本日、石材店からの請求額を指定口座に振り込み、墓じまいは完了しました。
2015年に実家を売却し、2023年に墓じまいをし、これで故郷から痕跡が消えました。
とは言っても完全に消えたわけではなくて、本籍は実家の住所のまま、それと菩提寺の檀家であることは今までと変わらず継続となりました。
と言うことで、指先1本くらい(?)残っています。
墓じまいを進める際、続柄を正確に知る必要が出てきたので、家系図を作りました。登場人物はたかだか15人ほど。この家系図のことは記事にしました。
2~4代と3代続けて養子を迎えているので、男子があまり生まれなかったようです。
さらに時系列で見ればどうなるんだろうという興味も出てきたので、年表も作りました。こちらの方はいささか難儀しましたが、なんとか戸籍謄本から情報を読み取って、時系列に並べてみました。
そこに明治維新とか、戦争などの大きな出来事を書き加えてみると、さらに興味深いです。
年表から判明したこと。
豆パパ家の初代(高祖父)は江戸時代の天明2(1782)年頃の生まれなので、今から240年ほど昔、そこから家の歴史が始まったと言えそうです。
そして2代目から4代目まで、3代(4人・・1人死去)続けて養子を迎えていますので、如何に「家」を存続させようと努力してきたのか、あらためて知ることができました。
ところで、累代墓から取り出す骨壷は7個を想定していましたが、実際には8個ありました。個人墓と累代墓の建立日から推定すると7個だったのですが・・?
1個多い・・・・とすると、この1個は誰のだろう???
また、すべて大人の遺骨です。個人墓の2基は地蔵なのでこどものお墓です。過去帳に載っているこども(私から見て大伯母)は1人だけなので、もう1人は記されなかったことになります。
昔はそんなことも一般的にあったようです。
8個を新しい方から数えていくと、最も古いのは曾祖父の後妻さんになります。しかし、後妻さんのお墓は生前の希望により実家に近い場所にあるのです。これが謎でした。
結果として、1個多いと思われたその遺骨は、曾祖父の後妻さんの遺骨と判断しました。まず昔は土葬が一般的でしたが、ある時期から火葬されるようになったと考えると、曾祖父の後妻さんとするのが妥当。
そして離れた場所の後妻さんの個人墓は・・・実は「空」になっていることが判明。
ただ、お墓を建てたときには納骨したはずなのですよね。ある時期に累代墓に移したとしか考えられません。
ある時期とは、曾祖父の一周忌と後妻さんの十七回忌が同じ年なので、そのときに後妻さんの遺骨を移したのでしょう。
それでも後妻さんの生前の希望があったので、墓碑はそのままになりました。つまり魂が2か所に分散したとも言えます。これが今から95年前のこと。
私は個人墓は土葬で、累代墓は火葬と単純に考えていたのですが、自治体管理の墓地は区画が狭いですし、火葬が推奨されたのでしょう。大正初期には火葬される率が上がりつつありました。
これでいろいろすっきりし、後に尾を引くことなく、「完了」となりました。
2015年に実家を売却し、2023年に墓じまいをし、これで故郷から痕跡が消えました。
とは言っても完全に消えたわけではなくて、本籍は実家の住所のまま、それと菩提寺の檀家であることは今までと変わらず継続となりました。
と言うことで、指先1本くらい(?)残っています。
墓じまいを進める際、続柄を正確に知る必要が出てきたので、家系図を作りました。登場人物はたかだか15人ほど。この家系図のことは記事にしました。
2~4代と3代続けて養子を迎えているので、男子があまり生まれなかったようです。
さらに時系列で見ればどうなるんだろうという興味も出てきたので、年表も作りました。こちらの方はいささか難儀しましたが、なんとか戸籍謄本から情報を読み取って、時系列に並べてみました。
そこに明治維新とか、戦争などの大きな出来事を書き加えてみると、さらに興味深いです。
年表から判明したこと。
豆パパ家の初代(高祖父)は江戸時代の天明2(1782)年頃の生まれなので、今から240年ほど昔、そこから家の歴史が始まったと言えそうです。
そして2代目から4代目まで、3代(4人・・1人死去)続けて養子を迎えていますので、如何に「家」を存続させようと努力してきたのか、あらためて知ることができました。
ところで、累代墓から取り出す骨壷は7個を想定していましたが、実際には8個ありました。個人墓と累代墓の建立日から推定すると7個だったのですが・・?
1個多い・・・・とすると、この1個は誰のだろう???
また、すべて大人の遺骨です。個人墓の2基は地蔵なのでこどものお墓です。過去帳に載っているこども(私から見て大伯母)は1人だけなので、もう1人は記されなかったことになります。
昔はそんなことも一般的にあったようです。
8個を新しい方から数えていくと、最も古いのは曾祖父の後妻さんになります。しかし、後妻さんのお墓は生前の希望により実家に近い場所にあるのです。これが謎でした。
結果として、1個多いと思われたその遺骨は、曾祖父の後妻さんの遺骨と判断しました。まず昔は土葬が一般的でしたが、ある時期から火葬されるようになったと考えると、曾祖父の後妻さんとするのが妥当。
そして離れた場所の後妻さんの個人墓は・・・実は「空」になっていることが判明。
ただ、お墓を建てたときには納骨したはずなのですよね。ある時期に累代墓に移したとしか考えられません。
ある時期とは、曾祖父の一周忌と後妻さんの十七回忌が同じ年なので、そのときに後妻さんの遺骨を移したのでしょう。
それでも後妻さんの生前の希望があったので、墓碑はそのままになりました。つまり魂が2か所に分散したとも言えます。これが今から95年前のこと。
私は個人墓は土葬で、累代墓は火葬と単純に考えていたのですが、自治体管理の墓地は区画が狭いですし、火葬が推奨されたのでしょう。大正初期には火葬される率が上がりつつありました。
これでいろいろすっきりし、後に尾を引くことなく、「完了」となりました。