prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「226」

2025年02月11日 | 映画
オープニングからしばらくの青年将校たちの決起は緊迫感が続くが途中からダレてくる。
笠原和夫脚本とすると「日本暗殺秘録」の一部で試みたようにファナティシズムで貫徹できればしたいところだったかもしれないが、長編をそれで通すのはムリ。

天皇をゴドーみたいに一切出さずに将校たちがその“大御心”に一方的に期待あるいはすがっているもので、決起を諌めるビラが撒かれ、ラジオで天皇の御心を伝える放送が流れると何を信じていいのかわからなくなり混乱する。

青年将校たちの行動と心情にほぼ絞っているわけだけど、なんでまた途中から女たちとの思い出に逸れちゃうのですかね?

本木雅弘はシブがき隊を抜けて間もない頃だったはずだが、「坂の上の雲」を経て初めから青年将校だったのではないかと思えるはまりっぷり。

すごいような豪華キャストで、人数は多いは階級、立場はバラバラだわで、エンドタイトルは五十音順で流している。

YouTubeの期間限定無料配信にて。
 



「 ブラザー 富都(プドゥ)のふたり」

2025年02月10日 | 映画
マレーシアのクアラルンプールのスラムとそれを睥睨するような超高層ビルの対照。貧富の差特に富のいびつな集中は国の違いを問わない。

主役の義兄弟の兄が聴力障害者で手話を使うのに日本語字幕がつくのだが、マレーシア語の手話に日本語字幕をつけたということになるのだろうか。チェックはどういうプロセスで行われたのだろう。

世話するNPOの女性を殺してしまうというのは、「どですかでん」「赤ひげ」の不幸すぎる人間が親切を拒絶する心理みたいなものだろうか。

マレーシアの刑務所の食事というのがタイ米に薄いスープ数種類を一枚のプレートに盛り付けたものでスプーンもついていない。実際はどうなのか知らないが当たらずといえども遠からずだろう。

ゆで卵を互いの頭にぶつけて割るのが貧しさと親しさを共に表現している。





「ドリーミン・ワイルド 名もなき家族のうた」

2025年02月09日 | 映画
昔アルバムを自主制作して売り出した兄弟のところにそのLPを聴いたというプロデューサーから再発売したいと申し入れがある。音楽メディアがLPだからずいぶん昔のことになる。
兄弟のところではスマートフォンもパソコンもインターネットも使っていない。親夫婦も同様。

再発に合わせてツアーをやるが、弟ドニーには久しぶりに再会した兄ジョーのドラムスがトロく聴こえて仕方ない。LP自体、新しく生み出したわけでもなく遺産で食べるようなものだし、聴衆もむしろ昔の歌の方を喜ぶのだが、弟は苛立って停滞するのを嫌う。明らかに芸術家気質の持ち主であり、才能は兄も父も認めている。弟もそれがわかるだけになお苛立つ。

フラッシュバックで父親が倒れるところが挟まるが、前もって父親が現在無事なところを見せているから安心はできる。心労で倒れるのがわかるのはさらに後という具合に時制が行き来する。

ドニーの若い時と中年の時を同じ画面に収めるといった昔なら「野いちご」といった芸術映画でしか採用しなかった技法を使っていて、アップショットが焦点深度を思い切り浅くしてボケ味を生かしたのが、過去にしまって蓋をしていた記憶が蘇りかかったようなニュアンスを出す。

ラストでまた一段、フェーズが変わって驚かせる。





「型破りな教室」

2025年02月08日 | 映画
「いまを生きる」みたいな型破り教師の役かなと思ったし、現にロビン・ウィリアムスみたいに机の上に(靴を抜いで)上がるシーンがあったりする。

ただアメリカのエリート校が舞台だった「いまを生きる」とは違ってメキシコの最底辺の、近くではドラッグが蔓延している、校内でも成績を上げるため堂々と公的カンニングが行われていたり、パソコンを買う補助金がピンハネされていたりと、ちょっととんでもなく酷い環境の学校が舞台。

