豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

千鳥ヶ淵 桜

2009年04月07日 | 東京を歩く

 入学式が行われた武道館への道すがら、千鳥ヶ淵の桜を撮ってきた。

 今週の初めから東京の桜はほぼ満開となった。東京では、4月初旬の入学式前によく雨が降るので、桜は散ってしまっている年も少なくないのだが、今年の新入生は幸運に恵まれた。

 花びらをたたえた枝をお堀に向かって長く伸ばした千鳥ヶ淵の桜は、東京の桜の中で僕が一番好きな桜のある風景である。

 ただし、暖冬だったせいか、今年の桜は、花びらの色合いが白けていて、少し華やかさに欠けているように思う。

 学生時代、同じキャンパスにあった付属高校の女の子をデートに誘って、この千鳥ヶ淵にボートを漕ぎにきたこともある。
 学年は2年下だったから、彼女も56、7歳である。どこで何をしているのだろう。

西武不動産営業所、再び

2009年04月07日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 《 軽井沢高原バス 廃線バス停の旅 [12・終] 》 

 “黒橋”から、懐かしの“立教女学院キャンプ場”方面へ左折するのではなく、右に曲がって、もう一度ふりだしの“西武不動産営業所”に戻った。
 
 現在の西武不動産営業所の山小屋風の建物の写真をアップして、今回の《軽井沢高原バス 廃線バス停の旅》を終わることにする。

  ちょうど、ガイダンス期間も終わり、新学期も始まるところである。


 * 写真は、以前、夏休みに撮った西武不動産千ヶ滝営業所。この直後に激しい夕立ちに見舞われた。

 2009/4/7 

立教村

2009年04月07日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 《 軽井沢高原バス 廃線バス停の旅・11 》

 “蜩の里”から勾配の急な坂(ただし横道下に至る坂道ほど曲がりくねってはいない)を下りきったところを右折すると、“立教村”バス停である。

 ここも右折する角がごみ収集所になっている。
 そのせいか、おととしの秋に来たときには、この辺にサルが出没しており、町役場の巡回車が出て、注意を呼びかけていた。

 ここがなぜ“立教村”と呼ばれることになったのかは分からない。
 少し北側に行くと、“立教女学院キャンプ場”などというバス停もあるから、分譲時に、この辺り一帯を立教の関係者がまとめて購入したのかもしれない。

 “立教村”と名づけたのは、明らかに北軽井沢の“法政村”の真似だろう。
 “法政村”のほうは、谷川徹三、野上弥生子、矢内原伊作ら、錚々たる顔ぶれがそろって、それこそ「村」共同体を作っていたらしいが、“立教村”にはそのような雰囲気はなかったように思う。

 北軽井沢の“法政村”のことは、野上弥生子や岸田今日子の随筆などに描かれている。
 岸田今日子の本は、姉の岸田衿子との共著で、『ふたりの山小屋だより』(文春文庫)という。偶然だろうが、岸田今日子は立教女学院(当時は立教高等女学校)の卒業生だった。

 さて、“立教村”には何の思い出もないけれど、“立教女学院キャンプ場”は、高校時代の僕を刺激するのに十分な名前だった。

 学期中、吉祥寺に向かう通学のバスで見初めた立教女学院の女の子と、夏休みにこの軽井沢の“立教女学院キャンプ場”の辺りでばったり出会えたら、きっと“避暑地の出来事”のような展開になるのではないか、などと妄想したものである。

 しかし、現実には、そのような出会いの機会が訪れることはなかった。それどころか、この“立教女学院キャンプ場”で女学生たちがキャンプをしているのを見たこともない。
 そもそも、立教女学院はここをキャンプ場として使っていたのかどうかさえ怪しい。本当は“立教女学院キャンプ場予定地”のまま終わったのではないだろうか。

 いずれにしろ、“立教村”で、西武高原バスの廃止区間は終わりである。

 中軽井沢駅方面から来たバスは、今までのように“西武不動産営業所前”を直進して横道下、1000メートル林道に向かうのではなく、営業所でで右折して北に向かい、次の“黒橋”からは、“立教女学院キャンプ場”などを経て、セゾン美術館、軽井沢スケートセンターに至る。
 
 したがって、《軽井沢高原バス 廃線バス停》は“立教村”で最後ということになる。
 どのバス停の看板も、ペンキの塗直しも、曲がったポールの修理もされないままで、かなりくたびれている印象だった。

 * 写真は、“立教村”バス停の看板。なぜか下り(スケートセンター方面行き)は白で、上り(蜩の里方面行き)は黄色の看板だった。アップしたのは黄色いほう。

 2009/4/7