げるためには、「下を排除する」か、「真ん中から下の生徒を伸ばす」のが有効だ。もちろん成績上位の生徒が頑張るのもいい。それも大事だけど、100点が上限なんだから、90点の生徒は10点しか伸びしろがない。「できる子」に「100点めざそう」というのもいいけれど、平均点を伸ばすという目標からすれば、真ん中以下の生徒に注力しないといけない。60点の生徒には40点の伸びしろ、30点の生徒には70点伸びしろがあるじゃないか。
だからテストの成績のいい学校に予算を配分するというのは、正しい政策ではなく逆効果になる可能性が高い。成績がいい学校はもっと良くなるかもしれないが、学校間格差が広がるだけである。むしろ平均点の低い学校にこそ予算を配分しないといけない。そこに集中して教員を加配するとか、教員以外の人材を活用して夜間・休日の補習教室を開くとか。さらに地域に課題がある場合も多いだろう。地域に開かれた学校を作り、「子ども食堂」や図書室、体育館などの開放で地域ぐるみの教育力アップを図るなど。
学力テストの成績にこだわること自体がおかしい。しかし、その結果に地域の課題が現れることもあるだろう。地域の課題を見つめることではなく、「校長の競争」で学力が上がるわけでもないし、むしろ校内で低学力生徒を排除するムードが出てくるなどの弊害が心配される。
(大阪市吉村市長)
校長の人事評価や学校予算の配分に反映させるが、その方法は複雑で面倒だから省略する。すべてを学力テストだけで決めるというほど単純ではないけれど、大きな方向として「学校間の競争を促す」制度として設計しているつもりなんだろう。この制度はもちろん機能しないし、むしろ逆効果になるだろう。いろいろな批判もあがっているし、トンデモナイ制度だと思う。
「民間企業」が競争するのはいい。しかし「民間企業」はリストラや選別ができる。日産のゴーン前社長は大胆な工場閉鎖を断行した。ホンダもイギリスの工場を閉鎖するという。デパートやスーパーマーケットも地方に多い不採算店をどんどん閉鎖している。それらの方針は地方社会や従業員に大きな負担を強いるものだけど、経営方針上あるいは倫理上の問題はあるとしても企業には事業を選別する自由がある。そのうえで各企業間の自由競争がある。
教育においても、「私立学校」は小中でも受験生を選抜できる。だから進学やスポーツなどで、優れた生徒を集めて競争して実績を挙げることもできる。一方、公立の小中学校は(東京のように一部で「学校選択制度」を義務教育段階で取り入れたとしても)、地域の生徒はすべて受け入れなければならない。「選別」が自由にできないのに、競争だけ強いられる。それでは必ず不満がたまって、学校の雰囲気が悪くなるのは目に見えている。
今時「お前のような生徒は来なくてもいい」「テストの日だけでも休め」とか言ったら、いつ録画録音されているか判らない。表立ってはそういうことは言わないかもしれないが、テストによる競争政策が行われたら成績が悪い子どもは居心地が悪くなる。障害のボーダーにあるような子どもは、できるだけ特別支援学校に行って欲しいというムードが出てくる。そうなるに決まっていると思う。普通の感覚で見て、テストの成績で校長先生を評価するって「いじめ」じゃん。
それ以上に深刻だなあと思うのは、「トップを育てる」ことと「平均を上げる」ことの違いに鈍感なことだ。「走力」で考えてみる。例えば大阪の中学生が都道府県駅伝で活躍して欲しいと思う。その場合は、各学校のトップレベルの生徒を集めて、いろいろな方法で競わせることでタイムが向上するだろう。でも、「全国走力テスト」なんてものをやって、各学校の全生徒のタイムを平均して競うとしたら、どうだろう。走るのが速い生徒が頑張るだけじゃだめで、走力が中レベルの生徒の対策が必要だろう。また遅い生徒は家庭の生活環境などの問題も解決しないといけない。
「全国学力テスト」の結果というのも、もともとは生徒一人ひとりの成績の平均である。それを上げるためには、「下を排除する」か、「真ん中から下の生徒を伸ばす」のが有効だ。もちろん成績上位の生徒が頑張るのもいい。それも大事だけど、100点が上限なんだから、90点の生徒は10点しか伸びしろがない。「できる子」に「100点めざそう」というのもいいけれど、平均点を伸ばすという目標からすれば、真ん中以下の生徒に注力しないといけない。60点の生徒には40点の伸びしろ、30点の生徒には70点伸びしろがあるじゃないか。
だからテストの成績のいい学校に予算を配分するというのは、正しい政策ではなく逆効果になる可能性が高い。成績がいい学校はもっと良くなるかもしれないが、学校間格差が広がるだけである。むしろ平均点の低い学校にこそ予算を配分しないといけない。そこに集中して教員を加配するとか、教員以外の人材を活用して夜間・休日の補習教室を開くとか。さらに地域に課題がある場合も多いだろう。地域に開かれた学校を作り、「子ども食堂」や図書室、体育館などの開放で地域ぐるみの教育力アップを図るなど。
学力テストの成績にこだわること自体がおかしい。しかし、その結果に地域の課題が現れることもあるだろう。地域の課題を見つめることではなく、「校長の競争」で学力が上がるわけでもないし、むしろ校内で低学力生徒を排除するムードが出てくるなどの弊害が心配される。