型破りのフアレス教師役は「コーダ あいのうた」の音楽教師役でも注目を集めたエウヘニオ・デルベスで、才能のある子に奨学金を申請するのを勧めるのも一緒。

原題はRADICALで、革新的という意味と共に根源的という意味もある。
物体の比重を考えていく過程で、では人体みたいな複雑な形の物体の容積を測るにはどうするかということになり水に沈めて測るという方法を考えさせて導く。アルキメデスが風呂に浸かってあふれたお湯を見て容積を測る方法を思いついたのと同じ理屈で、できあいの公式を覚えるより根源的な学びを身につける。

これは2012年の話だが、成績のいい女の子がメキシコとアメリカの国境近くで天体望遠鏡をのぞいてNASAの施設のスペースXを見て憧れるというシーンはかなり今となると皮肉。イーロン・マスクがスペースXの株を取得するずっと前だ。

メキシコでは小学生で日本の大学入学共通テストみたいな共通テストを受ける必要があるらしい。テストの前に受験生が集まってガヤガヤやっているのにえ?と思う。日本だったら誰か注意するだろうけれど、メキシコだと緩いのか芝居のつけ方の問題か。





「遺書、公開。」

2025年02月07日 | 映画
なじみのない若手俳優が大勢出てくるので、見分けがつくかどうか不安だったが、この点はほぼクリアしていた。
「ベイビーわるきゅーれ」の髙石あかりはおなじみだったが(朝ドラの主役の放映が始まったら日本中でおなじみになるだろう)、それを見越したのかどうか、序列で一番になったのに自殺した子の花瓶が置かれたすぐ後ろの席にピンクの上着を羽織って座っているので目立ちます。

どういうわけかD組の生徒(と担任教師)に序列がつけられ、その全員に女生徒の遺書が配られて、その遺書をそれぞれが朗読していくなんて、なんでそんな手間ヒマと時間かけなくちゃならんのだ(一日では終わらず何日もかかるのですよ)としか言いようがないし、序列のビリとかブービーはどうなっているのか、底辺の方が圧力キツそうだがそのあたりもはっきりせず、スクールカーストの上位の方がキツいという理屈もなんだかよくわからない。
あとで考えてみると長期欠席しているらしい女の子がビリということになるのだが、必ずしもビリだから欠席していたというわけでもないだろう。

リアリティなんて言い出したら最初から無理矢理なお話なのだが、それを気にさせないワザがあるかといったら、どうも心もとない。
よくある限られた空間にいる集団がひとりづつ殺されていく話のバリエーションと考えていいだろう。

舞台劇みたいにスタティックになってもおかしくない二時間強の長さをかなり細かいカット割で時制や解説的な画像、各人の主観立場を交錯させながら描く語り口は、一応の勢いはある。
教壇から見た教室のモヤッとした画像(に、LINE風のトークがかぶる)は一体なんだろうと思わせて最後にわからせる、と言いたいところだが、これまたなんだかよくわからない。しかも妙なおまけがつく。





「勇敢な市民」

2025年02月06日 | 映画
元ボクシングのチャンピオンの教師が、非正規雇用ゆえに親の権威をかさに着てやりたい放題の生徒をやむを得ず見て見ぬふりをしていたが、堪忍袋の緒が切れてネコのマスクをかぶって試合を挑むというお話。

ネコのマスクって、タイガーマスクのパロディか何かか?原作はマンガらしい。
ボクサーが踵落としするというのも、相当無理矢理で、総合格闘技がごっちゃになった
観客がネコのマスクかぶっているのが女だとわからないというのもマンガっぽい。





「室町無頼」

2025年02月05日 | 映画
体格からいっても堤真一が立役で、大泉洋は本来の万能カードとしてのジョーカー的立ち位置。
アナーキズム的な新作映画が「十一人の賊軍」に続いて出てきたともいえるけれど、集団抗争時代劇の時代だと撮影所というシステムが機能していたから逆にアナーキーになれたともいえるので、今みたいにバラバラになっているとわざわざアナーキーにするまでもない感じ。
だから大泉洋の軽みがふさわしいということか。

