白黒画面なのでリプリーシリーズでも「太陽がいっぱい」みたいに地中海とヨットを明るく燦々と輝く太陽のもとに描いているわけではない。
代わりにたびたび画面を占めるのは立ちふさがるような階段の上下差や切り立った崖沿いの道路で、イタリアといえば美術だが、美術館の展示も視線を遮るものとして機能していると思しい。
淀川長治が「太陽がいっぱい」について同性愛的モチーフがあることを公開当時すでに指摘していたが、ここでは金持ち青年が自分からぼくは同性愛ではないと(口では)否定する。しかし、リプリーの方ではそう告白されたとウソ?をつくし、リプリー役のアンドリュー・スコット自身は自分はゲイだと公言している。
余談だが、公開間近のスコット主演作「異人たち」のスコットの役柄も監督も同性愛者。
そこで原作を(やっと!)読んでみたらかなりはっきり同性愛的ニュアンスがあるのがわかる。パトリシア・ハイスミスが同性愛者というのは今では周知の事実。
原作ではリプリーは女のキャラクターであるマージに手紙で「ホモ以下」と罵られていたりする。
なお、マージはこのミニシリーズでも原作でもかなり気が強くマリー・ラフォレみたいにアラン・ドロンに転んだりはしない。ダコタ・ファニングですからね。
「太陽がいっぱい」の撮影を担当したアンリ・ドカエが「日本での七夜」撮影で来日した時のキネマ旬報の白井佳夫によるインタビューで日本の映画評論家(淀川さんのことね)による同性愛的モチーフの指摘を受けて、ドカエは「あるかもしれませんね。いや、大いにありうるでしょうね」と答えている。脚本の
ポール・ジェゴフも監督のルネ・クレマンも結婚しているけれど同性愛的体質はあるとのこと。
ハイスミスの原作(と今回のミニシリーズ化)と「太陽がいっぱい」との差異はかなり多くて、たとえば犯行が行われるのは小さなボートでヨットではない。「太陽」といえば金持ちらしくヨットの印象で(あのラスト!)同時に金持ちと貧乏人とのコントラストにシフトした分、セクシュアリティの比重は当時の日本では軽くなったか。
あと二番目に殺されるのが今回は女になっていた。「太陽」では撲殺するのに変な布袋像みたいなのを使ってたが、今回は原作通りガラスの灰皿。
最初の殺しでナイフでぐさっとやるのを性的な裏目読みしたくなる(なおナイフと撲殺の違いも淀川さんは指摘しています)
自分の正体を消し去って他人になりすますというモチーフは、宮部みゆき「火車」などを経てかなり現代的に思える。