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絵本の話を中心に、好きなもの、想うことなど。

そのドアを開けるまで

2006-04-05 18:05:42 | 好きな本

 かれこれ6週間も、この本を借り続けています。
 
 一旦は返却したのですが、「本日返却分」の棚に並んでいるのを見て、また手にとり、さらに次の2週間が過ぎて、同じことを繰り返してしまいました。
 読み終わってはいるけれど、なんだか、大切なことを見落としているようで、手離すのが心許ない気持ちなのです。(だったら購入したほうがいい、と自分でも思うのですが)

読む力は生きる力

『読む力は生きる力』

 脇 明子・著






 著者の脇明子さんは、 長年、大学生を教え、「子どもの本の会」を主宰してきた 方です。
「はじめに」のところと、目次(第1章から第7章まで)を読んだけでも、この本の奥深さと、子どもたちへの思いの細やかさが伝わってきます。

 第1章は「読むことはなぜ必要なのか」 
 
小さな見出しが 読書はほんとうに大切か  「本なんか読まなくても、立派に育った」時代  というふうに続いていきます。
 著者はこの第1章の中で、子どもたちにとって大事なのは、本を読むという行為そのものではない、と言っています。なぜなら、その昔の子どもたちは本を読まなくても、共同体の中で、大人たちと生活文化を共有し、生きていく上で基本となる大切なことを、自然に学びとることができたからです。しかし、社会構造が変化し、共同体というものがほとん機能しない現代社会では、その代わりとしての「伝えていく」手段を、読書にゆだねるほかないので、読むことが必要になってきたというのです。

 本文19ページから20ページに、こう書かれています。
 身のまわりの物事を楽しみ、生活にちょっと手間をかけて彩りを添えることは、人間にささやかな自尊心を与えてくれます。そうやって手に入れた自尊心は、ささやかではあってもゆらぎはせず、積もり積もってしっかりしたものに育っていきます。それがあれば、勝ち負けに悩むことも他人を見下すこともなく、ゆったり構えていられますし、年を取ろうと、貧しくなろうと、逆境におちいろうと、自尊心をまるごと失ったりせずにすみます。それが文化というもののありがたさで、大人はその楽しみ方を子どもに手渡していかねばなりません。読書の楽しみも、そのひとつなのです。

 
そして、第1章は 自分がほんとうにいいと思う本を子どもに手渡し、楽しんで読めるように手を貸すことーそれが、生活文化を失った時代の私たちが、子どもたちのためにしてあげられる、数少ないことのひとつなのではないでしょうか。  と結ばれています。

 この第1章の結びの言葉は、小学校での「読み聞かせ」に関わるものとして、胸に留めていなければならないことだと思います。心から納得し、読んでいる私の気持ちは、さっぱりと晴れやかでした。

 しかし、第3章「絵本という楽園の罠」 を読んでいるうちに、気持ちはみるみる曇りだし、不安が募り始めました。そこには、いまの大学生たちの中に、絵本を読み聞かせてもらって育ち、それを幸せな思い出としていながらも、「本を読むのは苦手」「読もうとしても頭に入ってこない」「自分で読むのはめんどう」などと言う人たちが、目立って増えてきつつある と言う事柄について書かれていたからです。そういう学生たちは、絵や写真のある本を見るのは好きだが、文字だけの本は見る気がしないと言い、さらに、本についても「読む」ではなく、「見る」という表現を使うのだそうです。

 なぜ、そういう現象が起こるのか。「絵本のあまりのきらびやかさ」を著者は一因に挙げています。美しい絵、画家がその手腕を思う存分発揮した絵本が増えている現状に、大人が「踊らされてしまい」、本来の目的「絵本は子どものためのものであり、絵は、お話の世界へ入っていく手助け」ということを、忘れていることを指摘しています。大人が自分自身の楽しみのために見る絵本と、子どもが想像のアンテナを伸ばし、物語の世界へ入っていくのを助ける絵本とは、別のものだと認識していなければならないのです。

 私は私に尋ねます。「自分が楽しい、おもしろいというだけの理由で、絵本を選んでいなかっただろうか」
 私は私に問いかけます。「今年10歳になる娘は、物語の世界へ続くドアに手をかけ、中に入っていくことができるだろうか。あるいはもう、ドアを開け、そこに広がる世界を知っただろうか」

 
 物語を読む楽しさ。読むことによって、自分の頭の中にひろがっていく世界。読書のそんな醍醐味を私はよく知っています。
 前述の大学生たちは、ドアの前に立っただけで、中へ入っていかなかったのです。ただドアだけ見ていたのでは、少しもおもしろいことなんかありません。誰もドアの開け方を教えてあげなかったのか、あるいは、その子自身に、好奇心という力がわかなかったのか。いずれにしても、とても残念なことであり、とてもこわいことだと思います。

 本を開けば、ドアを開いて別の部屋へ行くように、物語の世界は常にそこにはあり、それはどんなによくできている映画でも越えることはできません。いくら原作に忠実で、どんな技術を駆使しても、それは所詮誰かが考えた、誰かの映像なのですから。
 
 もしも今、私の娘が「ドアの前」に立っているのなら、さあ早く、「外」の世界(それは同時に「中」の世界でもあるのですが)へ、という気持ちでいっぱいです。代わりにドアを開けてあげることができるのなら、すぐにでもそうしてしまうかもしれません。けれど、ドアの開け方を教えることはできても、自分のドアを開けるのは、自分自身しかいないということを知っているので、私は側でただ見ています。
 「待ってるからね」。


 
 
 

コメント (8)
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