ちょっと音楽がマカロニウエスタンっぽい。
京の都が碁盤目状に道が縦横に走っているのは有名だが、その地形を山場で生かした。





「雪の花 ともに在りて」

2025年02月04日 | 映画
小泉堯史というとまず黒澤明の弟子としての印象が強いが、強いて自己主張するのではなく今でもスタッフの一員としてあり、とにかく丁寧な仕事ぶりを彼らから引き出すというか、言われなくても丁寧な仕事をするスタッフの集団に中にいる印象。
日本の美、風景美、建築美、衣装美ほか掛け軸ひとつにも神経が行き届いている。

疱瘡を生で見せずに絵で代用しているのは良くも悪くもグロを避けたということか。

チンピラたちを叩き伏せたり、「赤ひげ」のパロディめいたところがある。世の関節が外れているのだといった「ハムレット」っぽいセリフは「蜘蛛巣城」「乱」といったシェイクスピアの翻案への連想を誘う。

「赤ひげ」でいうとまず加山雄三が三船敏郎の赤ひげに反抗してから次第に心服していくのがドラマになるのだが、初めから心服しているみたい。

セリフが聞き取りやすいのは黒澤に似なくてよかった。





「トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦」

2025年02月03日 | 映画
九龍城砦の壮大緻密なセットが目を奪う。
上下方向にも立体的に伸びているのだから、迷路のようというのも足りない。
しかしおそらく実在した建築物なのだから今はない幻想を想像させてやまない。

主人公陳洛軍が城砦で見つけた三人の仲間はとっぴな連想か知らないが三国志を思わせたりする。
気功を操る敵とはいえ一人の敵に四人がかりでよってたかってというのは「プロジェクトA」のクライマックスが敵ひとりに三人がかりだったのと通じて、不思議と卑怯と思わせないのは、それだけ敵が強いせいもあるが、カオスそのものが相手という趣があるからかもしれない。


「嗤う蟲」

2025年02月02日 | 映画
街から村に越してきた夫婦が村人たちに囲い込まれて夫もだんだん洗脳されていき妻が孤立していく、ちょっと「ローズマリーの赤ちゃん」みたいではあるけれど、赤ちゃんがふつうの人間な分、まだしもではあります。
ただ田舎ホラーとなるとアメリカのデカさには及ばない。

ホラーで回想を使うというのはあまりそぐわない気がする。現在進行形で次どうなるかわからないのが怖いという面はあるから。

村で麻を温室で栽培していると思しいのだが、この映画そのものの撮影にあたって大麻取締法にどう対応しているのだろう。




「366日」

2025年01月31日 | 映画
大きくSONYのタイトルが出たかと思うと、ポータブルMD(ミニディスク)プレイヤーのアップになる。もちろんSONY製。MDとは珍しいと思ったら、なんと全編出てくるポータブルプレイヤーはすべてMD方式。MD以外の、ウォークマンとかiPodとかは一切出てこない。
ずいぶん不思議な世界観があったもので、不思議といったらイヤホンで聞いている当の音楽がどんなものなのか、具体的な曲はほぼ出てこない。最後の方でかかるまでとっておいてあったらしい。

カット割りはトレンディドラマ風にふたり並べて離して撮ってから、両者のアップの切り返しの繰り返しが基本。こうも律儀にルールを決めているのも珍しい。

なんだか、赤楚衛二と中島裕翔の顔がほぼ同じに見える。上白石萌歌と上白石萌音と同じくらい同じに見える。髪型くらい変化をつけてもよさそうなもの。

原作は「366日」物語委員会となっている。「鬼滅の刃」の脚本がunforgetableと個人名ではなくグループ名になっていたのを思わせる。

上白石萌歌が赤楚衛二の子供を妊娠してそれを知らせないままでいるのと、赤楚衛二が白血病(とはまたクラシックな)を発病しているのを知らせないのといわばすれ違い状態になっているわけだが、両方ともなぜ知らせないのかよくわからない。
赤楚と上白石の東京の部屋の方が沖縄の部屋の方より広いというのもよくわからない。

