豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

フランク・キュプラ監督 “我が家の楽園”

2009年08月13日 | 映画
 
 8月13日 軽井沢、夜。

 フランク・キュプラ監督“我が家の楽園”(1938年)を観た。

 工場建設のために住宅街を地上げする会社経営者の息子(ジェームス・スチュアート)と、立ち退きを拒否している一家の娘(ジーン・アーサー)とのアメリカ版ロメオとジュリエット。

 アメリカ人の好きないわゆる“Heart Warming Story”ものと期待したのだが、経営者夫婦が娘の家を訪ねるシーンなど、ただのスラップ・スティックにすぎなかった。
 アメリカ人はあんなものが好きなのだろうか?

 ラスト・シーンも、あまりにも単純な「和解」である。
 しかも、ケース・カバーの写真は、立ち退きを拒否する一家の主人と立ち退きを迫っていた経営者とがハーモニカを吹きながら握手しているシーンと、ジェームス・スチュアートとジーン・アーサーが笑顔で抱き合うシーン。
 これでは、結末がどうなるのだろうかというスリルも味わいようがない。

 原題は“You Can’t Take it with You”となっている。どんな意味なのだろうか。会社経営者が金儲けに奔走し、友人まで倒産に追いやっているようでは手に入れることができないものがある、というようなことか・・・。

“我等の生涯の最良の年”や“素晴らしき哉、人生”などのような爽やかな読後感は得られなかった。

 * 写真は、フランク・キュプラ監督“我が家の楽園”のケース・カバー(Keep、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”)。

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カローラ・ランクス、20,000キロ

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日 軽井沢、夕方。

 ところで、(かつての)軽井沢スケートセンターからの帰り道、千ヶ滝西区の“立教女学院キャンプ場前”を通過した瞬間に、わがカローラ・ランクスの走行距離が20,000kmに到達した。購入からほぼ5年である。

 思い出深い場所での記録となった。

 2009/8/13

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軽井沢スケートセンターが廃業してた!

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日、夕方、軽井沢スケート・センター近くの親戚の別荘を訪ねた帰りに、スケート・センター(実は跡地だった!)に行ってみた。

 かつてプール(その後はボウリング場)のあった所も、軽井沢名物の楽焼の窯のあった所(その後はスケートセンター・ホテルの入り口)も鎖で閉ざされていた。
 旧ボウリング場の階段を下りると、千ヶ滝スケートセンターホテル入口に、「2009年3月31日をもって営業を終了します」という掲示板が置いてあった。

 今年の3月31日で終了したのは、西武高原バス千ヶ滝西区線だけでなかったのだ!
 分かっていれば、3月に軽井沢に行ったときに写真を撮っておいたのに・・・。

 一番下の駐車場に行くと、千ヶ滝温泉の入り口だけになっていて、湯上りの女の子が携帯をもてあそんでいたが、右側のゲームや卓球台なとのあった所は、これまた板戸で閉鎖されていた。

 外からは見えなかったが、アイススケート・リンクもやっていないのだろう。
 冬の間は屋外スケートリンクだったところが、夏場はボート池になり、スピーカーからハワイアンなんかが流れていた。

 毎夏、8月初旬に渡辺プロの“真夏の夜の夢”というショーも、この池のボート乗り場に作られた特設舞台で開かれた。
 昭和30年代初期には入場無料で、コカコーラまでただでくれた。
 クレイジー・キャッツやザ・ピーナッツなどが出演し、後に有料になってからは、タイガースが来たこともある。太田裕美やハイファイセットが来た記憶もある。

 かつて世界スピードスケート選手権も開催された軽井沢スケートセンターが廃業してしまうなんて・・・。
 リンクではスピードの鈴木恵一が練習しているのを見かけたし、1969年か1970年の夏合宿では、西武鉄道アイスホッケー部の岩本主将から試合を申し込まれたこともあった。

 東京でも、東伏見のスケートリンクが、西武(国土計画)の手を離れ、サントリーからダイドー・ドリンコに移るなど、西武はまさに孤城落日の感がある。
 それを考えれば、それほど繁盛しているとは思えない軽井沢スケートセンターが廃業するのも意外ではない。
 