玉城ティナという実際の沖縄出身の人を使っておいて沖縄出身なのかどうかよくわからないというのも不思議。





「ゴールドフィンガー 巨大金融詐欺事件」

2025年01月30日 | 映画
トニー・レオンとアンディ・ラウの共演作となると、「インファナル・アフェア」以来だろうが、善人顔のトニーが自分では手を下さない悪人で、強面のアンディが刑事という取り合わせ。

1980年代の香港が舞台とあって、株式市場がまだ人海戦術の場立ちでやっているのが見もの。アナログの方が画になりますね。
裁判官をイギリス人がやっているのが香港がイギリス領だった名残で、裁判官もトニーの陰謀で裁く資格自体をなくしてしまうのがイギリスの没落ひいては香港市場の中国本国の興隆による相対的な没落となっている。

イギリスに逃げた囚人が証言をアンディに求められ香港行きの飛行機に乗る前に消されると怯えるあたり、合法的な手続きを踏まなくてはいけない警察と踏まなくていい黒社会との違いを端的に見せる。





「アプレンティス ドナルド・トランプの創り方」

2025年01月29日 | 映画
ロイ・コーンが弟子(Apprentice)にあたるドナルド・トランプに勝つための三つのルールを伝授する。つまり1 攻撃、攻撃、攻撃 2 非を絶対に認めるな 3 勝利を主張し続けろ というもの。

負けたと言わなければ負けたことにはならないという屁理屈は確かに「効果」があるといえばあるので、要するに性善説の上にフェア・プレイが行われているという一応の前提・約束事をひっくり返しているわけで、いったん横紙破り、ルール違反をされるとそこから後はなんでもありになってしまう。

今の日本でもしばしば見受けられる、悪目立ちであろうがなんだろうがやったもの勝ち、勝てば総取り、負けたら負けた側も共倒れで、結局そうすると全体とすると目減りして切り捨てられるのは余力のない方ということになる。

トランプの兄の依存症に悩まされるあたりも描かれるのだが、結局共感力不足ゆえに切り捨てて済ませてしまう。

トランプがたびたび資金がショートしたりして経営そのものはおよそ手堅くはないのをはっきり描いている。

後半は背景や調度品が贅沢きわまるものになっていくが、この映画の製作陣はどうやってそれらを用意したのだろう。

この映画はアンチトランプにもトランプ支持層にもおおむね受け入れられているという。
ひとつはトランプが個人的なパーソナリティよりはアメリカ的資本主義的な論理のひとつの行き着く先のモンスター化を示しているからで、教えを引き継いでいるのに受け継いだものを渡そうはしない、





「敵」

2025年01月28日 | 映画
繰り返される悪夢的な場面展開にハイコントラストな白黒画面が効いている。白黒だと抽象化されるので現実なのか夢なのか幻想なのか境目なく行き来できる。

儀介はMac(というちょっとハイブロウ?な機器を使っている)に送られてくるスパム類を初めは捨てているのだが、うっかり?クリックしてしまうと、画面が意味不明の記号の洪水の中に難民移民といった意味が部分的に通じるフレーズが混じる状態になるのがたとえばコンピューターウィルス感染を思わせるし、昨今の難民移民を時には妄想混じりで敵視する傾向を逆に照射しているようでもある。

歳のわりにIT機器に慣れてる感じだが、これから後、Macは電源を落として手書きの文字で遺書をしたためるようになる。
器用に料理をこなしているのは大学の専門が仏文というのと関係しているのか、IHクッキングヒーターを使っているのは老化に伴って炎が服に燃え移らないよう予防するためだろうが、妻の生前からやっていたのかどうか。

ひとりで住むにはやや広すぎる家で、たくさんの蔵書が至る所にあって死んだ後それらの本の整理を心配していたりする。あれが電子書籍だったらややこしいだろうな。





「エストニアの聖なるカンフーマスター」

2025年01月27日 | 映画
タイトルそのまんまの内容。
ぶっとんでいるには違いないが、なんだか素朴手作り感もある。
ただし肝腎のカンフーがショボい。

ポップカルチャーが禁じられたソ連占領下のエストニアを舞台にしていて、バカにでかいラジカセでブラックサバスを聞くのと、出てくる大半が聖職者たちというのがカオス気味。