 それにしても、草軽鉄道にはじまって、三笠書房、明治屋、明治牛乳、西武百貨店軽井沢店、東京医大夏季診療所、紀ノ国屋、軽井沢駅舎、中軽井沢駅前観光案内所、千ヶ滝プリンスホテル、グリーンホテル、観翠楼、星野温泉など、昭和の軽井沢はどんどん消えていってしまう。

 * 写真は、廃業してしまった軽井沢スケートセンター。インドアのスケート・リンクを上から見下ろした。

 2009/8/13

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森臨太郎『イギリスの医療は問いかける』--8月13日の軽井沢

2009年08月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月13日(木) 軽井沢、2日目。 

 快晴。とくに午前中は真夏の浅間山がくっきりと見えていた。

 きょうのお勉強は、森臨太郎著(森林太郎=鴎外ではない)『イギリスの医療は問いかける――「良きバランス」へ向けた戦略』(医学書院、2008年)を読了。

 ベバリッジ報告書にもとづくNHS(ナショナル・ヘルス・サービス)の創設から、1970年代後半からのサッチャー政権による医療の合理化、その反動として1990年代に行われたブレア政権による医療改革、というイギリスの戦後医療の歴史を概観する。
 イギリスに行った人は大体“イギリスびいき”になるが(“イギリスびいき”だからイギリスに行くのかも・・・)、この本の著者もおおむねイギリスの医療制度を肯定的に描いている。
 サッチャー時代の合理化(医療費がG7で最低になった!)でさえ、労働党政権時代の官僚的なNHS運営を改革したものとして肯定的に語っている。
 NHSは雇用人員130万人、世界で4番目に巨大な組織だと聞くと(本書90ページ)、確かに効率が悪いのかとも思う。著者はイギリスの医療制度を繰り返し「社会主義的」というが、官僚制を「社会主義」の主要な指標と見ればイギリスのNHSは立派な「社会主義」だろう。

 この点では、わが日本も十分に「社会主義」国家の資格がある。とにかく「国民皆保険」を実現させたのだから。
 マイケル・ムーアの“シッコ”では、皆保険化に反対するニクソンらの共和党政治家たちが、「皆保険になったらアメリカの医療は社会主義になってしまう」とアジっていた。
 しかし、医療の皆保険化によって厚生省は利権を獲得し、日本の医療は官僚制の餌食となってしまった。行政改革に抵抗するニッポンの官僚たちの姿は、ソ連の官僚を彷彿とさせる。

 イギリスでは外来の待ち時間が数時間とか、手術の待機日数が数ヶ月などという話をよく耳にするが、この本の著者によれば、それは「トリアージ」(優先順位づけ)がしっかりしているからだという(本書33ページ)。
 確かに、数時間待ちで患者がバタバタ死にでもしたら、イギリスでも社会問題になるだろう。そうならないのは、待たされても死ぬことはない患者(?)が待たされているだけのことなのだろう。

 わが“Mr. Bean”(豆豆先生)にも、診療所での待ち時間を背景にしたものがあった。
 順番の遅いBean氏が、手にギブスをつけられた子どもから早い順番のカードを騙し取るけれど、ポットの口から手が抜けなくなってしまうという話だった。

 昼間は混んでいるからといって、夜間の小児救急に平然とやって来ても順番で診察してもらえるニッポンのほうが異常なのかもしれない。

 そのほかにも、外国人医療者の増加などイギリスの医療にもいろいろな問題があるが、地域の家庭医を基本とする医療の段階化をはじめとして、イギリスの医療制度から学ぶものはたくさんあるだろう。
 NHS傘下の医師の年収が、初年度の研修医で526万円(1ポンド=250円換算)、最高のコンサルタント医でも2421万円というのも(本書15ページ)、リーズナブルである。

 もちろん、平均的にみて日本の医療制度がそれほど悪くないという著者の評価には異論はない。
 ただし、わが国の医療制度は開業医にきわめて甘く、病院勤務医に過剰な負担をかけており、まじめな病院勤務医の良心によって辛うじて維持されていることは明白である。早急に何とかしないと、わが医療の崩壊も時間の問題である。
 マイケル・ムーアの“シッコ”に描かれているアメリカの医療のような状態に陥らないことを祈るばかりである。

 * 写真は、今日の浅間山。“ツルヤ”から中軽井沢へ向かう道の途中で。ちょうど新幹線が通過した。車窓から撮影(渋滞で停車中)。

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